ノンフィクション - NHKプロジェクトX制作班作品一覧

  • プロジェクトX 挑戦者たち 命輝け ゼロからの出発 決戦 人類最強の敵/日本人リーダー 天然痘と闘う
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    かつて、6千年に渡り人類を苦しめた病があった。「天然痘」。 感染すると、発疹が全身に広がり、激しい痛みをもたらす。奈良の平城京、南米のアステカ文明を壊滅的な状況に追いやった悪魔の病である。今から20年前、その根絶を成し遂げたのは、日本人リーダーに率いられた国際プロジェクトチームだった。  厚生省職員の蟻田功(ありたいさお)。1962年、蟻田は、出張したアフリカで、子供が次々と天然痘の犠牲になる現実に直面 、衝撃を受けた。その後、蟻田はスイス・ジュネーブに飛ぶ。WHO(世界保健機関)の天然痘根絶計画に参加するためだった。しかし、メンバーは何とただ一人。予算もなかった。しかし、蟻田の情熱に打たれ、国も民族も宗教も異なる40人の男性が集結。人類最強の敵との闘いに挑んだ。  しかし、天然痘の最後の巣窟は、ゲリラが跋扈(ばっこ)するアフリカの紛争地帯。しかしプロジェクトメンバーは現地に残り、命がけのワクチン接種を続ける。そして、遂に、天然痘根絶に手が届いたと思われた時、メンバーの一人がゲリラに拉致され、消息を絶ってしまう。  このまま、天然痘根絶は、夢と消えるのか。日本人リーダー蟻田は、その時、想像を絶する決断を下した・・・。  日本人リーダーを中心に、のべ73カ国、20万人が参加し、1980年に成し遂げられた奇跡のプロジェクト、天然痘根絶。その壮大なドラマを描く。

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  • プロジェクトX 挑戦者たち 願いよ届け 運命の大勝負 突風平野 風車よ闘え!/執念がエネルギーを生んだ
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    昭和58年、空前の大ヒットとなった連続ドラマ「おしん」。豪雪が貧困をもたらした山形の中で、さらなる苦しみを背負った町がある。山形県立川町。最上川から吹き付ける強烈な風と格闘を続けてきた。  「立川だけには嫁に出すな」近隣の市町村には嫌な噂があった。  昭和55年、役場の企画課に風プロジェクトが発足。風力発電を行い、そのエネルギーで温室栽培を行い、余った電力を電力会社に売るという日本初の試みが始まった。  早速、小型風車を購入。温室で山菜が実り始めた。  その翌年、科学技術庁から風力発電のモデル地区に選ばれた。国から委託された新型風車で、養豚場のヒーターが回った。 「今度こそ」農家の長南は温室をたて、野菜や花の苗を育て、実用化に備えた。 しかし5年後、新型風車が地吹雪に叩き落とされた。  昭和63年、3度目のチャンスが訪れた。「ふるさと創生一億円」。これを資金に「清川だし」に負けない本格的な風力発電に取り組んだ。しかし、メーカーが出した見積もりは12億円。海外から輸入しようにも前例が無く、国の許可は下りなかった。 しかし企画課の職員は諦めなかった。担当官の前に座り込み、粘り強く交渉を続けた。  そして平成3年、アメリカから巨大風車3機を輸入した。 「清川だし」を見事に受け止め、勢いよく回り始めた。  苦しめられた風を、希望の風に変えた住民達の執念の物語を描く。

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  • プロジェクトX 挑戦者たち 願いよ届け 運命の大勝負 ゆけチャンピイ 奇跡の犬/日本初の盲導犬・愛の物語
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    「一人で自由にどこへでも歩いて行きたい。」昭和32年夏、光を失った若者の夢を叶えた一頭の犬が登場した。名はチャンピイ。日本初の盲導犬となったシェパードである。  チャンピイを育て上げたのは、絶望の淵で出会った二人の若者だった。  18歳で突然失明した河相洌。大学中退を余儀なくされ母の付き添い無しには一歩も外に出歩けなかった。その時、生後半年のチャンピイをもらった。「この犬を訓練して街を歩けないか。」  訓練をかって出たのは塩屋賢一。  しかし、二人の行く手には難問が山積していた。  しかも、盲導犬には高度な判断力が必要だった。しかし、盲導犬育成マニュアルは世界中どこにも存在しなかった。塩屋は手探りで訓練方法を考え出すしかなかった。  そんなある日、塩屋は、妻子そっちのけでチャンピイと24時間寝食を共にすることを決意する。  日本初の盲導犬チャンピイ誕生に命をかけた人々の愛と絆の物語を描く。

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  • プロジェクトX 挑戦者たち 願いよ届け 運命の大勝負 炎を見ろ 赤き城の伝説/首里城・執念の親子瓦
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    かつて、沖縄の地に栄えた琉球王国。その王宮、首里城は「壮麗な赤い城」と呼ばれた。燃えるような朱塗りの柱。深みを帯びた壁の弁殻。そして、気品ある赤瓦の屋根。城は、人々の誇りだった。  しかし、昭和20年の沖縄戦で、城は跡形もなく崩れ去った。戦後、米軍統治のもと、沖縄の風景は激変、伝統の赤瓦の家並みはコンクリート建てになった。「あの伝説の赤い城を取り戻したい。」人々の願いに応え、昭和60年、首里城を復元するプロジェクトが生まれた。  琉球史の研究者・高良倉吉をはじめ、技術者や各分野の専門家が集まった。復元の手がかりは、少なかった。戦前撮影された写真は全て白黒、肝心の赤い色がわからなかった。高良たちは必死に古文書を当たった。ある日、18世紀の首里城改修の記録「寸法記」を発見。そこに記された手がかりをもとに、高良たちは、いにしえの赤を求め、アジアに飛んだ。  さらに最大の課題は、5万5千枚の赤瓦。気品ある赤の色に加えて、吸水率が低い強い瓦を焼く最高の技術が必要とわかった。沖縄中の瓦業者に頼んだが、誰も引き受けなかった。  その時立ち上がったのは、瓦屋の三男坊で画家の奥原崇典。城の復活を夢見る重病の父・崇実に代わり、莫大な借金をして窯を作った。しかし、失敗は4万枚に及ぶ。ある日、寝たきりだった父が工場に現れた・・・  ふるさとの誇りを取り戻すため、幻の赤い城の復活に挑んだ人々のドラマを描く。

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  • プロジェクトX 挑戦者たち 願いよ届け 運命の大勝負 王が眠る 神秘の遺跡/父と息子・執念の吉野ヶ里
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    平成元年2月。佐賀県の小さな丘から発見された弥生時代の遺跡が、日本中の注目を集めた。吉野ヶ里、九州での高い文化の存在を示す巨大遺跡である。わずか2ヶ月で100万人もの観光客を集め、古代史ブームを巻き起こした。その影には地元に住むある親子のドラマがあった。   昭和35年、高校で歴史の教師をしていた七田忠志(47歳)は、土器片が見つかる町はずれの「吉野ヶ里の丘」に興味を示し、息子・忠昭を連れて通 い始めた。「わが故郷には、すごい古代文明があった」。そう確信した忠志は、数多くの論文を発表。しかし、「そんな田舎にあるはずがない」と誰にも相手にされず、失意のうちに亡くなった。   そして、昭和61年、吉野ヶ里に工業団地の建設計画が持ち上がる。それに先立つ発掘調査の指揮を執ったのが、県の文化課に勤めていた息子の忠昭だった。父の夢をつなごうと、5人の若手職員を率いて、発掘を続けた。するとまもなく、巨大な集落跡が出現、日本有数の弥生遺跡であることが明らかになる。しかし、工業団地を造成するブルドーザーがの乗り込み、遺跡の運命は風前の灯火となった。忠昭はわずかな望みをかけ最後の発掘に挑む。そこには日本の歴史を書きかえる世紀の発見が待っていた。   故郷の誇りを取り戻そうと、必死に大地と格闘した親子の30年に渡る情熱の物語を描く。

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  • プロジェクトX 挑戦者たち 翼よ、よみがえれ 翼はよみがえったYS-11 日本初の国産旅客機
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    零戦を始めとする数々の戦闘機を開発し、航空王国と言われた日本。その伝統は、敗戦によって途絶えた。GHQによる航空機の生産・研究・実験の禁止は7年間続き、技術の伝承は最早不可能と誰もが思っていた。  戦後、神戸の職業安定所に並ぶ失業者の中に、英字新聞を片手に順番を待つ男がいた。土井武夫、47歳。戦闘機「飛燕」など、日本で最も多くの航空機の設計に関わった技術者だった。日雇いまがいの仕事をしながらも、土井はもう一度空を飛ぶ夢を捨てきれなかった。  それから10年。通産省は、昭和32年に日本人の手による旅客機開発をぶちあげ、プロジェクトチーム「輸送機設計研究協会(輸研)」を結成した。集まったのは、土井を始めとする50歳を過ぎた「戦闘機」組と、飛行機に乗ったこともない20代の若き技術者だった。両者は、はったりまじりの完成模型(モックアップ)を作り上げ、頭から信用しなかった政府から予算を獲得していった。 完成模型(モックアップ)の完成後、本格的な設計に入ったYS-11。「戦闘機組」と若者の間に立って、実質的に設計を主導した男がいた。東條英機の次男で、新三菱重工の技術部次長だった東條輝雄だった。  欧米とのギャップを熟知していた東條は、「輸研」の設計の誤りを正し、YS-11の試作機を完成させる。昭和37年、戦争から17年の空白の後、日本の翼が初めて空を飛んだ。しかし、試作機は横安定性などの問題を抱えていた。それを克服したのは、あえて東條の部下になり設計に協力し続けた土井武夫と、東條のもとで鍛えられていった若手技術者だった。  昭和40年、ついにYS-11は就航。誰もが不可能と思っていた航空技術の伝承は果たされた。しかし、その伝統はそれ以降、途絶えたままになっている…。

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  • プロジェクトX 挑戦者たち 翼よ、よみがえれ 国境を越えた救出劇大やけど コンスタンチン君・命のリレー
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    1990年8月20日の夕方、旧ソ連のサハリンで、3歳の男の子が大やけどを負った。誤って熱湯が入ったバケツを倒したためだった。コンスタンチンくんの親は、医療技術が進んだ日本で手術が受けられないかと知り合いに相談。北海道庁に連絡を取った。その一本の電話がきっかけで、前例のない超法規的措置が、外務省、法務省、海上保安庁の間で検討されていく。「ビザはどうするのか」「飛行経験のないソ連領空を安全に飛べるのか」「手術に失敗したら日本の恥にならないか」…しかし、関係者は様々な思惑を超えて、見知らぬ幼児の命を救うことを最優先に掲げる。最初の電話からわずか17時間後、海上保安庁の輸送機がサハリンへ飛び、コンスタンチンくんは札幌医科大で手術を受けた。両親は涙ながらに日本人への感謝を述べ、ゴルバチョフ大統領も謝意を表明した。  小さな命を救おうと、東西冷戦末期、日本とソ連との間で交わされた、「善意」のバトンタッチを描く。

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  • プロジェクトX 挑戦者たち 翼よ、よみがえれ 海のかなたの甲子園熱血教師たち・沖縄 涙の初勝利
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    去年春の選抜、甲子園は沖縄尚学の初優勝に沸いた。今や全国屈指の野球王国となった沖縄。その礎を築いたのは、昭和30年代初め、設備も用具も乏しい中で野球に情熱を注いだ若い教師たちだった。  本土が戦後の混乱から立ち直ろうとしていた当時、アメリカ統治下の沖縄は本土から隔絶された「忘れられた島」になろうとしていた。高校野球のレベルにも雲泥の差があった。海の彼方の甲子園は手の届かない夢に過ぎなかった。そんななか、野球を通 じて沖縄の若者たちに勇気を与えようという当時の日本高野連副会長佐伯達夫の呼びかけで、沖縄高野連が結成される。目標は甲子園出場、そして一勝だった。  その中心となって働いたのはまだ新米教師だった首里高監督、福原朝悦。彼は沖縄代表が初めて甲子園に出場できるようになった昭和33年の第40回記念大会、首里を率いて沖縄県のチームとして初めて甲子園の土を踏む。そして5年後、転勤した福原の後を引き継いで首里高監督となったOB徳田安太郎が、那覇高福原と因縁の対決の末、甲子園に出場し沖縄初の全国大会一勝をあげる。沖縄には一大高校野球ブームが盛り上がり、野球王国への道が拓かれていく。戦争の傷跡を胸に高校野球に情熱を注いだ男たちの軌跡を追う。

