著者はまず、乃木坂46のMVにおいてストーリー性への志向が強く見られることを指摘し、そこに見出される「百合」的なイメージに「少女たちだけのユートピア」という意味を認めるとともに、それが「ままならぬ現実」と対置されていると論じます。しかし著者は、「少女たちだけのユートピア」を「ままならぬ現実」からの非難所として理解するのではなく、むしろ彼女たちが取り結ぶ「紐帯」が、「現実」の中へと歩み出していく「希望」につながっていることを指摘します。さらに著者は、映画『超能力研究部の3人』、舞台作品『じょしらく』、ドキュメンタリー映画『悲しみの忘れ方 Documentary of 乃木坂46』を考察の対象とすることで、彼女たちの作品において「虚構」と「現実」の二分法が溶け合っているという主張を展開します。