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この資本主義社会を倫理的に生きることは可能か? 《愛し、赦し、共に生きるための「究極のリベラルアーツ」。7人の学生と神学教授が、12の対話の果てに見つけたものとは? ―― 国際基督教大学の必須教養科目を書籍化》
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Posted by ブクログ
ICU名物?の「キリスト教概論」という講義を書籍化したもの。教授と生徒たちが対話しながらテーマを深掘りしていく。 生徒は10人くらい出てくるのだけど、全員いい塩梅に主義が異なっているから抵抗なく読めた。ゴリゴリのクリスチャンもいれば、敬語が苦手な純粋なギャルも、沈着冷静な無神論者も、「神的な存在...続きを読む」はあると思うけどそれがイエスかというとそれはまたなんか違うのよね派も、いろいろ出てくる。みんな、互いの意見に踏み込むことなく、自分はこう思う、あなたとは意見が異なる、と冷静に話す。あぁ、確かこんな感じだったな、と、本当の授業を聞いているような懐かしい感覚になった。 ICUを卒業してもうすぐ15年になる。どんな相手でも一定の敬意と距離を保って理性的な会話をすることに少なくとも努めようとする人間が、現実世界にあまりにも少ないことに絶望する。あなたはこう思う、でも私はこう思う、なるほど、違うね、理解した。このシンプルなやり取りってそんなに難しいですかと毎日のように思う。近い関係になればなるほど同じ方向を向いていないといけないみたいなあの空気、どっからきたの? みんなで同じ方向へ笑顔で突き進んでいく方が北朝鮮みたいでよっぽど不気味じゃん。 在学中、少なくない数の在学生たちが、ICUはIsolated Crazy Utopiaの略称だと愛を込めて揶揄していた。卒業して、現実に籍を移して、あぁ、 あの空間は本当にユートピアだったなと思う。授業中に少しでもヘラヘラしていると「この大学で勉強できる喜びを感じたことないの?」とか真剣に怒ってくる同級生の将来有望な眼差しに辟易して喫煙所に入り浸ってばかりだったけれど、相手の意見をそのまま受け止めることができず、それどころかこれみよがしに、得意げに、自分の意見を力技で被せてこようとする人間があまりにも多いこの世界は、あの眼差しの何倍も、何億倍もしんどい。自分の立ち位置を変えずに踏ん張ること自体が既に労力を使う。「論破」とか、意見のすり合わせという名目で行われる価値観の押し売りとか、そういう低次元なことに心血を注ぐ必要の一切ないあの武蔵境のユートピアに、今の私は帰りたいと切に願ってしまう。
高橋昌一郎が用いる複数の登場人物による対話形式と似たようなスタイルで、教授を筆頭に様々な登場人物に著者がなりきる「哲学的対話」の形式が取られている本だ。この手の形式は、多面的な意見に触れられる一方で、「答えがない」ものを容認する所があり、本の中で考察を深めていくというよりも、あらゆる立場と視点がある...続きを読む事を認識する内容で、得意ではない。10という数字を考える際に、5という立場の人が自らの差を5だと言っていて、4の立場は6だと言っているだけ。設定が恣意的で誇張しすぎるというのがこの手の傾向だ。高橋昌一郎だと〇〇主義者など、明らかな立場を設定していた。 内容自体は面白いのだが、どこまでいってもデフォルメ化した登場人物による思考実験。本来、人間は主義や立ち位置にグラデーションがかっていて、対話の中で変質していくものだが、この手の本には思考実験的な要素により主義主張の変容というのが推奨されない。黒と決めたら黒で意見を言い続けるという設定が有用だ。宗教観や死生観、神への祈りの意味、売春は良いのかなどの具体的なテーマについて、対話していく。 この本でも取り上げられるテーマ、偶像崇拝は禁止だという宗教について。これに対して、私が常々思うのは、「言葉は偶像だ」という事での戒律の矛盾についてだ。偶像崇拝の禁止は、特定の宗教において非常に重要な教義の一つであり、神を具体的な形や物質で表現することは冒涜行為だとしている。神は人間の理解を超えた存在である、という事は、人間の言葉で理解できるものではない。それは人間の価値観に当てはめて善悪を語れるものでもないという事でもある。極端に例えるなら、原爆で人間を滅ばすのは悪魔か。一見悪魔のようだが、人間自体が動物を食い殺す悪魔なので、神は人間の数を減らそうとしたのかもしれない。つまり、人間には人間社会の価値観に当てはめて好き勝手に神を想像する事しかできやしない。故に私は不可知論者なわけだが、神の解釈を生業にする神学者とは、そもそも相容れないのかもしれない。 ― そう考えると、祈りとは、まさに「自らの有限性の自覚」に由来するものである、と言えそうです。自分の限界を知る存在である。自分の限界を知っている。だから人間は祈る。 私はそう思います。祈る生き物は人間しかない。「ホモ・オーランス(Homo Orans:析る人)」です。祈りは人を人たらしめる本質の一つなのではないでしょうか。つまり、祈りというのは、なにも、信仰者だけがするものではないのです。信仰のあるなしにかかわらず、自分の限界を知る者は祈りたいという気持ちになる。ですから、この世界で「祈り」という言葉がない言語はないそうです。 この点は神学者も不可知論者も一致する所ではないだろうか。自らの世界観では合理的に解決できないから、祈るのだ。
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ICU式「神学的」人生講義 この理不尽な世界で「なぜ」と問う
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魯恩碩
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