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  • プロジェクトX 挑戦者たち 翼よ、よみがえれ パンダが日本にやってきたカンカン重病・知られざる11日間
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    1972年9月、日中国交正常化を記念して、中国政府から2頭のパンダ、カンカンとランランが日本に贈られることが決まった。驚いたのは受け入れの決まった上野動物園。当時パンダは「幻の動物」と言われ、日本国内の動物園関係者で飼育方法を知るものはいなかったのである。  急遽、当時の飼育課長・中川志郎をリーダーに「パンダ飼育プロジェクトチーム」が結成された。全員が日本に到着したパンダを見た瞬間、「こんなに大きいのか!」と驚き、未知の珍獣との悪戦苦闘が始まった。  パンダはきわめてデリケートな動物で、ロンドン動物園では過剰人気のストレスからパンダが倒れる事件も起きていた。カンカンとランランが飼育係を受け入れてくれるかどうか、勝負はそこにかかっていた。  飼育係の本間勝男は、信頼関係を築こうとパンダに声を掛け続けた。また獣医の田邉興記はパンダの行動を観察し続けた。試行錯誤が続くなか、来日10日目、オスのカンカンが風邪を引いてしまう。悪化させれば生命の危険があった。そうなれば外交問題になりかねない。しかし、野生の動物に薬を飲ませる事は副作用が心配された。プロジェクトチームは議論の末、ある賭けに出た。  「国賓の動物を死なせるわけにはいかない」という重圧のもとで、パンダプロジェクトチームに参加した飼育のプロたちの懸命な姿を描いていく。

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  • プロジェクトX 挑戦者たち 思いは国境を越えた 大地の子 日本へ中国残留孤児・35年目の再会劇
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    日本と中国、かつて戦火を交えた両国が、国境を超えて協力しあった壮大なプロジェクトがある。戦争の悲劇の象徴と言われた『中国残留孤児』の身元捜しのプロジェクトである。史上例のない、日中協力の一大プロジェクトのドラマ。  昭和48年3月。壮大なプロジェクトの発端となる会が生まれた。『日中友好手をつなぐ会』。それは、一人の男の執念が生み出したものだった。長野県阿智村で寺を営む住職、山本慈昭、73歳。昭和20年5月、最後の満蒙開拓団の教員として、満州に赴いた男である。敗戦の混乱の中、山本はシベリアに抑留、妻と二人の娘は、極寒の満州で亡くなった。330人の開拓団のうち、生きて日本に帰ったのは、わずか42人だった。昭和44年夏、山本は驚くべき事実を知る。中国で死んだと聞かされていた娘の啓江は、中国人に預けてきた、生きているかもしれないというのである。山本は、一人、中国に残された娘を捜し始めた。  孤軍奮闘する山本の周りには、同じ思いの32人が集まった。『日中友好手をつなぐ会』の誕生だった。しかし、時の中国は文化大革命の真っ只中。孤児たちと自由に連絡を取り合うことも出来なかった。しかし、会のメンバーたちは、執念で孤児捜しへの闘いを続けていく。そして、その執念は、最後、感動の奇跡を呼び込むことになった。

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  • プロジェクトX 挑戦者たち 思いは国境を越えた 耳を澄ませ 赤ちゃんの声伝説のパルモア病院誕生
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    現在、世界一低い新生児死亡率を誇る日本。世界で最も安全に出産できる国である。  しかし僅か40年ほど前まで、出産は、赤ん坊にとって人生最大の危機だった。  産婦人科医は母胎に関する知識しかなかった。小児科医は生後一ヶ月以降の赤ん坊しか診られなかった。生まれた直後の新生児専門の医者はいなかった。そのため、30人に1人が出産時に死亡した。生まれ出ても、難産の影響で、脳性麻痺などの身体障害になる者も多かった。  「子供の危機を救いたい」。立ち上がったのが、京都府立医科大学教授の小児科医・三宅廉だった。  三宅はまず、出産に立ち会わせてほしいと訴えたが、産婦人科の領域と断られた。縦割り医療の限界を感じた三宅は、47歳で大学を辞職。昭和31年、ひとりの若い産婦人科医、椿四方介を引き連れて、神戸市内に小さな診療所、パルモア病院を設立した。  しかし日本初の新生児医療は困難の連続だった。どれくらいの量の薬を与えて良いのか。どんな注射をすればいいのか。刺激の少ない人工呼吸の方法は・・・。分からないことだらけだった。更に、苦悩するパルモア病院を経営危機が襲う。名もない小さな病院で出産する患者は少なかった。3週間全く出産がないこともあった。  三宅たちは、次々と襲いかかる困難な壁を、どのように乗り越えていくのか・・・。  これは、小さな命を守ろうと奮闘し、日本の医療界に革命を起こした医師たちの感動のドラマである。

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  • プロジェクトX 挑戦者たち 思いは国境を越えた 液晶 執念の対決瀬戸際のリーダー・大勝負
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    携帯電話、モバイルコンピューター。急速に進行するIT革命になくてはならない装置がある。省エネルギーで、軽量 。夢のディスプレイ装置「液晶」である。  世界で初めて、「液晶」の実用化に成功したのは、シャープの研究所で、日の当たらない場所にいた技術者たち。  リーダーの和田富夫はかつて、壁掛けテレビの開発にたずさわり、挫折。管理部門に回されていた。偶然、テレビで実験段階の液晶を見た和田は上司に開発を進言。しかし、プロジェクトに集まったのは、同じように開発に失敗した技術者と何も知らない新入社員たちだった。  和田は、メンバーを鼓舞し、アメリカの大手企業も実用化をあきらめた「液晶表示装置」の開発に打ち込む。そして、1万回を超える執念の実験の末に、電卓の表示装置として、世界で初めて「液晶ディスプレイ」の実用化に成功する。  番組は、サラリーマン人生をかけて開発に打ち込んだ技術者たちの執念のドラマを描く。

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  • プロジェクトX 挑戦者たち ジャパンパワー、飛翔 伝説の深き森を守れ世界遺産・屋久杉の島
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    樹齢数千年の屋久杉が並び立つ屋久島。 世界遺産にも登録されている屋久島は、日本を代表する自然の宝庫である。 高度経済成長に沸く昭和40年代、屋久杉は盛んに伐採されていた。森林面積は激減し、瀕死の状態にあった。この屋久杉を守ったのは、屋久島から東京に出てきていた二人の若者だった。柴鉄生と兵頭昌明。屋久島出身者の野球大会で知り合った二人は、屋久杉の危機を知り、東京での生活を捨て故郷に戻る。 しかし、屋久島に戻った二人が目にしたのは,屋久杉の伐採する林業に頼って生きている島の暮らしの現状だった。人々の生活を守るのか。それとも環境を守るのか。この難題を前に、二人は悪戦苦闘を繰り返す。問題解決のためには、林業や環境の政策から変える必要がある・・・。そう悟った二人は町議に立候補。やがて県や国をも動かしていった。故郷を愛し、自然を愛した男たちが、屋久杉を守るために闘った挑戦のドラマを描く。

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  • プロジェクトX 挑戦者たち ジャパンパワー、飛翔 女たちの10年戦争「男女雇用機会均等法」誕生
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    就職、昇進、定年など職場における男女の平等を謳った日本初の法律「男女雇用機会均等法」。法律を作り上げたのは、自らも仕事と家庭の両立に苦しんでいた労働省の女性官僚たちだった。リーダー、婦人少年局長・赤松良子の情熱の原点は、専業主婦として一生を終えた母の姿だった。「自分も仕事をしたかった」とつぶやく母の言葉が心に深く刻まれていた。法案作りは、経営者団体と労働団体の意見が真っ向から対立し、「審議会」の段階で膠着した。女性の社会進出に対し保守的な経営者側は「法律を作るなら、深夜労働などもすべて男子同様にすべきだ」と強く主張。女性を中心とする労働側は「絶対に譲らない」と反発した。プロジェクトメンバーは、後に「鬼の根回し」と異名をとる懸命の調整を続けた。企画官の松原亘子は徹夜仕事の後も自宅に帰り、子どもの弁当を作って、また霞ヶ関に戻って働いた。昭和59年4月、国会に間に合わすための期限ぎりぎりで開かれた最後の審議会。労働側代表は、直前になって、異論を唱え、審議会への出席を拒否。別室に立てこもった。赤松は、辞表を手に最後の説得に向かった。さまざまな困難な壁を乗り越えて「男女雇用機会均等法」を作った女性たちの知られざる格闘のドラマを描いていく。

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  • プロジェクトX 挑戦者たち ジャパンパワー、飛翔 奇跡の心臓手術に挑む天才外科医の秘めた決意
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    平成8年12月3日、日本で初めての画期的な外科手術が行われた。動いている心臓をメスで切りとる「バチスタ手術」である。死を宣告された心臓病の患者に生の希望を与える劇的な手術だった。あまりに高度な技術を要するため、それまで日本では取り組む医師がいなかった。手術が行われたのは、神奈川県鎌倉市の湘南鎌倉総合病院。執刀医は、須磨久善、46才。日本有数の外科医といわれながら、理想の医療を求めて、都内の大病院を去り、この地方病院にやってきた医師だった。須磨のもとに若い医師、看護婦たちが集まり、初めての手術に挑むプロジェクトが生まれた。患者は、53歳の銀行員。しかし、最初の手術は、病気の進行が早く、失敗に終わった。「手術は時期尚早」と医学界から批判の声がまき上がったとき、「この手術を続けてほしい」と声を上げたのは、亡くなった銀行員の妻だった。1ヶ月後、二人目の手術希望者が現れる。医学界が揺れる中、須磨と病院は「患者の意思がもっとも重要」と手術に踏み切る。手術は見事、成功。新しい治療法は広く認められていく。 番組は、新しい手術への挑戦を続ける医師たちと、自らの生命を医師たちに預け、再び人生を取り戻した患者たちの姿を通 じて、命の尊さを描く。

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  • プロジェクトX 挑戦者たち ジャパンパワー、飛翔 ゴジラ誕生特撮に賭けた80人の若者たち
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    ゴジラ。日本が生んだ世界のヒーローである。このゴジラが誕生したのは昭和29年。円谷英二が率いる若者集団が生み出した。特殊撮影を専門としていた円谷は、文芸作品が主流だった当時は、日の当たらない裏方の存在だった。大人だけではなく、子供たちも喜ぶ新しい映画を作りたい。そう思った円谷は素人スタッフたちをかき集め、製作期間が短い中、一致団結して新しい映画作りに情熱を注いだ。製作陣と共に、ゴジラの成否の鍵を握ったのが、ゴジラ役の中島春雄(25)だった。大部屋で切られ役専門だった中島は、初めての主役に役者人生の全てを懸ける。「縫いぐるみの中にいて何が主役か」。役者仲間に笑われながらも、中島は努力を重ねる。上野動物園に通いつめては、象やゴリラの動きを徹底的に研究した。重さ50キロ以上の縫いぐるみを着ては黙々と練習を重ねた。逆境からの一発逆転を懸け、ゴジラに挑んだ若者たち。日本のみならず世界の映画界に革命を起こした映画「ゴジラ」誕生の物語を描く。

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  • プロジェクトX 挑戦者たち そして、風が吹いた 日米逆転! コンビニを作った素人たち
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    70年代、スーパー業界17位のじり貧にあえいでいたイトーヨーカ堂。窓際の部署にいた30代の社員がアメリカで新しいビジネスを見つけた。小さな店舗に豊富な日用雑貨を取りそろえた長時間営業の店、コンビニエンスストアだった。 ビジネスノウハウを入手するため、最大手サウスランド社(セブンイレブン)に莫大な契約金を払い、屈辱的ともいえる契約を結ぶが、苦労の末に入手したマニュアルは日本では全く役に立たない代物だった。 しかも、未知のビジネスに賛同者は少なく、プロジェクトに集まったのは素人ばかり。元商社マンや自衛隊員、労働組合の元闘士・・・、15人の素人集団はゼロから独自の小売り戦略を練り始める。「全品買い取り、返品なし」「在庫は極力減らせ」「1個ずつの小分け配 送」江東区豊洲の酒屋を改造した一号店を舞台に作り上げられた手作りの戦略は、次第に日本独自の流通 機構に風穴を空けていく。15年後、セブンイレブンジャパンの売り上げは、アメリカの本家を抜いた。 日本の流通を変えたコンビニエンス・ストアの草創期に焦点をあて、社員たちの悪戦苦闘の物語を描いていく。

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  • プロジェクトX 挑戦者たち そして、風が吹いた ロータリー47士の闘い夢のエンジン誕生からルマン制覇まで
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    ロータリーエンジン。 従来のピストン式のものと違い、小型で高出力、しかも静かなエンジンである。200年前から研究が進められ、夢のエンジンといわれてきた。このエンジンの開発に世界で初めて成功したのは、広島のマツダである。マツダは原爆の被害を奇跡的に免れた、三輪自動車メーカーだった。開発の中心となったのが、設計部次長の山本健一だった。山本は広島生まれ。妹を原爆で失った。その悲しみを乗り越え、広島の復興に尽くそうと、ロータリーエンジンの開発に全てをかけた。その山本の下で、47人の部下が困難な開発に携わった。「ロータリー47士」と名付けられた彼らは、いずれも山本と同じ思いを抱いた若者たちだった。彼らは、摩擦によってできる「悪魔の傷跡」を始め、克服が不可能とされた技術的課題を、意地と執念で次々と解決していった。 原爆で家族を失った男たちが、故郷の復興を願い成し遂げた、ロータリーエンジン開発のドラマを描く。

