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時代と国境を越えた平和への祈り 米軍兵士として終戦直後の日本を撮影していた、ハーバート・スサン。 戦後何年も秘されていた原爆のフィルムを世に放ちたいと願うも、叶うことなく生涯を終えた。 40年の月日が経ち、娘のレスリーは父の遺志を継ぐために日本へと向かった―― 当時の記録や被爆者たちの声をもとに書き上げた、圧巻のドキュメンタリー。
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Posted by ブクログ
戦前、南カリフォルニア大学で映画制作を学んだハーブ・スサンは、戦争後始まると入隊したものの、健康上の理由で直接戦闘には参加せず、日本の敗戦が決まると、長崎と広島に行き、原子爆弾が及ぼした影響を撮影することになった。 当初は、破壊された建物などを中心に撮影するはずだったが、スサンは原爆のために身体に酷...続きを読むい火傷を負った人々を見るうちに、凄惨な被爆者の姿も記録に残すべきと考えてカメラを回し続けた。 戦後になってスサンはテレビ番組のプロデューサーとなり、人気番組を制作する一方で、自分が撮影したヒロシマ、ナガサキの記録映像でテレビ番組を作り、核兵器の悲惨さを訴えたいと考えたが、それらの映像は機密文書扱いとなっており、撮影したスサン自身でさえも再び見ることが叶わなかった。 彼の娘であり、本書の著者であるレスリー・スサンは若い頃はベトナム戦争反対のデモに参加するなどしていたが、父とは意見が合わず、早くに家を出てしまった。 1985年9月に父のハーブが亡くなり、弁護士となっていたレスリーはその遺品を整理しているうちに、父がヒロシマやナガサキの映像を残したいという思いを抱き続けていたことを改めて実感し、とうとう娘と二人で日本に行き、しばらく広島に滞在する事を決意する。 この著作は主に父スサンがいかにしてヒロシマ、ナガサキを撮影することになったのか、そして、戦後も記録フィルムの撮影者としてヒロシマやナガサキの人々と関わってきたのかという事を娘のレスリーが、父が実際に訪れた広島に約1年滞在して、そこで被爆者の語り部の人々や、父と親交のあった人々に出会い、父の考えていた事、彼女が原子爆弾や、ヒロシマ、ナガサキ、そして日本という国について感じた事を記録したもの。 単に父親の足跡を辿るというだけでなく、著者のレスリー自身が娘と二人広島に住んで、取材をしたとも言えるので、父と娘の二人の記録が、交互に記述されるような形式になっている。 それ自体は興味深いものになっているが、父の足跡を辿る部分に対して、レスリー自身の体験や感想を語る部分は少し散漫な記述になっている印象を受ける。 80年代半ばに来日し、その時に父のことを本にしようと考えていたものの、完成までに30年以上かかってしまった事が関係しているのかもしれない。 本筋とは関係ないが、広島で撮影中だったスサンが或る人物に会うように指示を受けて東京に戻って会ったのが、来日したばかりのジョン・ハーシーで、スサンは彼に広島で誰に取材するべきかを教えたという。 ジョン・ハーシーはまだ米国政府がヒロシマ、ナガサキについての報道を規制していた時期にヒロシマで様々な人を取材した記録を「ヒロシマ」という記事にして雑誌『ニューヨーカー』に掲載したジャーナリスト。(「ニューヨーカーのその号はこの「ヒロシマ」という記事だけで占められていた) ノンフィクションは色んな部分で他の作品と思わぬリンクが見つかる。
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