”水平方向には日常をとらえ直し、そこからちょっとした垂直方向の突出を可能にする契機もまた伏在している。ゆえに、垂直方向の特権化を批判しつつ、しかし現代的な水平方向の重視に完全に乗るわけでもなく、「斜め」を目指すこと…そのような弁証法的な思考を、精神科臨床、心理臨床、当事者研究、制度論的精神療法、ハイデガー、オープンダイアローグ、依存症といったテーマに即して展開したのが本書のすべてである”(”おわりに”より)
すごく興味深い。
長じて統合失調症を発症する子供の、兆候性に圧倒されながら目立たぬ術を獲得して生きのびようとする、に胸を突かれる。
P6 「心」をめぐる言説の2つのパターンが出来上がった。前者は「心」を高さとの関係から把握し、何らかの理想という高みへと向かうことを是とするものである。そして後者は、「心」を深さとの関係から把握しようとし、啓蒙の光によっていまだ照らし出されていない闇との関係からその深さを測量しようとするものであった。
P8 現代日本において「ケア」と総称されている臨床実践に共通しているのは、高さや深さを重視する垂直方向の臨床に対するアンチテーゼにほかならない。本書で論じたいのは、このような垂直方向から水平方向への転換が、いったいなぜ、そしてどのように生じたのかということである。
P11 垂直性を批判することによって実現された水平性が、いつの間にか私たちを平準化するものとなっていないか?というたえざる問い直しが必要とされるものである。
P56 のちに統合失調症になる子供は「兆候性に圧倒される」。養育者の表情のちょっとした変化に対して過剰に敏感であるのだという。このような生存の女権は、人に合わせたり、対人関係を上手にこなしたりするスキルを子供に獲得させてくれそうに思えるかもしれないが、実際はその逆である。なぜなら次々とあふれ出す兆候にその場その場で対応し続けなければならないということは、一秒たりとも落ち着いていられないということでもある。【中略】このような子供は、学童期には「巧みに目立たぬ術を獲得」しており、いじめの標的になることが少ないと中井は述べている。
P73 病気はたいてい「ふつう」からの逸脱のことだとされている。【中略】しかし「ふつう」すなわちマジョリティの生き方ができるようにするのが治療であるという素朴な考え方は、とりわけ統合失調症者に対しては、時にきわめて過酷なものとなる。元来「ゆとり」がなく「手のかからないよい子」であったり「巧みに目立たぬ術を会得」しなければならなかった患者にとって、マジョリティの生き方に改めて加入することは「行き着くところも経路もわからない、安全を保障されない旅路」に戻ることにほかならない。そのような危険な旅路の中で委縮して生きることは、決してありうべき回復の姿ではない。
P76 韓会期初期の患者は、角を出し始めたカタツムリではなかろうか。角を出したのに喜びすぎて、もう二度と角を引っ込めないように、やっとこで角をつかむ愚は避けたい。我々は、蝸牛の前の意思をのけるなど、一般的には探索行動の邪魔をするものを除くことを第一義とするのがよいのではなかろうか。ただ断崖に臨めばそっと点どうする必要はあるだろう(中井)
P103 「死ぬための思想」は威勢がありかっこよく、しびれる。対するに「生き延びるための思想」は、ダサく、みっともなく、うじうじとカッコ悪い。【中略】ひとは往々にして「死ぬための思想」のほうに絡めとられていってしまう。【中略】だが先に挙げた依存症やトラウマの事例を考えれば理解できるように、実際には「非本来的」とされる生をどのように生き延びていくかにこそ、問うべきことと語るべきことがある。
P136 「何事にも当事者がいるのだから、その当事者に主権を渡そう」という話ではなく、「ひとは最初から当事者であるわけではなく、ニーズを抱えたときに当事者になる」
P158 「苦痛」と「苦労」の対比は、上野千鶴子のいう「死ぬための思想」と「生き延びるための思想」のそれとよく似ている。【中略】死ぬしかないと思えてしまうような煮詰まった状態にある「苦痛」もまた、現実という地に足をつけた「苦労」に変えることができ、その「苦労」を生き延びていくことの中にこそ回復があるのだ。【中略】「一度限り決定的な」大義と結びついた「苦痛」から離れ「そのたびごと」の「苦労」に目を向けることができるようになることこそ、回復なのである。
P184 諸個人の特異性をたちあげることと、水平性を確保することをいかに両立するかが問題である。そのような両立を可能にするいわば斜めの組織や集団の在り方を、ウリはコレクティフと呼んだのである。
P206 ハイデガーによる3つの気遣い ①配慮的な気遣い②顧慮的な気遣い・尽力的顧慮③本来的な顧慮的な気遣い・垂範的顧慮 ②の顧慮的な気遣いにあっては、他者は依存し支配される者となる場合がある
P267 (アディクションアプローチとハームリダクションの間の緊張)ハームリダクションは、初めから水平方向の実践なのである。このことが人口全体の管理へと結びつく危険性に信田は注意を促している。
P269 フーコーによれば、現代では「規律権力」は徐々に「安全装置」と呼ばれるものによって取り替えられつつあるという。この二つの権力には明確な違いがある。安全装置はもはや個人を教育・純化するのではなく、むしろ諸個人の行動を個人に直接介入することなく、時には個人に気づかれることなくコントロールしようとする権力なのである