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  • プロジェクトX 挑戦者たち そして、風が吹いた よみがえれ日本海ナホトカ号 重油流出・三〇万人の奇跡
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    平成9年1月、突然、日本海沿岸を襲った真っ黒な重油。ロシア船籍タンカー、ナホトカ号から流れ出した重油はドラム缶 三万1千本分。被害は日本海側の9府県にも上る未曾有の事故だった。各地の浜は、どす黒く汚れ、向こう5年、海はよみがえらないと言われた。地元の漁師たちにとってはまさに死活問題だった。浜と漁師を救ったのは、バケツとひしゃくで重油を掬いつづけた30万人に及ぶボランティア。「善意が奇跡を起こした」と世界中で報道されたこの快挙の陰には、ボランティアをまとめるために奔走した地元の青年たちの姿があった。 最大の被害を出した福井県三国町で立ち上がったのは、建設会社を営む35歳の長谷川啓治。 食料の調達、宿泊場所の確保、作業の指示・・。長谷川は会社を休み、地元の商店主や青年たちとともに膨大な作業に取り組んでいく。連日の荒天のため、作業は中止が続き、ボランティアと地元の間に確執も生じた。それを乗り越え、人々の善意がわずか3ヶ月で、浜をよみがえらせていく。「善意の奇跡」の裏側で繰り広げられた人間ドラマを描いていく。

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  • プロジェクトX 挑戦者たち そして、風が吹いた うまいコメが食べたいコシヒカリ ブランド米の伝説
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    昭和57年以来、販売シェアの全国一をキープし続けるコシヒカリ。日本一うまいと言われる米である。その作付け面積は、今や日本の全水田の3分の1を占める。戦後まもなく、福井の農業試験場で開発されたコシヒカリは、「越南17号」と名付けられた試験品種だった。味はうまいものの、肥料の管理などが面 倒で、「増産」が至上命題だった当時は、全く相手にされない米だった。その「越南17号」に目を留めたのが、新潟県長岡農業試験場の職員、杉谷文之40歳。杉谷は土地のやせた新潟の農業を救う「うまい米」を探していた。しかし、期待の越南17号は、刈り入れの直前、生育のしすぎでバタバタと倒れていった。杉谷たちは、過剰な生育を押さえるために、肥料の与え方で対処しようと試行錯誤を重ねる。この米に、一人の若い農家が着目する。やせた土地に苦しんでいた魚沼地区の小林正利だった。小林は、村を救うのはこの米しかないとプロジェクトに加わる。このうえなく痩せていた魚沼の土地は、偶然にも「越南17号」には最適の土地で、以後、魚沼は、この米の開発に地域の存亡を賭けるまでになった。 貧村を救おうと研究に打ち込んだ研究者と、地元農民の心の交流を軸に、日本一の米、コシヒカリ誕生のドラマを描く。

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  • プロジェクトX 挑戦者たち 夢遥か、決戦への秘策 父と息子 執念燃ゆ 大辞典30年・空前の言葉探し
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    辞書「広辞苑」。収録語20万。2320ページ。  国語辞典のみならず、地名・人名・流行語などの百科事典の機能も兼ね備えた、日本初の本格的な「日本語の総合辞典」である。昭和30年、発売と同時に大ベストセラーになり、いまもその地位 は揺るぎない。  辞書作りの中心となったのが、新村出と新村猛。言語研究に生涯を捧げた親子だった。「一流国になるには、日本語の総合辞典が不可欠だ」。その信念で、二人は戦前から10年の歳月をかけ、15万語の辞書の原稿を完成させた。しかし、昭和20年、原稿を印刷所に持ち込み、印刷開始の直前に空襲にあった。原稿、活字、印刷用紙、全てが一瞬で灰と化した。  戦後、二人は辞書作りを再開する。しかし終戦直後の日本は、時代が急速に動いていた。新しい言葉が次々と生まれた。意味も変化した。戦前の蓄積では対応できず、一から言葉を選び、意味を考えるという、気の遠くなる作業が必要だった。  それを支えたのが、7人の若い編集スタッフだった。新聞を読みあさり、喫茶店や、公園で遊ぶ子供たちの会話にまで耳をそばだて、言葉選びに奔走した。彼らは、新村親子を中心に、膨大な言葉の海と格闘を続けていく・・・。  日本語の豊かさに誇りを持とうと、前代未聞の辞書作りに情熱を燃やした親子と若者たちのドラマを描く。

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  • プロジェクトX 挑戦者たち 夢 遥か、決戦への秘策 通勤ラッシュを退治せよ世界初・自動改札機誕生
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    昭和42年、大阪の北千里駅に、一台の機械が設置された。 「自動改札機」──いまや日本全国に行き渡った夢の機械の第1号機である。 膨大な情報を磁気で記録し、それを一瞬で読みとる。その技術は、ラッシュの混雑を劇的に緩和しただけでなく、銀行の自動支払機CDやATMの元となる画期的なものだった。 高度経済成長下の昭和30年代、人口集中に伴い、鉄道の混雑が大きな社会問題になっていた。ダイヤの乱れ、ホームからの転落事故などが多発。鉄道会社は、各メーカーに自動改札機の開発を打診した。 「不可能だ」と各社が後込みする中、手を挙げたのが立石電機(現オムロン)だった。社長の立石一真(67)は、極貧の中で妻を亡くし、7人の子供を育て上げた苦労人。以来「人の役に立つ機械の開発」をモットーにしてきた立石は、採算度外視の開発を決意。「立石電機7人の侍」と呼ばれた若手技術者を集め、開発に当たらせた。 人の流れを止めないためには、1分間に80人の切符を処理しなければならない。更に、大人と子供の区別 、男女の区別、不正な券の発見、荷物と人との判別など、膨大な磁気処理が必要だった。若手技術者の一人、田中寿雄(27)は、試作機を作っては、近所の主婦や子供たちを集め、試行錯誤を重ねた。 それらの課題を解決した矢先、さらなる難題が襲いかかる。それは、濡れたり折れたりして、磁気が乱れた切符の判別 だった。若手技術者たちは、一からの開発を迫られることになった……。 完成までに6年を費やし、磁気の技術に革命を起こした自動改札機の壮絶な開発物語を描く。

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  • プロジェクトX 挑戦者たち 夢 遥か、決戦への秘策 兄弟10人 海の革命劇魚群探知機・ドンビリ船の奇跡
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    今や世界中の漁船になくてはならない装備となった「魚群探知機」。超音波を使い、海の中の魚群を見つけだすこの装置は、勘と運に頼っていた漁業を革命的に変えた。 昭和24年、魚群探知機を世界で初めて実用化したのは、長崎の港町、口之津に暮らす二人の青年だった。古野清孝、清賢兄弟。二人には8人の妹、弟がおり、失職中 の父に代わって、漁船の電気関係の工事作業で家族の暮らしを支えていた。漁師たちの運任せの仕事を見ていた二人は、魚を見つけだす機械を作れば必ずあたると動き出す。 しかし、作り上げた試作器はエンジンの振動や海中の泡まで感知してしまい、使い物にならなかった。最初は協力してくれた漁師たちも怒り出す始末。そのなかに、協力を惜しまない船があった。五島列島で、もっとも漁獲高が低く「どんびり船」と呼ばれていた枡富丸。古野兄弟と枡富丸は魚群探知機を必死に改良。一発逆転の秘策を考え出す。 家族のために困難な開発に挑んだ二人の若者と「どんびり船」の船員たちの挑戦のドラマを描く。

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  • プロジェクトX 挑戦者たち 夢 遥か、決戦への秘策 炎のアラビア巨大油田に挑んだ技術者たち
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    20世紀、世界の工業発展を支えた魔法の液体、石油。敗戦後、奇跡の復興を遂げた日本を支えたのも、この石油だった。 資源のない日本が、石油の安定確保を果たした陰には、壮絶なドラマがあった。日本の真の独立と誇りをかけて闘った技術者たちの挑戦の物語を描く。 敗戦で、海外での油田開発を一切禁止された日本は、僅かに新潟で石油を掘っていたものの、その99%を輸入に頼るしかなかった。日本の石油は、完全に欧米のメジャーに牛耳られていた。 転機となったのは、昭和27年。サンフランシスコ条約で独立を果たした日本は、自主開発原油(日の丸原油)の確保に乗り出した。その時立ち上がったのが、実業家、山下太郎。山下は「アラビア石油」を設立し、サウジアラビアに乗り込んだ。 度重なる交渉の末、日本に開発が認められたのは、沖合の洋上油田という難所。しかも「一発目で石油を当てること」が絶対的指命として課せられた。 この困難を成し遂げるため呼び集められたのが、新潟で細々と石油を掘っていた技術者たちだった。リーダーは山内肇。戦前、アジアの占領地での油田開発を手がけた、世界でもトップレベルの伝説の技術者だった。 想像を超える猛暑。欧米企業の妨害。そして不測の火災事故……。次々と襲いかかる難題を技術者たちはどう乗り越えていくのか……。 日本の命運をかけ、日の丸原油の確保に命懸けで取り組んだ技術者の意地と執念を描く。 昭和48年、日本を悪夢が襲った。オイルショックである。アラブ諸国が一方的な供給削減を発表し、日本中がパニックに陥った。それまでに確保した日の丸原油では、到底足りなかった。 不測の事態に対応できる大量の石油を、安定的に確保できるか。それが日本の今後を左右する鍵だった。 日本は、アブダビにある、世界最大級の大油田に目をつける。そこは、石油と水が混ざって存在する特異な油田。多くのメジャーたちが開発不可能と手を引いた難所中の難所だった。 送り込まれたリーダーは石油技術者、細井弘。山内肇の弟子だった。細井たちは、実に10年に及ぶ試行錯誤を繰り返し、水と油を見事に分けて取り出す技術を開発していく……。 日本の血脈、石油の安定確保をかけ、世界最難関の油田に挑んだ男たちの壮絶なドラマを描く。

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  • プロジェクトX 挑戦者たち 未来への総力戦 倒産からの大逆転劇 電気釜町工場一家の総力戦
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    昭和30年、日本の台所を劇的に変えた、一つの電化製品が発売された。自動炊飯器、いわゆる電気釜である。 主婦の家事労働を大幅に減らし、「睡眠時間を1時間延ばした」とも言われたほどの衝撃を与えた。  「電気釜」を開発したのは、東京の大田区で町工場を営んでいた三並義忠(みなみよしただ)、風美子(ふみこ)夫婦だった。三並の工場は戦後まもなく進駐軍からの電気温水器の受注を受け、大々的に業績を伸ばしていた。しかし昭和27年に進駐軍が撤退。注文が途絶え、一挙に倒産の危機に追い込まれていた。6人の子供を抱え、三並は途方に暮れた。   そんな三並に思わぬ話が持ち込まれた。「電気釜を開発しないか」というものだった。話を持ちかけたのは東芝の営業マン、山田正吾。全国を回り、主婦の声を生の声を数多く聞いてきた山田は、飯炊きの苦労を身にしみて感じていた。山田の提案に、三並は工場と家族の未来を電気釜開発に託すことを決めた。  しかし、単純に思えた「お米炊き」の自動化は、予想を超えて難しかった。三並夫婦は、試作器を作っては実験を繰り返した。実験に使う大量のコメを買うために、工場や自宅を抵当にして銀行から資金を借りた。度重なる実験で妻が倒れた。6人の子供たちが立ち上がった・・・。実験開始から3年、壮絶な実験の末に開発した電気釜は東芝から発売されることになった。営業マンの山田は、三並一家の命運が託された電気釜販売に、ある奇策を思い付く。  「主婦に睡眠時間を」を合い言葉に、1台の電気釜で台所革命を起こした人々を描く。

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  • プロジェクトX 挑戦者たち 未来への総力戦 女子ソフト銀 知られざる日々不屈の闘い・リストラからの再起
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    20世紀最後となったスポーツの祭典・シドニーオリンピック。柔道の田村、マラソンの高橋と共に、日本中を沸かせた女性たちがいた。女子ソフトボール全日本代表である。小柄な身体で、海外の強豪を次々と打ち負かした15人のチームは、「東洋の魔女の再来」と称された。チームを率いたのは監督の宇津木妙子(46)。もともとユニチカのソフトボール選手だった。どんなに活躍してもバレーボールほど脚光を浴びなかった。設備もお粗末で河川敷で練習した。紡績不振で会社が傾くと、真っ先に廃部の危機にさらされた。その屈辱が世界を目指すバネになった。その宇津木監督のもと、日本チームの主砲として活躍したのが宇津木麗華(35)だった。彼女の元の名前は、任彦麗。中国で活躍していたソフトボールの選手だった。選手時代の宇津木のプレーに魅せられた任は、父親の反対を押し切って5年前に日本に帰化した。4年前のアトランタでは、任は出場選手に選ばれながら、中国側の反対で出場できなかった。その悔しさを乗り越えてシドニーに挑んだ。監督と選手が共に手を組み、悪戦苦闘を繰り返しながら銀メダルを勝ち取ったドラマを描く。

