谷真介作品一覧
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-1865年2月19日、フランス人のために建てられた大浦天主堂の献堂式が盛大に行われた。しかし、時は江戸幕府の禁教令下。外に出ることはできなかったプチジャン司教は信徒たちが訪れるのをじっと待っていた。1か月後の3月17日、15人ほどの人々が、天主堂の前にやってきた。一人の女性が、祭壇の前で祈っているプチジャン神父のそばでささやいた。「ワタシノムネ、アナタトオナジ」「サンタ・マリアのご像はどこ?」司教の心は高鳴った。「信徒発見」の出来事である。プチジャン司教はなぜ日本にやってきたのか。禁教下の250年の間、信徒たちはどのようにして信仰を子孫に伝えていったのか、日本のキリスト教にとって、節目となる激動の時代を描く。
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-関ヶ原の戦いが終わり徳川家康が天下の実権を握ったころ、通訳として活躍していたロドリゲス神父は、伏見の町にある家康の大奥の侍女の中に、朝鮮の若い女性の信者がいることを知り、ローマのイエズス会本部へ送る報告書の中に記しました。彼女は美しい娘で、熱心に信仰の道を歩んでいました。この報告書から2年後、ジュリアは伏見から江戸城に移ったことが、フランシスコ会のムニョス神父の報告書に書かれています。この中では、「ジュリア」と名が記されていました。ジュリアはいつ、どのようにして朝鮮から来たのでしょうか? この後のキリスト教禁令の時代の中で、果たして信仰を生きることができたのでしょうか?
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-1867年7月14日、信徒たちが隠れて集まっていた秘密の教会に、真夜中、役人たちがたいまつを片手にやってきた。牢に捕らえられた信徒らは、その後各地に流された。俗に言う「浦上四番崩れ」である。この大変な時に、ド・ロ神父が日本にやってきた。やがて、「切支丹禁制」の高札が取り払われ、流された信徒たちが浦上に帰って来ると、ド・ロ神父は、医療、農業、教育、福祉と、多方面に活躍し村の生活を立て直す。次に派遣された外海でも、ド・ロ神父は故郷で学んだあらゆる知識を生かし、村人たちが自立できるよう事業を立ち上げていく。今の日本の教会の礎を作った宣教師たち。信仰面だけでなく、生活面でも活躍したド・ロ神父の人間性に迫る。
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-日本史の年表を覚えるとき、「いごよろしく」と言って暗記する出来事「キリスト教伝来」。宣教師たちの来日によって日本にキリスト教が伝えられた。その最初の宣教師フランシスコ・ザビエルの波乱に満ちた生涯の物語。世界一周の航路が開かれた大航海時代、冒険に満ちた時代が始まると、キリスト教宣教師たちも次々と新世界に出ていった。フランシスコ・ザビエルも東洋への宣教を目指して出発した。ザビエルが日本にやってきたきっかけは、マラッカの町で日本から逃亡してきたヤジロウとの出会いだった。ヤジロウに案内されて1549年(天文18年)、鹿児島の地に足を踏み入れた。それは、日本の心とヨーロッパの心の出会いともなった。
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-鎖国時代が終わり、日本が近代国家として歩みはじめた明治4年(1871年)、アメリカ、ヨーロッパの諸国をめぐり各国の元首たちをたずねる岩倉具視ら50人の使節団が、長い旅の後イタリアのベネチアを訪問した。そこで訪れた古文書館の係員から、280年前に日本から来た使節たちの手紙7通を見せられた。天正少年使節と、支倉常長の使節の手紙だった。関ヶ原の戦いよりも前に、使節団が派遣されていたことを岩倉は知らなかった。禁教令の中、キリシタンたちの歴史は抹殺されていたからだ。キリシタン大名たちから派遣された4人はどのような少年たちで、どのような使命を託されて、数年に渡る命がけの旅に出、どのような運命をたどったのだろうか