正直こんな人がいたのかと驚くと共に自分の無知を恥じた。中身は含蓄があってよかった。
田中は一高帝大で教養主義のもと法学に専心。商法の民放に対する独立性を確立する商法学者だった田中は、法の技術的側面(⇔倫理)から、普遍的自然法は技術的な法律を端緒として統一された世界法として各国内法に浸潤していくという
...続きを読む見方を取った。
その後は東大法学部の重鎮として滝川事件から平賀粛学まで「大学の自治」維持に関わり、戦後は天皇周辺の同心会から天皇制の擁護、また文相や参院議員としてGHQと協力して教育改革(教職員適格審査/教育勅語廃止/教育権独立)を実行した。この中で憲法に自然法的観念を見出した。
最高裁長官として、反動主義と罵られながらも司法行政の構築に尽力した。具体的には反共のもと法廷闘争からの独立や、憲法の番人として復古主義的政治からの司法権独立(滞留件数問題)を志した。「世間の雑音」に惑わされるなという言葉も出色だ。砂川事件の統治行為論も司法権独立の確立の中で作られたものだとは知らなかった。
また、国際司法裁判所裁判官としても10年在職した。世界法の体現者として南西アフリカ問題や裁判所の機能強化にあたった。
筆者が行政学者だったこともあり、田中と行政の関係に疑問を覚えたが、納得の読後感だった。制度の確立では、「技術的範囲において」独立性が担保されなければならないという田中の人生の原則はそっくりそのまま行政に当てはまるといえよう。田中は商法、大学、教育、司法で独立を志向していた。筆者は田中を描くことで政治化する行政を批判しているのだ。確かに技術的分野では1つの答えがあり、合理的アプローチをとるには独立性を担保することが最重要だ。その意味で官僚制や大学、司法は民主主義であってはならない。
しかし、技術的分野でないところはどうだろう。田中はカトリック的価値観から自然法の普遍性を自明とし、法の世界的統一を志向していたが、法の倫理的側面を軽視しすぎではないかという気がしないでもない。手形法のような度量衡的なものは合理性の観点から統一した方がいいが、自分は民族固有の事情ゆえの多様性が憲法などの「社会の倫理を体現する」法にはあっていいと思う。ただ、国際文化運動に代表されるように田中はそういう見方を拒否した。田中は「人類皆同胞」というカトリック主義的価値観に基づき、普遍的自然法の、法律に対する普遍性を確信していたのだろう。その部分は自分と相いれないと思う。「世界法の理論」をもとに、田中の思想延いては法思想をもっと理解していきたい。