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  • プロジェクトX 挑戦者たち 未来への総力戦 えりも岬に春を呼べ砂漠を森に・北の家族の半世紀
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    死んだ大地に、ゼロから木を植え、森を作る。 半世紀にわたって繰り広げられた、世界でも例のない壮大なプロジェクトがある。 北海道襟裳岬の200ヘクタールに及ぶ砂漠緑化プロジェクトである。それは、襟裳の人々にとって、かけがえのない故郷を蘇らせる闘いでもあった。  昭和28年、えりも岬の人々は困窮を極めていた。町に広がる広大な砂漠の砂が海に流れ出し、生活の糧、昆布を死滅させようとしていたのである。 砂漠は、かつて、うっそうとした森だった。しかし、開拓した人々は、暖をとるために森の木々を切り尽くした。森はあっというまに、砂漠と化し、人々に襲い掛かった。 立ち上がったのは、若い漁師たち。砂を止めるために、砂漠を森に変える壮大な試みを始めた。その中に、24歳の飯田常雄がいた。嫁いだばかりの妻に「必ず森を完成させる」と約束していた。 気の遠くなるような、厳しい自然との闘いが続いた。牧草の種は、強風に吹き飛ばされ、3年間、全く根付かなかった。ようやく牧草を植え終わったのが、21年目。そこから、さらに一本一本苗木を植えた。  漁師たちの老齢化。若者たちの反発。さまざまな困難とぶつかりながらも、漁師たちとその家族は、少しずつ少しずつ砂漠を森に変えていく。そして、森が広がるにつれ、育まれた腐葉土から栄養分が地下水に流れ出し、いつしか、海は豊かさを取り戻していった。  番組では、半世紀にわたる、漁師家族の物語を軸に、壮大な自然の再生のドラマを描いていく。

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  • プロジェクトX 挑戦者たち 未来への総力戦  『宗谷』発進・第一次南極観測隊日本人が一つになった八八〇日
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    戦後ただ一度だけ、日本中の企業と学者、そして、国民がその力を結集させてのぞんだ壮大なプロジェクトがある。 昭和31年に始まった第一次南極観測である。輸送船「宗谷」の建造から、世界をあっと驚かせた昭和基地での越冬観測までの知られざる人間ドラマ。昭和30年、東大理学部教授・永田武の元に、世界各国共同で、未知の大陸・南極の観測を行わなうという途方もない構想への参加要請が来た。しかし、日本に与えられた観測場所は、欧米が7度挑戦しても行き着くことのできなかった南極屈指の難所、プリンスハラルド海岸だった。予算も、時間もないなか、未曾有のプロジェクトが動き出す。輸送船に選ばれたのは、灯台への物資補給に使われていた老朽船「宗谷」。元海軍の設計技術者と、横浜の小さなドックの職人達が改造に立ち上がった。観測隊員は、屈強の山男から、元銀行員、学生など77人。南極用の住居や電池、無線、食料の開発には、千を越す日本企業が力を貸した。「南極観測を成功させて、自信を失っている日本人に勇気を与えよう」 昭和31年11月8日、屈強な船に改造された「宗谷」は南極に向けて晴海埠頭を出航する。

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  • プロジェクトX 挑戦者たち 未来への総力戦  男たち 不屈のドラマ 瀬戸大橋世紀の難工事に挑む
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    昭和63年、18年の歳月を経て完成した「瀬戸大橋」。1000メートルを超える橋の上を列車が行き来するという世界でも例のない巨大橋である。未曾有の巨大橋建設のきっかけとなったのは、昭和30年に起きた悲劇の事故だった。修学旅行中の子供達100人が瀬戸内海に消えた紫雲丸の沈没事故。「瀬戸内海に橋をかけてほしい」四国各地から切実な声が巻き起こった。 瀬戸大橋建設に挑んだのが、「不可能を可能にする男」と呼ばれた、天才技術者・杉田秀夫だった。猛烈な速さで潮の流れる瀬戸内海に、どうすれば巨大な橋台を建設できるのか。杉田は、前代未聞のこの難問に、果 敢に立ち向かった。 一人の男が協力を申し出た。瀬戸内海のことなら何でも知り尽くしている男、ダイバーの飯島靖郎だった。飯島は、昭和30年、紫雲丸事故の遺体引き上げ作業に携わっていた。相次ぐ実験失敗、石油ショックによる着工凍結。様々な困難を乗り越え、技術者たちは、瀬戸大橋の建設工事を成し遂げていく。番組では、技術者たちの心の交流を織り交ぜながら、瀬戸大橋架橋の最大の難関であった海中基礎工事にかけた男達の物語を描いていく。

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  • プロジェクトX 挑戦者たち 壁を崩せ 不屈の闘志 魔の山大遭難 決死の救出劇
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    昭和30年代、日本は登山ブームを迎え、山での遭難事故が増え始めた。昭和38年、後にサンパチ豪雪と呼ばれるドカ雪で、北アルプス薬師岳を登山中の愛知大学山岳部13人が全員死亡。前代未聞の大量遭難となった。この事故で、救助チームの隊長を務めたのは富山県警上市署の鑑識係、伊藤忠夫40歳。伊藤はかつて最愛の弟を山で亡くしていた。昭和40年、伊藤を指揮官とする山岳警備隊が発足。しかし県内の警察署から集められた隊員達は、山歩きの経験が無い素人集団。伊藤は助っ人を頼もうと、北アルプス麓の集落、あしくらじ芦峅寺を訪ねた。黒部ダム建設の際、資材を運搬。第一次南極観測隊にも選ばれた山のエキスパート達が住んでいた。隊員は、あしくらじ芦峅寺の男達に山登りの技術を学んだ。昭和44年正月、剣岳を記録的なドカ雪が襲った。15パーティー81人、史上空前の大量遭難が発生。山岳警備隊はあしくらじ芦峅寺の男達に応援を頼み、山頂付近にいた金沢大学山岳部17人の救助に向かった。しかし猛吹雪の中、先頭を切っていたベテランガイドが谷に転落。あしくらじ芦峅寺の男達は仲間を救出、山を降りた。後には、3人の若き警備隊員が残された。「今こそ厳しい訓練の成果を見せる」遭難者が待つ山頂に、足を踏み出した。生死をかけ、山岳救助に挑んだ若者達の熱きドラマを描く。

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  • プロジェクトX 挑戦者たち 壁を崩せ 不屈の闘志 世界最大の船 火花散る闘い
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    昭和41年、横浜で世界最大の船の建造が始まった。船体の長さは東京タワーを凌ぐ342メートル。積み荷は原油、日本の一日の消費量を一気に運ぶ夢のタンカーである。当時、世界中のタンカーは欧米の石油メジャーに握られていた。日本は割高な油に苦しんでいた。「自前のタンカーを持ち、直接中東から買い付ける」立ち上がったのは、石油会社、出光興産。船の建造を請け負ったのは、石川島播磨重工業だった。その下に電気、機械、鉄鋼、全国から1千社。36万人が結集した。世界最大の船体工事、現場の指揮を託されたのは石川島播磨重工業の技術者、南崎邦夫38歳。入社3年目に事故で右足を切断。それでも現場を歩き続けた不屈の男だった。その南崎たちの前に次々と難問が立ちはだかる。船体を覆う、最強の鉄板「ハイテンション鋼」。溶接できず真っ二つに折れた。直径7.8メートルのスクリューを支える巨大シャフト。船体に原因不明の歪みが生じ、取り付けられない。そして、運命の処女航海。東シナ海で巨大台風に襲われた。造船大国の誇りを賭けた人々の壮絶なドラマを描く。

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  • プロジェクトX 挑戦者たち 壁を崩せ 不屈の闘志 金閣再建 黄金天井に挑む
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    世界各国の要人が来日の度、絶賛する建物がある。「金閣」。「究極の頂き」と呼ばれる三階の天井には、3千枚の金箔が歪みなく敷き詰められている。二階には、極楽浄土の世界を描いた天井画。その真下に広がる総漆塗りの床に反射し、極限の美を見せる。しかし、この金閣は、52年前に一度、放火で全焼している。そこから再建を成し遂げたのは、全国の職人たちの30年に及ぶ意地と執念だった。昭和30年、京都では、消失した金閣の再建が進んでいた。全国から選りすぐられた、漆職人、金箔職人などが腕を振るった。しかし、資金不足や手がかりの少なさから、二階天井画は、再現できなかった。戦前から金閣を守り続けた住職、村上は、いつの日か完全な再建を目指したが、十年、二十年と経つうちに、風雨にさらされた金閣から金箔は剥がれ落ち、漆も破壊されていった。建物自体が腐る可能性もでてきた。そして、三十年が経った昭和60年、村上も癌に侵され、床に伏せた。「金閣を甦らせたい」病と闘う村上の願いに応えたのは、当時、文化財修復の世界で名をあげていた矢口一夫(やぐち・かずお)を中心とする職人たちだった。矢口は調査と研究を重ね、京都の厳しい自然から金閣を守る材料をそろえた。通常の5倍の厚さの金箔「5倍箔」。金箔の下で建物を守る、粘り強い純国産の漆、1.4トン。昭和61年2月、準備も整い、1年8ヶ月に及ぶ工事がスタートした。しかし、再建は、困難を極めた。謎の歪みが出る金箔。さらに天井画の修復を手がける画家を襲う死の病。そして、完成間近を迎えたその時、最大の壁が立ちはだかった。果たして、黄金の寺は輝きを取り戻すのか。金閣再建に挑んだ職人たち、執念の30年戦争を描く。

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  • プロジェクトX 挑戦者たち 壁を崩せ 不屈の闘志 カーナビ 迷宮を走破せよ
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    車が溢れる渋滞列島、日本。朝夕の通勤ラッシュ、帰省ラッシュ、長い行列に耐えるのがドライバーの宿命である。12年前、日本で画期的な製品が開発された。アメリカの軍事衛星GPSを利用したカーナビゲーション。初めての道でも裏道でも迷わない夢の機械である。開発に挑んだのは音響メーカーのパイオニア。当時、看板商品のカーステレオの売れ行きが伸び悩み、会社は新製品開発にもがいていた。その時、カーナビ開発を提案したのが畑野一良31歳。カーステレオ部署のエース企画マンだった。畑野は方向音痴。家族でドライブに行くと抜け道で迷った。車内は険悪なムードになった。「家族で楽しくドライブをしたい」。カーナビ開発は、ささやかな思いから始まった。川越工場の本橋実がカーナビ本体の開発を担当。技術研究所の清水敏彦が地図作りを担当。しかし、困難な壁が次々と立ちはだかった。GPS受信機は200万円。車本体よりも高かった。地図を映し出すコンピューターは、真夏の車内気温50度で壊れた。プロジェクトは完全に行き詰まった。そのとき、雪降る、北海道、旭川から、思わぬ援軍が駆けつけた。負け続けの男たちの、奇跡の逆転の物語をお伝えする。

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  • プロジェクトX 挑戦者たち 復活への舞台裏 裕弥ちゃん1歳 輝け命日本初・親から子への肝臓移植
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    1989年、出雲市にある島根医科大学に、瀕死の状態の1歳の男の子が運び込まれた。肝臓移植をしなければ助からない、胆道閉鎖症を患った杉本裕弥ちゃんだった。 永末直文医師を中心とする医療チームは、難しい選択を迫られる。当時、脳死による臓器移植は認められておらず、助けるには健康な人の肝臓を切り取り移植するしかなかった。手術に成功しても、失敗しても倫理上の非難が集中することは必至だった。しかし、医師たちは肝臓提供を申し出た父親や家族の思いを聞くうちに、日本初の生体肝移植への決意を固めた。 15時間に及んだ難手術、285日目に訪れた別れ。母親は、「自分をあーたん(母さん)と呼んでくれた瞬間を持てただけで、手術をお願いした甲斐がありました」と語った。 その後、生体肝移植の技術は固まり、1000人を超える子供たちが助かっている。小さき命を救うために手術に初めて挑戦した、医師と家族のプロジェクトを描く。

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  • プロジェクトX 挑戦者たち 復活への舞台裏 美空ひばり 復活コンサート伝説の東京ドーム・舞台裏の300人
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    昭和62年4月、歌手・美空ひばりが倒れた。重症の肝硬変と大腿骨骨頭壊死で、マスコミは再起不能とまで報じた。 「もう一度、ステージに立って歌いたい」。入院先の病院で夏を迎えても、ひばりは「喉を痛める」と冷房もつけず、治療に耐えていた。その姿に、医師や制作スタッフは「ひばりを復帰させ、舞台に立たせる」ことを誓う。そして壮大な計画は持ちあがった。それが、ドーム球場に生まれ変わる「東京ドーム」でのこけら落としコンサートだった。総勢300名にのぼる、ひばり復活公演プロジェクトが動き始めたのだ。  しかし、東京ドームには巨大空間ゆえの問題があった。大きな音を出せば出すほど、こだまのように音が残ってしまう”残響”の問題だった。通常のホールで2秒の残響が、東京ドームでは5,6秒にもなる。そのままでは歌えない可能性もあった。さらに、歩くと苦痛にさいなまれる状態のひばりを、必要以上に動かさない工夫が必要とされた。それらの条件のなか、スタッフは復活の舞台を演出しなければならない。  そして病に倒れて1年後の昭和63年4月11日。美空ひばりは、5万人の観客が見守るなか、東京ドームの舞台に立った。”不死鳥”美空ひばりと、その翼となってステージを支えたスタッフたちの「復活への情熱」を描く。

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  • プロジェクトX 挑戦者たち 復活への舞台裏 全島1万人 史上最大の脱出作戦三原山噴火・13時間のドラマ
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    1986年11月21日、伊豆大島の三原山が大噴火。流れ出た溶岩がゆっくりと住宅地区に迫り始めていた。島内4地区に散らばる一万人の島民をどう脱出させるのか、町役場では関係者の知恵を寄せ集めた急造の対策プロジェクトが動き出した。  島民を輸送するバス・船会社、避難を誘導する消防団、無線網を握り溶岩を監視する警察…家族を心配しながらも、男たちは自分たちの職分を尽くそうと立ち上がった。東京電力の出張所では、発電機を回し、夜間の避難と防災活動を支えるため、3人の職員が島に留まらざるを得なくなった。勤務していた職員は6人、すべてが幼い子持ち。しかし、まず、自分が残ることを決めた所長が「あと2人頼めるか」と涙ながらに聞いたとき、すべての男たちが静かに手を挙げた。  夕方から早暁にかけての13時間、一人の犠牲者もなくパニックを起こさずに島外脱出ができたことは、奇跡といわれた。自分をおいて島民全てのために動いた男たち。島民たちの結束力の強さに裏付けられたその13時間のドラマを描く。

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  • プロジェクトX 挑戦者たち 復活への舞台裏 執念が生んだ新幹線老友90歳・飛行機が姿を変えた
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    「東京―大阪3時間への可能性」。昭和32年5月、国電の車内に張り出された講演会の吊り広告が、戦後日本最大のプロジェクト「新幹線」建造の道を開くことになった。 この講演会は、国鉄鉄道技術研究所にいた旧陸海軍出身の技術者たちが中心となって企画したものであった。中心人物の一人、三木忠直は戦時中、爆撃機の設計を行っていた航空技術者。人の命を奪うための技術開発に心を痛めていた三木は、戦後、「人の役に立つものを作りたい」と鉄道技術研究所に入所。「飛行機」の理論を「鉄道」に持ち込み、「夢の超特急」を設計する。この計画は、当初国鉄内部では「非現実的」と受け入れられなかったが、講演会の発表が世論を動かし、翌年、新幹線プロジェクトが動き出す。 流線型の車体、振動を吸収する新型の台車、ATC(自動列車制御装置)…。旧陸海軍出身の技術者は次々に新しい技術を開発し、昭和38年、新幹線は、世界最高速度256km/hを記録。新幹線は世界に日本の技術の高さを見せつけると同時に、欧米の鉄道界をも劇的に変えていく。 戦争の負の記憶を心に秘めながら、戦後、「新幹線」に第2の人生を賭けた技術者たちの姿を描く。

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  • プロジェクトX 挑戦者たち 復活への舞台裏 カール・ルイスの魔法の靴超軽量シューズ 若手社員の闘い
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    1991年、東京世界陸上100メートル走決勝。すでにその時代は終わったと誰もが思っていたカール・ルイスは、9秒86の世界記録を樹立し、金メダルを獲得した。その足には、日本のスポーツ用品メーカーと、神戸長田区の靴問屋が二人三脚で作り上げたスペシャルシューズが履かれていた。  ミズノ入社4年目の木村隆也は、1987年、信じられない命令を受けた.ロス五輪で4冠に輝いたあのカール・ルイスの靴を開発する任務だった。当時、スポーツのコマーシャリズムはアマチュアの陸上界まで席巻。ミズノも広告塔としてのルイスに期待して契約を結んだ。しかし、ベン・ジョンソンの出現、ソウル五輪の屈辱を経るうちに、メーカーとしての商品化を度外視して、世界記録樹立に貢献する道を探り始める。木村は、靴問屋や繊物工場の協力を仰ぎ、世界最軽量 115グラムの靴を作り上げていった。  スポーツと企業のあるべき関係を模索しながら、世界記録の陰でトップアスリートを支え続けた「スペシャルシューズ」プロジェクトを描く。

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  • プロジェクトX 挑戦者たち 男たちの飽くなき闘い 誕生! 人の目を持つ夢のカメラオートフォーカス 14年目の逆転
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    一度しかないこの瞬間を記録に残したい、その素朴な願いを叶えたAFカメラ。 シャッターを押すだけで自動的にピントを合わせてくれるAFカメラは、かつて世界中の技術者から「夢のカメラ」といわれてきた。この夢のカメラを商品化を、世界で初めて成功させたのは、小西六(現コニカ)の若き技術者たちだった。  昭和38年、AFカメラの開発は、たった一人の電気技術者・百瀬治彦の情熱から始まった。シャッターを切る僅か0,1秒の間に、被写 体までの距離を電気信号によって瞬時に読みとりピントの合う所にレンズを作動させるというAFカメラへの挑戦は、地道で気の遠くなるような技術の積み重ねを必要とした。思うように成果 を上げられない。百瀬への社内の目は厳しかった。次第に研究費は削りとられた。しかし百瀬は決して諦めようとはしなかった。  百瀬の粘りを認め陰で支えていたのはカメラ開発部リーダーの内田康男。内田の援助によって、AFの研究は上層部には秘密の「闇研究」で続けられたきた。 完成まで14年、激しい開発競争の中で、みごと世界初の栄光を手にした技術者たちの執念と、陰で支え続けた家族のドラマを描く。

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  • プロジェクトX 挑戦者たち 男たちの飽くなき闘い 宇宙ロマン すばる140億光年 世界一の望遠鏡
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    「宇宙の果てを見てみたい」。こんな人類の夢を実現するために、昨年秋に、ハワイ島マウナケア山頂、標高4205mに完成した、日本が誇る口径8.2mの大型反射望遠鏡「すばる」。構想から完成まで20年以上の歳月を費やし、総工費400億円ですすめられた、国を挙げての大プロジェクトである。しかし、そこには、多くの学者、技術者をはじめとした関係者の、想像を超えた苦労が隠されている。これまで技術的に不可能と言われ続けていた8mの巨大望遠鏡建設。最高の精度を保つため、鏡自身のたわみをいかに補正するか、技術者たちの挑戦が続いた。「すばる」の建設は、幾多の困難を乗り越え、ようやく実現したプロジェクトだった。こうした困難に立ち向かった人々の「宇宙へのこだわりの原点」は、幼い頃から星空を見上げ、宇宙に思いを馳せた「夢」であり、「ロマン」だった。番組では、関係者の情熱が生んだ日本が誇る巨大望遠鏡「すばる」建設のプロジェクトを紹介する。

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  • プロジェクトX 挑戦者たち 新たなる伝説、世界へ 巨大モグラ ドーバーを掘れ地下一筋・男たちは国境を越えた
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    1991年春、イギリスとフランスをつなぐ海底トンネル「ドーバー海峡鉄道トンネル」が貫通した。ヨーロッパを陸続きにする、ナポレオン以来の壮大な夢を実現させたのは、「鉄のモグラ」といわれる巨大なトンネル掘削機だった。最難関といわれたのはフランス側の海底部。軟弱な地盤と無数の断層、高い水圧の中、16キロを僅か3年で掘り抜くという前代未聞の計画だった。挑んだのは川崎重工の技術者。世界中で最も難しいといわれる日本の地下を掘りつづけてきた男達だった。リーダーの宇賀克夫は、100人の技術者を総動員して最先端技術を駆使したマシーンを完成させる。しかし海底での工事は想像をはるかに超えるものだった。チョーク層と呼ばれる独特な地盤との闘い。予期せぬカッターヘッドの亀裂事故。そして文化の違いから生まれるフランス人技術者との葛藤。メンバーは、不眠不休でマシーンの改良を重ね、フランス人に粘り強く技術指導を続ける。チームワークで「世界最強のモグラ」へと生まれ変わったマシンは、工期をはるかに上回る驚異的な速さでプロジェクトを成功へと導く。ヨーロッパの夢をかけた世紀の大工事を成し遂げた日本人技術者の意地と執念のドラマを描く。

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  • プロジェクトX 挑戦者たち 新たなる伝説、世界へ 逆転田舎工場世界を制すクオーツ・革命の腕時計
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    時を限りなく正確に刻む。そんな夢を叶えた時計がある。世界初のクオーツ腕時計。電気を流すと正確な振動を繰り返す水晶=クオーツクリスタルを使い、一日わずか0.2秒の誤差を実現した夢の時計である。昭和44年に発売されると、たちまち革命を引き起こし、今やクオーツは全世界の腕時計の98%を占めるまでになった。時計を作り上げたのは、故郷を再生しようと立ち上がった男たちだった。かつて製糸業で栄えた信州・諏訪湖一帯。ここで生まれた時計工場があった。「諏訪精工舎」。工場長は地元商店街の時計店店主だった山崎久夫。化学繊維の登場で壊滅的な打撃を受けた町を何とか蘇らせたいと時計作りを決意した。職を失っていた女工を雇い、ゼンマイ腕時計の生産を開始した。女工たちが繊細な指先で組み立てた時計はその正確さで評判となった。しかし、アメリカで全く新しい技術を使った電子時計が発売されると、圧倒的な正確さで、たちまち大ヒットした。同じ技術を使って開発しようにも、特許の厚い壁が立ちはだかった。窮地に追い込まれた山崎たちは、一つの技術に全てを賭けた。それまで、世界中の技術者が挑戦してもできなかったクオーツ腕時計の開発だった。開発は困難を極めた。当時、世界最小のクオーツ時計でもタンスより大きかった。超小型化と超省電力化が必要だった。しかも、全く耐震性がなかった。さらに世界の時計王国スイスがこぞってクオーツ腕時計の開発に乗り出した。それでも山崎はあきらめることなく全国の大学を回り、学生を口説き続けた。その熱意に打たれた若き技術者たちが諏訪に集い、奇跡の時計の開発に挑んでいく。故郷の復活に立ち上がった男と、その心意気に応えた若手技術者たちの、今に語り継がれる逆転のドラマを描く。

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  • プロジェクトX 挑戦者たち 新たなる伝説、世界へ レーザー 光のメスで命を救え倒産工場と脳外科医
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    レーザー光線。その強力な出力から「殺人光線」と呼ばれた技術を医療に用い「神の指先」と言わしめたレーザーメスを開発した男たちがいた。立ち上がったのは脳外科医、滝澤利明。昭和40年代、脳外科では摘出困難な腫瘍や出血に悩まされ、余命宣告せざるを得ないこともしばしばだった。「レーザーを照射すれば正確に患部が切れ、しかも一瞬で血管が塞がり出血がない」ことを自ら動物実験で確認した滝澤は、小さな町工場とともに開発に乗り出した。町工場のメンバーは全員が手に火傷を負いながら開発に取り組んだ。しかし当時まるで「巨大な大砲」だったレーザー発射装置を手術室に出し入れできるほどコンパクトにし、直進するレーザー光線を医師の手元まで送り、自在に照射することは至難の業だった。しかも開発から3年後、町工場は倒産。技術者達は妻子を実家に帰し、債権者から身を隠しながら開発を続けた。昭和50年、様々な困難を乗り越え、ついにレーザーメスが完成した。残るは医療機器として当時の厚生省から認可を得るための臨床例が必要だった。昭和54年、滝澤は悪性の脳腫瘍を患い余命1年と宣告された8歳になる女の子の手術に成功。翌年、レーザーメスの製造が正式に認可された。一人でも多くの命を救いたいと願う脳外科医と町工場の技術者達の執念のドラマを描く。

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  • プロジェクトX 挑戦者たち 新たなる伝説、世界へ リヒテルが愛した執念のピアノ
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    昭和44年。1台の日本製ピアノがヨーロッパ中の話題をさらった。美しい音色に、素晴らしい鍵盤のタッチ。18世紀イタリアで生まれ、「楽器の王様」と称されるピアノ。その300年のピアノの歴史に名を刻んだ、日本の職人たちの執念のドラマを描く。戦争の傷が未だ癒えない昭和25年。一台のコンサート用グランドピアノが、東京日比谷公会堂で発表された。作り上げたのは、浜松の楽器メーカー、ヤマハ。聴衆の期待は高まったが、結果 は、「タガのゆるんだ音」と酷評される。ピアノが誕生して以来、ピアノメーカーの雌雄を決する最高級のコンサートグランドピアノの分野は、欧米メーカーが圧倒的に優位 に立っていた。「日本人にピアノが作れるはずがない」とまで言われていた。15年後の昭和40年、ピアノ作りは大きな転機を迎える。名ピアニスト・ミケランジェリとともに来日していた、イタリア人調律師・タローネが、「東洋の日本で、これほどまでにピアノ作りに情熱を燃やしているとは」と、ピアノ作りに協力することを約束。これを機に、「もう一度世界一のピアノを目指す」プロジェクトが発足する。途方もない挑戦に燃える男たち。木工担当の鈴木辰次(36歳)は、親方田中喜三郎からたたき込まれてきた木工職人の技で、20トンに達する弦の張力に耐える強度を持ち、美しく鳴り響くピアノのボディを組み上げていく。さらに調律担当の村上輝久(37歳)は昭和41年、「理想の音」を探求するため、ヨーロッパに渡り、腕を磨いていく。昭和44年1月。完成したピアノを世界に知らしめる機会を得た。場所はイタリア・パドヴァ。演奏するのは、天才ピアニスト・リヒテル。ヤマハの技術者たちが、固唾をのんで見守る中、リヒテルは静かにピアノを弾きはじめた…。その結果は。新たな伝説の始まりだった…。西洋音楽の伝統に挑戦した、日本の職人たちの熱き戦いのドラマを描く。

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  • プロジェクトX 挑戦者たち 勝者たちの羅針盤 爆発の嵐 スエズ運河を掘れ
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    地中海と紅海を結ぶスエズ運河。年間1万4千隻の船舶が通る、世界の海運の大動脈である。今から42年前、運河は時代に取り残されていた。10万トンを超える巨大タンカーが次々に建造される中、19世紀に作られた狭小な運河は5万トン以下の船しか通れなかった。1961(昭和36)年、エジプトの国家プロジェクトとして始まった運河の拡幅増深工事に挑んだのは、日本の海洋土木会社「水野組(現・五洋建設)」の技術者たちだった。工事の主役は「ポンプ船」と呼ばれる作業船。カッターで海中の土砂を削り、ポンプで吸い込んで地上に排出する。しかし、コンクリートの5倍も硬い岩盤の前に、カッターの刃先は2時間でボロボロ。1日3回交換に迫られ、作業は進まなかった。さらに狭い運河を通行する船団との衝突の危険が、プロジェクトを悩ませた。そして、1967(昭和42)年、第3次中東戦争が勃発。工事は中断を余儀なくされる。8年後、ようやく再開した工事にもう一つ難題が降りかかった。運河に残された大量の不発弾だった。ポンプ船の中で爆発、現場は騒然となった。プロジェクトの命運を賭け、日本人ダイバーらによる不発弾処理チームが組織された…。日本の海洋土木技術の威信をかけ、国際舞台に挑んだ男達の壮絶なドラマを描く。

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  • プロジェクトX 挑戦者たち 勝者たちの羅針盤 地図のない国 執念の測量1500日
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    25年前、灼熱の大地アフリカで、日本人測量士が壮大なプロジェクトに挑んだ。「一国の地図をゼロから作る」。それは、4年に及ぶ、文字通り、命を賭けた壮絶な戦いだった。1950年代、次々と独立を果たしたアフリカ各国。そのなかでも最も熾烈な闘争を繰り広げた国があった。西アフリカ・ギニア共和国。「隷属による豊かさよりも、貧しさのなかの自由を選ぶ」。58年、宗主国フランスに対し一方的に独立を宣言。数百年に渡る植民地支配と決別した。しかし、フランスは反発。ギニアの公共施設を破壊し、国の重要資料のほとんどを本国に持ち去った。そのなかには、後の国づくりの要ともいえる「国土基本図(地図)」も含まれていた。地図がないため、ギニアの開発は行き詰った。道路、鉄道、農地…新たな国土開発の目処すら立たなかった。そして、まもなく世界最貧国に転落した。1977年、地球の裏側から救いの手が差し伸べられた。日本政府はODA(政府開発援助)としては異例の、総額10億円の予算を提供。ギニアの国土基本図作成に乗り出す。ベテラン測量士・本島建三(当時・52歳)を筆頭に、日本全国から腕利き測量士が集められた。しかし、その作業は困難を極めた。過酷な自然環境。摂氏40度を越す熱風が測量隊を襲った。さらに、ギニア人との深刻な文化の違い。男たちは絶体絶命の窮地に立たされた。「ギニアを豊かにしたい」という思いを胸に、アフリカの大地と格闘し、やがて現地の人々と心を通わせ一国の地図を完成させた測量士たちの冒険と挑戦のドラマを描く。

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  • プロジェクトX 挑戦者たち 勝者たちの羅針盤 太平洋1万キロ 決死の海底ケーブル
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    国際電話、インターネット、双方向画像の高度医療。「海底ケーブル」は地球20周分にあたる総延長80万キロ、情報化社会を支える血脈である。1989年に開通した「TPC-3(第3次太平洋横断ケーブル)」は当時、世界最長の海底ケーブル。生まれたての技術「光通信」を駆使して、日本とアメリカ双方から敷設を開始。太平洋上でのドッキングに挑む前代未聞の巨大プロジェクトだった。ケーブルを引く敷設船「KDD丸」の乗組員は80人。リーダーはKDD(国際電信電話)の細谷辰雄だった。入社後、病に倒れたが不屈の精神で船に舞い戻ってきた。しかし、細谷達の前に黒潮が立ちはだかった。海底に数百メートルの誤差で敷設するためには黒潮の早さを計算し、緻密な操船、瞬時にケーブルを繰り出すタイミングが要求される。更に、海底には水深1万メートルの日本海溝が口をあける。ケーブルを襲う水圧は1トン。ガラス製の繊細な光ファイバーは水圧でズタズタになった。そして、サメがケーブルを襲うという驚愕の情報がプロジェクトを震え上がらせた。細谷たちはのべ134日の航海の末、ついに至難の敷設作業を達成。しかしメンバーたちを待っていたのは、アメリカ側担当の敷設船「ロングラインズ号」からの緊急連絡だった。「ケーブル損傷! 応援を頼む!」KDD丸は再び太平洋に舳先を向けた。情報の大動脈を築くため、洋上で自らの技術を尽くした男たちの知られざるドラマを描く。

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  • プロジェクトX 挑戦者たち 勝者たちの羅針盤 執念のテレビ 技術者魂30年の闘い
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    1953年(昭和28年)2月1日、日本初のテレビ本放送開始。その実現までには多くの技術者達の知られざるドラマがあった。本放送開始をさかのぼること約30年前の1926(大正15)年12月、世界を驚嘆させる実験が浜松高等工業学校(現・静岡大学工学部)で行われた。手書きの「イ」の字をブラウン管に映し出すというテレビ実験。成し遂げたのは若き教授、高柳健次郎(1899~1990)。全国放送という壮大な夢を持っていた。やがて高柳は、NHKに請われ、東京砧の放送技術研究所で、テレビ放送実現に向けて開発に邁進する。しかしその矢先、戦争が勃発。テレビ放送開発は中止、プロジェクトチームも解散を余儀なくされる。高柳は軍の命令でレーダー開発に従事することになった。そして終戦。「研究を再開できる」と喜ぶ高柳の元に、GHQから衝撃の報せが届く。「テレビ研究は電波兵器につながる。禁止だ」さらに高柳自身、戦争協力者だとして職を追われてしまう。日本のテレビ放送開始は遠のいたかに思えた。しかし高柳は諦めなかった。企業の壁を越えプロジェクト結成を呼びかけ、再び開発に乗り出すのだった…。テレビ本放送開始50周年記念番組として、テレビ誕生に関わった技術者達の物語を壮大なスケールで描く。

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  • プロジェクトX 挑戦者たち 執念の逆転劇 窓際族が世界規格を作ったVHS・執念の逆転劇
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    日本人が初めて生み出した世界規格「VHS」。その快挙は、当時、弱小といわれていた家電メーカーの窓際技術者たちの「意地」の成果 だった。 昭和45年、業界8位だった日本ビクターは、当時、脚光をあびつつあったビデオ事業に乗り出したが、赤字続きだった。「1年やればクビがとぶ」とも言われた事業部長に任ぜられたのは高野鎮雄氏(47歳)。しかし高野氏は夢を捨てず、わずか3人の技術者で極秘プロジェクトを結成、本社には一切報告せずに”新型ビデオ”の開発を続けた。 そうして6年の努力の末に完成させた「VHS」の技術を、高野氏は国内外のメーカーに惜しげもなく公開する。その自社の利益を度外視した戦略が、VHSを世界規格に押し上げて行った。 短期利益を重視せざるを得ない会社の壁と闘い続け、欧米を追い越す夢を実現させた「VHS開発プロジェクト」の執念を追う。

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  • プロジェクトX 挑戦者たち 執念の逆転劇 妻へ贈ったダイニングキッチン勝負は一坪・住宅革命の秘密
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    「もはや戦後ではない」といわれた昭和30年は、東京への一極集中が始まった年だった。年間30万人ずつ膨れ上がる東京の人口。国は日本住宅公団を設立し、住まいの大量供給に乗り出したが、住宅一戸当たりの建設費はおよそ70万円、床面積は13坪がギリギリであった。 「狭いながらも楽しい我が家」は造れないだろうか…。男女3人の建築家が、1センチもおろそかにせずにすむ設計に取りくむことになった。公団の初代住宅計画部課長・尚明(しょう・あきら)氏は、沖縄・琉球王朝の流れをくむ名家に育ったが、戦災で家を失い、バラック住宅での生活を続けており、北側の寒い台所で震えなから炊事をする妻・道子さんの姿を見て、南側にキッチンを作るアイデアを提案。さらに残業や早朝出勤をする都会生活者の暮らしを研究する中で、台所に椅子とテーブルで食事を取るスペースを付けたダイニングキッチンの構想が固まっていった。 都会暮らしの憩いの場として、家庭の主婦が働きやすい空間として生み出された「ダイニングキッチン」。宝くじに当たるより難しいといわれ、人気を集めた「ステンレス流し付き公団住宅」のプロジェクトと、その背景にあった夫婦愛の物語を伝える。

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  • プロジェクトX 挑戦者たち 執念の逆転劇 巨大台風から日本を守れ富士山頂・男たちは命をかけた
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    20世紀を変えた電気通信技術に贈られる技術界のノーベル賞「IEEE賞」。2000年の受賞は、日本が生んだ世界最大の気象レーダー「富士山レーダー」に決まった。 日本列島を台風から守るため、富士山頂に建設された巨大レーダーは、あらゆる意味で常識破りなプロジェクトによる産物だった。入札制度を無視して強行された「気象庁の官民プロジェクト」結成、標高3700mという史上例のない高地での大規模土木工事。そして、乱気流が渦巻く世界有数の危険空域・富士山頂への“巨大レーダー”空輸など。 昭和39年8月15日、元ゼロ戦パイロットが熟練の操縦技術でヘリコプターを操り、620kgにおよぶ巨大レーダーを富士山頂に送り届けることに成功。世界最大の気象レーダー建設に情熱を傾けた、官民プロジェクトの「不可能」への挑戦を描く。

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  • プロジェクトX 挑戦者たち 執念の逆転劇 ガンを探し出せ 完全国産・胃カメラ開発
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    人間の体内をのぞき、ガンを早期発見したい…。医学界、積年の夢を世界に先がけて実現したのは、30代の若き日本人医師と技術者によるタッグ・チームだった。 昭和24年、東京大学附属病院の副手だった宇治達郎氏(30歳)は、死因の上位 を占める胃ガンを早期発見するため、わずか直径12ミリのカメラの開発をオリンパス光学に持ちかけた。欧米でも不可能と思われていた超小型カメラの開発――宇治医師と技術者は、常識を超えた発想で難問に挑んでいった。 レンズは顕微鏡磨きの名人に依頼、フィルムは市販の35ミリを6ミリ幅に切って利用。そして、何よりも一番難しかったのは、5ミリの電球だった。職人が何度も改良を繰り返し、ようやく完成した。 敗戦間もない日本で、斬新な発想と、何にでも挑戦しようとする町工場との連携を武器に、世界が称賛する「胃カメラ」を完成させた男たちの熱気を伝える。

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  • プロジェクトX 挑戦者たち 思いは国境を越えた 戦場にかけろ 日本橋 カンボジア・技術者と兵士の闘い
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    カンボジアの首都プノンペンに、人々からこよなく愛されている一つの巨大な橋がある。  通称、日本橋。1994年、日本の援助で作られたこの橋の完成で、ずたずたになっていたカンボジアの大動脈が復活、地元の人々にこれほど喜ばれた支援はないといわれる。 湾岸戦争の際、国際貢献の拙さで、非難の集中砲火を浴びた日本が、その汚名をすすぐために、全力を注いだカンボジアの復興支援。その最初のプロジェクトが、日本橋の建設だった。 日本の名誉を回復するため、命を賭けて戦場に巨大な橋を作った日本人技術者たちの知られざるドラマ。  大河の中に橋脚を築くために、戦火の続くカンボジアに乗り込んだ大林組の技術者の苦闘。 仕事を引きうけたのは、アジアの途上国ばかりを回ってきた技術者、40歳の田辺勝義だった。しかし、勇躍乗り込んだカンボジアは、銃声が響く、本物の戦場。内戦で技術者は殺され、作業員すらいなかった。 そこに、雇って欲しいとやってきたのが、元工兵部隊の兵士たち。壊すことには長けていても、ものを「作る」ことを知らないカンボジア兵士に、田辺は一から技術を教え始める。  文化の違いから、頻発する衝突。深まる亀裂。かつて難民として日本に逃れたカンボジア人通訳が懸命に溝を埋めようと走り回り、両者は次第に心を許しあうようになる。しかし、その途上、ポルポト派による、日本橋への攻撃予告が流れた。戦火が迫り、プロジェクトは中止の危機に立つ。

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  • プロジェクトX 挑戦者たち 技術者魂よ、永遠なれ 命の水 暴れ川を制圧せよ 日本最大 愛知用水・13年のドラマ
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    昭和36年、木曽川の上流から知多半島の突端まで、120キロの田畑を水が潤していった。構想から13年、総工費423億円の「愛知用水」。長年、干ばつに苦しめられてきた農民達の執念が、日本初の巨大プロジェクトを動かした。 大きな川のない知多半島。雨水を溜めた池が農民達の生活を支えていた。農家の5男に生まれた濱島辰雄。幼い頃、「池番」という見張り役を一日中続けた。池の水を引く順番は厳しく決められ、例え親戚 であっても一滴も渡せなかった。 昭和22年、大干ばつが襲った。その時、農家の久野庄太郎は、木曽川から水を引くことを思い立つ。それを新聞で知った濱島。久野の元に駆けつけ、運命の出会いを果 たす。 久野と共に、ルート作成のため半島全土を歩き、緻密な測量を行った。3ヶ月後、愛知用水の計画図が完成。半島1市25町村の代表が集まり、昭和23年「愛知用水期成会」が結成された。 濱島は高校教師を辞め、末端水路の整備にかけた。久野は親から受け継いだ田畑を全て売り払い活動費にあてた。 最初の課題は莫大な建設費。二人は首相、吉田茂に直談判。国の協力を取り付けた。 昭和32年、工事が始まった。最難関は水源となるダムの建設だった。基礎工事の最中に火山性の有毒ガスが噴出。土砂崩れや落盤など、死傷者が続出した。 「自分達が用水を望まねば、こんなことにはならなかった」 濱島と久野の2人は断腸の思いだった。犠牲者の冥福を祈り続けた。 昭和36年、壮絶な工事が終わりダムと水路が完成。9月30日、愛知用水への放水が始まった。知多半島突端の村では、住民総出で水を迎え、神棚に水を供えた。

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  • プロジェクトX 挑戦者たち 技術者魂よ、永遠なれ 東京ドーム 奇跡のエアー作戦
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    昭和63年3月。日本初の屋根付き球場・東京ドームが誕生した。雨天中止がなくなったプロ野球、夢の球場に日本中が驚いた。可能にしたのは、テフロンで強化した布製の膜材を屋根に使う「膜構造建築」技術。その陰には、テント一筋に生きてきた技術者達の意地をかけた壮絶な物語があった。  昭和45年の大阪万博で、最も注目を集めた建物があった。世界初のエアドーム「アメリカ館」だった。柱を使わず、空気圧だけで膜屋根を支える。工期が短く、コストも安い。手がけたのは、戦後ミシン一台で出発したテント会社・太陽工業の技術者たちだった。しかし、万博終了後「アメリカ館」は、あえなく燃やされた。当時の建築基準法では、膜屋根は「仮設」扱い。恒久建築物には使えなかった。「所詮、俺たちはテント屋か。」技術者たちは辛酸をなめた。  それから10年。「テント屋」達に再びチャンスが巡ってきた。プロ野球の檜舞台・後楽園球場に代わる、屋根付き球場建設計画が持ち上がったのである。オイルショックによる不況、スター選手の引退。新球場は、低迷する興行成績の挽回策だった。  全体施工を担当する竹中工務店と、太陽工業とのプロジェクトが出来た。法律の壁を突破するため、実験棟を建て、台風の中、安全性を証明するデータを採った。建設省に日参し、やっと建築許可を得たものの、今度は近隣の日照権問題が発生。やむなく屋根を北側に傾斜させる前代未聞の設計となった。一枚一枚異なる布の強度。膜を支えるケーブルの微妙な張り具合。傾斜屋根は、さらに作業を複雑で困難なものにした。  そして迎えた「インフレート(空気圧で屋根を押し上げる最後の作業)」の日。一つ間違えばケーブルが大きく跳ね、膜を破ってしまう。メンバーは、厚さ0.8ミリの膜屋根の上に乗り、命がけで作業に当たった。  今や、全天候型スポーツ施設として、日本中に普及した膜構造建築。そのさきがけとなった東京ドーム誕生に賭けた人々の熱いドラマを描く。

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  • プロジェクトX 挑戦者たち 技術者魂よ、永遠なれ 桜ロード 巨木輸送作戦
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    昭和35年、奥飛騨山中で敢行された大木の移植工事に世界中の植物学者の注目が集まった。大木はエドヒガン。繊細で幹が傷ついただけで枯れてしまう老桜。その移植は世界でも例がなかった。「絶対不可能」と囁かれた世紀の工事をやり遂げたのはダムに沈む村を思う男たちの執念だった。 合掌造りで名高い白川郷の近隣、岐阜県荘川村に、かつてその桜はあった。樹齢400年、高さ20メートルの大木。春は村人総出の花見。子供たちは桜吹雪の中で 入学式を迎えた。しかし、42年前、衝撃的な知らせが飛び込んできた。ダムの建設が決定。村は水底に沈むことになったのである。村人たちは桜の木にすがって泣いた。しかし一人あきらめられない男がいた。 高碕達之助。ダムの開発責任者。かつて満州で事業を立ち上げた高碕は敗戦で従業員の故郷を喪失させたと14年にわたり苦しみ続けていた。高碕は桜を見上げる村人を見て思った。「桜を別の場所に移して故郷を残したい」しかし専門家は冷ややかだった。「桜切る馬鹿。梅切らぬ馬鹿」桜の老木は少しでも 根や枝を傷つけただけで枯れる。移植に耐えられるはずがない、というのである。 その時、意外な助っ人が現れた。豊橋の植木職人・丹羽政光(にわまさみつ)。丹羽は弟子の植木職人たちと前代未聞の「桜移植プロジェクト」を立ち上げる。ダムに水をため始めた昭和35年11月15日、世紀の移植工事が始まった。移植先は600メートル離れた国道沿い。運搬はダム工事で使われていた最新鋭のブルドーザー。植木職人、ダム従業員総出の作業が続いた。 日本人にとって特別な花「桜」の移植工事を成し遂げた人々の奇跡の物語を描く。

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  • プロジェクトX 挑戦者たち 技術者魂よ、永遠なれ  家電元年 最強営業マン立つ 勝負は洗濯機
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    昭和28年。日本人の暮らしを大きく変える製品が現れた。 日本初の噴流式洗濯機「SW53」である。頑固な汚れを7分で落とす性能。狭い日本の住宅に適したコンパクトなボディ。価格は従来の外国製洗濯機の半分。家電製品としては初めて、年間6万台を売り上げる大ヒット商品となり、家電時代の扉を開けた。 挑んだのは、三洋電機社長の井植歳男。井植は、14歳から義理の兄・松下幸之助が始めた松下電器を手伝い、大きく成長させた辣腕営業マンだった。しかし、終戦後、GHQの公職追放令で、松下を辞めた。人柄を慕う20人の部下と、自転車の発電ランプを手がける小さな会社「三洋電機」を作った。 井植には、一つの思いがあった。「家電の時代が必ず来る。その第一歩が洗濯機だ。」 当時、女性にとって洗濯は最も過酷な家事だった。道具はたらいと洗濯板だけ。一日数時間かかる過酷な手作業。5人家族で1年間に洗う洗濯物の重さは、象一頭分になった。電気洗濯機は、庶民には高嶺の花だった。 井植は琵琶湖の畔の古びた工場を買い取った。そこは、業績不振で閉鎖された元・松下金属の工場。後片づけをしていた若い技術者がいた。山下友一、27歳だった。山下たち6人の社員は、井植から電気洗濯機の開発を命じられた。 大手メーカー各社も開発にしのぎを削る中、井植は言った。「ライバルは同業他社ではない。お客の心である。」メンバーは、高性能で安価、電力事情の悪い日本の家庭でも使える洗濯機の開発をめざす。新婚の山下は、洗濯で荒れた妻の手を見て奮起した。 しかし、やっと作り上げた洗濯機は売れなかった。世間は「女性の家事に機械はいらない」とあざ笑った。「男性中心」の社会の意識が壁になっていた。その時、「伝説の営業マン」井植が、あの手この手の営業作戦に打って出た。 「お客の心」にこだわり、日本の家電時代を切り開いた男達の熱きドラマを描く。

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  • プロジェクトX 挑戦者たち 起死回生の突破口 魔法のラーメン 82億食の奇跡 カップめん・どん底からの逆転劇
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    昭和46年。20世紀の食生活を劇的に変えた一つの食品が登場した。お湯を注いで3分、いつでもどこでも食べられる「魔法のラーメン」、カップめんである。高度経済成長のもと、寸暇を惜しんで働く日本人の胃袋を満たしただけでなく、世界中の飢餓や災害の現場に欠かせない貴重な食料となった。年間消費量は世界で82億食。メイドインジャパンの代表格である。 開発したのは、日清食品の若手技術者たち。当時、会社は「ラーメン戦争」と呼ばれる他社との熾烈な価格競争で業績が悪化していた。社長の思いがけない発想をもとに、自らの命運をかけたカップめん開発が始まる。 開発は困難を極めた。カップの形に合わせためんは、中まで火が通らない。一日20回にも及ぶ試食で、メンバーの体重は10キロも減った。ようやく作った試作品も、問屋から「食べ物ではない」と拒絶された。 逆境の中、食品加工技術の限界に挑んだ若者とアイデア社長の熱き闘いを描く。

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  • プロジェクトX 挑戦者たち 起死回生の突破口 謎のマスク 三億円犯人を追え 鑑識課指紋係・執念の大捜査
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    警察の信頼を揺るがせた東芝府中三億円強奪事件。それから18年後、再び起きた三億円事件に、鑑識課指紋係の男達が立ち上がった。昭和43年12月10日、府中市で三億円強奪事件が発生。鑑識課に配属されたばかりの塚本宇兵は、うんざりしながら指紋採取にあたっていた。その頃は物証よりも、自供に頼る捜査が優先。現場に入るのは捜査一課が一番、指紋係はニの次だった。警視庁はのべ17万人を越える捜査員を投入。しかし犯人はつかまらなかった。そして昭和50年、時効を迎えた。昭和61年11月25日、有楽町で悪夢がよみがえった。3億3千万円が4人組の男に強奪された。その時、塚本は鑑識課のキャップになっていた。捜査一課の指揮官は塚本の3つ先輩の緒方保範。最初に配属された派出所で共に「腕利きの刑事になろう」と熱く語った仲だった。その後、緒方は捜査一課のエースに。塚本は夢敗れ鑑識課に。「どっちが早く犯人をあげるか」因縁の勝負が始まった。緒方は遺留品を徹底的にあらい犯人の足取りを追う。塚本は500万件を越える膨大な指紋との照合を進めていく。長引く捜査に世間からは非難にさらされた。そして妹の死。苦難の末、浮かび上がったのは意外な犯人像だった。日の当たらない鑑識という仕事に誇りをかけ、リベンジを果たした男達のドラマ。

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  • プロジェクトX 挑戦者たち 起死回生の突破口 通天閣 熱き7人 商店主と塔博士の挑戦
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    大阪のシンボル、通天閣。戦時中に一度焼失したこの塔を、昭和31年に再建したのは、行政でも企業でもなく、古着屋、写真屋、ウナギ屋など、地元・新世界の商店主たちだった。 戦後、焼け野原だった大阪・新世界に、闇市が生まれた。集まったのは、裸一貫同然の男たち。意地としたたかさだけで、焼け跡を生き抜いていた。 復員して麻雀屋を始めた知里正雄。父の末吉から「焼失した通天閣を再建したい」と、夢を託された。明治45年に「東洋一のタワー」として建設された通 天閣の再建は、新世界の復興をかけた人々の願いだった。 末吉が作らせた原図をもとに、7人の商店主が立ち上がった。その挑戦は、素人ならではの大胆なもの。公園を勝手に用地に選び、口八丁で市の許可をとった。設計者には、日本一の大御所・内藤多仲を口説いた。「もし再建できたらうどんで首をつったる」とあざ笑う街の人々を説得し、資金を集めた。 焼け跡から立ち上がった庶民が、行政、専門家を巻き込み、後に大阪のシンボルとなる一本の塔を建てるまでの、意地と執念のドラマを描く。

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  • プロジェクトX 挑戦者たち 起死回生の突破口 医師たちは走った 医療革命 集団検診
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    昭和34年、信州の人口6000人の小さな村・八千穂村で、日本の医療を変えた画期的な試みが始まった。全住民を対象にした「集団検診」である。 高度成長に向かう日本の中で、農村医療は取り残されていた。過酷な暮らしで、脳卒中や結核が絶えなかった山間の村々。しかし、現金収入のない農民たちは「病気は恥だ」と我慢した。医者にかかるのは手遅れになってから。死亡診断書を書いてもらうためだった。 「農民たちを救いたい。」立ち上がった一人の医師がいた。佐久病院院長・若月俊一。信州の赤ひげと呼ばれた男だった。新米医師や看護婦、そして村人の代表も集まった。 「手遅れの患者を減らすには、病気を未然に防ぐことが必要だ。」若月たちが始めたのは、前代未聞の「全村集団検診」。農閑期の冬、医師たちは集落の公民館を回った。 しかし、幾多の困難が待ち受けていた。問診で衣食住を聞かれることに、村人は抵抗した。村議会でも不要論が出た。医師たちは、皆に足を運んでもらえるよう、手作りの芝居を上演した。検診会場で高血圧を減らすための味噌汁も作って見せた。 やがて集団検診がきっかけで、一人の糖尿病の男性の命が救われ、人々の見る目が変わった。昭和41年、ついに八千穂村の一人あたりの医療費は全国平均を大きく下回った。集団検診はその後全国に広まってゆく。 医師たちの熱い思いと、農民たちとの交流を通して、農村医療の基礎を作った姿を描く。

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  • プロジェクトX 挑戦者たち 起死回生の突破口 8ミリの悪魔VS特命班 最強の害虫・野菜が危ない
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    昭和47年、日本への復帰に沸く沖縄で、人々を震撼させる出来事が起きた。東南アジアから恐るべき害虫が飛来したのである。 「ウリミバエ」。体長わずか8ミリのこの虫は、カボチャ、ピーマンなどの野菜に寄生し卵を産み付ける。野菜には瞬く間にウジが沸き、腐ってしまう。世界各地で猛威を震い恐れられていた、史上最悪の害虫「8ミリの悪魔」だった。 天敵のいない沖縄の島々で、ウリミバエは大繁殖。次第に北上した。もし、本土に上陸すれば、日本の野菜全体が壊滅的な被害を受ける。日本政府は「植物防疫法」により、沖縄県からの野菜の持ち出しを厳禁した。  「沖縄全域からウリミバエを根絶しよう」沖縄県農業試験場の研究者を中心に、プロ ジェ クトチームが結成された。リーダーは与儀喜雄。農家の息子の植物防疫官だった。農家の苦しみを目の当たりにしてきた男の、必死の根絶作戦が始まった。しかし、農薬を持ってしても根絶出来ない最強の害虫を前に、プロジェクトは行き詰まった。ウリミバエは沖縄本島を席巻し、九州上陸は時間の問題となった。 「沖縄でウリミバエをくい止めろ」政府は、ウリミバエ根絶のため、思いも寄らぬ 方法を沖縄県に提案した。それは、放射線「コバルト60」をハエに照射して、生殖細胞を破壊。繁殖力を失ったハエを増殖させることで、何十年もかけて撲滅するという、気の遠くなるような作戦だった。 全てが手探りの中、沖縄の男たちと虫との壮絶な戦いが始まった。作戦が始まって 一年、二年と過ぎる中、ハエが減り始めた。 「これで、ついに撲滅出来る」プロジェクトが、そう確信した時、その行く手に、とんでもない壁が立ちはだかった。それは、沖縄在留アメリカ軍基地。「内なる国境」だった。 21年に渡る闘いの末、ウリミバエの根絶に成功。日本の食糧を守り抜いた沖縄の男たちのドラマを描く。

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  • プロジェクトX 挑戦者たち 開拓者精神、市場を制す 赤いメロン 北の大地の20年戦争
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    北海道夕張市。農協の耐火金庫に、大切に保管されているものがある。メロンの種である。品種名「夕張キング」。美しいネット、甘く香り高い、赤い果肉。夕張のメロンは、今や高級ブランドの代名詞である。その誕生の裏には、地域の生き残りをかけた農家の壮絶な格闘があった。 昭和25年、夕張は燃えていた。朝鮮戦争の特需をうけ、第2次石炭ブームに沸いていた。人口10万人、町には人があふれ、豊かな町の中心部は、夜でも明かりが消えることはなかった。一方、中心街から10キロ離れた沼ノ沢地区。農家は貧しさの極致にあった。周囲を夕張山系に囲まれた盆地で、寒暖の差が激しい。さらにやせた火山灰の土。穫れる作物は、長いも、アスパラとわずかな夏野菜だけだった。 このままでは夕張の農家は全滅する。その時、農業改良普及員の杉目直行が言った。「メロンはどうか」。夕張でわずかに生産されていたスパイシー・カンタローブ。香りがよく、赤肉が特徴のメロンだった。しかし甘みがなく、砂糖をかけて食べなければならない代物だった。「これを改良して、新たな品種を作れないか」昭和35年、17戸の農家が立ち上がった。 農家の豊田祐一たちは、交配するための種子を求め、全国を飛び回った。他のメロン産地の農家に土下座して、やっと手に入れた別品種と交配。しかし、栽培は困難を極めた。季節はずれの大雪に、突風。ビニルハウスを壊した。温度管理を間違うと、たちまち枯れた。農家はハウスに寝泊まりし、苗を見守り続けた。 昭和45年、やっと育て上げたメロンを東京市場に出荷。しかし重大な問題があった。赤肉のメロンに、市場関係者は言い放った。「こんなカボチャメロンは売れない」。さらにメロンは、日持ちしなかった。東京に着いたコンテナから出されたメロンは、腐っていた。トラック、鉄道、空輸。あの手この手の輸送作戦を試みた。そして昭和54年、産地直送システムを確立。夕張のメロンは全国の家庭で味わえるようになった。 徹底した品質管理と「産地直送」の先駆けとなった農業技術。地域の存亡をかけてメロン作りに執念を燃やした農民たちのプロジェクトを描く。

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  • プロジェクトX 挑戦者たち 開拓者精神、市場を制す 救命救急 ER誕生 日本初 衝撃の最前線
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    昭和41年、大阪は万博開催を4年後に控え、道路が拡張。事故の発生率が全国一となり「交通戦争」と呼ばれた。しかし、重症患者を治療できる病院は少なく「たらい回し」が社会問題となった。 大阪府は大阪大学付属病院に24時間重症患者を受け入れる施設の設置を要請。昭和42年8月、日本初の「特殊救急部」が誕生した。リーダーは、34歳の杉本侃(つよし)。メンバーは皆20代から30代若者だった。 第一号の患者は、入れ墨の男。抗争事件で腹を刺されていた。「人殺しを助けるのか」と学内から揶揄(やゆ)された。患者の多くは「指を切った」「目にゴミが入った」など軽傷者。メンバーの気持ちはなえていく。 ある日、交通事故で全身傷だらけになった「多発外傷」の患者が訪れる。メンバーは頭や内臓など懸命に処置。しかし、全く傷のない肺の機能が低下し、患者は亡くなった。理由が分からなかった。以来「多発外傷」との闘いが始まる。 血の海、緊迫した声が飛び交う医療の最前線。修羅場の中で、若き医師達は次第に自分の専門分野を磨いていく。そして、再び「多発外傷」の患者が運び込まれて来た。杉本以下、メンバーは総力を挙げ、消えゆく患者の命と向きあった。そして運命の一瞬。 日本初の救急医療に挑んだ若き医師達の壮絶な闘いのドラマ。

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  • プロジェクトX 挑戦者たち 開拓者精神、市場を制す 革命トイレ 市場を制す
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    今や日本のトイレのほぼ2軒に1軒の割合で設置されている「温水洗浄便座」。心地よいお湯でお尻を洗い温風で乾かす。古来「ご不浄」と呼ばれ、不潔の代名詞だったトイレのイメージを、「快適」で「清潔」な空間へと変えた革命的な製品である。清潔志向の高まりから、不況の中でも売り上げを伸ばすヒット商品でもある。その開発の影には、ひたむきにトイレと向き合い続けた技術者たちの姿があった。 昭和36年、北九州の街に降り立った男がいた。本村久。早稲田大学理工学部を卒業、就職したのは東洋陶器(現TOTO)。戦前から続く国内最大手のトイレメーカーだった。 折からの建築ブームの波に乗る住宅産業界。しかし、当時、まだ下水道整備が行き届いていない日本のトイレは「不浄なもの」の代名詞。水洗トイレの金具を設計する部署に配属された本村も、その技術を甘く見ていた。 しかしある日、本村は上司から一喝される。「トイレは人々の暮らしを豊かにする商品だ。ひとつひとつの商品に魂を打ち込め」。金具の鬼と言われた杉原との出会いによって、本村は技術者の誇りに目覚める。 その矢先だった。二度のオイルショックの波が会社に襲いかかる。「新しい柱となる商品を開発せよ」。本村たち若手技術者に社運を賭けた指令が下る。任されたのは、痔の患者などの医療用に細々と売られていた「洗浄便座」。これを一般向けに全て設計し直し、新しい需要を掘り起こす。 その開発は困難を極めた。人にとって心地よいお湯の温度は何度か。汚れを完全に落とすには水は何リットル必要なのか。男達は自ら実験台となり試作を繰り返す。さらに、微妙な温度を制御するには最新式の電子回路技術が必要だった。しかし、感電の可能性のある電子回路の使用は危険な賭けだった。 そして運命の発売日。「トイレ」「おしり」の文字は当時のメディアでは「タブー」。宣伝もままならないなか、営業マンたちは全国を走り回った。さらに、追い打ちをかけるように殺到したクレームの嵐。プロジェクトは夜を徹して商品の改良に当たる。そして温水洗浄便座「ウォシュレット」が完成。男達は一人の天才コピーライターとともに誇りをかけた、一か八かの大勝負に打って出た。 数々の困難を克服し、「不潔なトイレ」のイメージを覆した「トイレ革命」を成し遂げた男たちの逆転のドラマを描く。

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  • プロジェクトX 挑戦者たち 開拓者精神、市場を制す 運命の最終テスト ワープロ・日本語に挑んだ若者たち
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    日本語。48字のひらがなと5万もの漢字がおりなす世界に冠たる美しい言葉。しかし戦後、日本語はその複雑さゆえ、経済復興の足かせとなった。 昭和40年代、高度成長期の日本は企業間の取引が増大。サラリーマン達は契約書の作成に追われていた。欧米の企業は26文字のアルファベットを駆使、誰もがタイプライターで契約書を作った。一方、日本では数少ない和文タイピストに依頼するしかなかった。誤字があれば、また打ち直し。公の文書を作るコストは、欧米の3倍と言われた。「誰もが使える日本語ワードプロセッサー、ワープロを作ろう」立ち上がったのは、東芝の若き技術者と、どん底にあえいだ工場の男達。ひらがなを漢字に変換する、不可能と言われた技術に挑んだ。しかし、日本語の壁が立ちはだかった。 同音異義語、同じ発音の言葉を機械は区別できない。「貴社の記者は汽車で帰社する」どうやったら正しく変換できるのか。また、変換するのに20秒以上かかる言葉もあった。そして突然、商品化を決定する事業部長から開発中止命令が下った。 絶体絶命に陥ったプロジェクトは、一度限りのワープロの性能テストに全てをかけた。リーダーの森は、機械の操作を一人の女性に託した。タイピストではなく、総務の事務員。「素人でも使えなければ意味が無い」大ばくちに出た。 累計3千万台を売り上げ、国民的商品となったワープロの執念の開発物語を描く。

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