NHKプロジェクトX制作班 - いのち作品一覧

  • プロジェクトX 挑戦者たち 命の離島へ 母たちの果てなき戦い
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    戦中、すさまじい地上戦が行われ、市民10万人が犠牲となった沖縄。戦後、多くの感染症が蔓(まん)延、生まれたばかりの赤ん坊が死んだ。その訳は、沖縄の医師の多くが軍医に駆り出されたためだ。その窮状に立ち上がったのは100人の女性たち。沖縄独自の「公衆衛生看護婦」となり、各離島に駐在、島人の病を予防する活動に打ってでた。自らの家庭の犠牲も顧みず、活動に邁(まい)進。戦後沖縄を支えた女たちの壮絶なドラマ。

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  • プロジェクトX 挑戦者たち 命輝け ゼロからの出発 決断 命の一滴/白血病・日本初の骨髄バンク
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    毎年5000人が発症する血液のガン・白血病。原因は不明で、老若男女、誰もが突然襲われる。かつて薬で完治する確率は3分の1と言われ、残りは、血液を作る骨髄を他人から移植する『骨髄移植』しか手だてはなかった。  昭和61年、大学院生だった大谷貴子は、就職が始まった矢先、突然白血病の宣告を受けた。骨髄移植を受けなければ助かる見込みはなかった。骨髄の型が適合し、移植が可能になるのは兄弟で25%、他人では数千分の1と極めて低い。大谷は、必死の提供者探しの後、奇跡的に母親と適合し、生還した。  しかし、入院中に、同じ病の苦しみをいやし合い、姉妹のように過ごした1人の少女は、提供者が見つからず、中学3年生の15才で亡くなる。  大谷は、少女の死に衝撃を受けた。「誰もが移植を受けられる世の中にならないか」そして、自分の移植を担当した医師、森島泰雄と共に、日本初の骨髄バンクを作るプロジェクトを発足した。  平成元年、9月。やっとの思いで第1号移植への道が見えてきた。日本初の提供者は40才男性。岐阜の市役所職員だった。恐怖、使命感、手術が近づく中、男の心は揺れた。  今や、白血病患者の命を救うかけがいのない制度となった骨髄バンク実現のため、ボランティアで心血を注いだ人々の愛と勇気のドラマを伝える。

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  • プロジェクトX 挑戦者たち 新たなる伝説、世界へ レーザー 光のメスで命を救え倒産工場と脳外科医
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    レーザー光線。その強力な出力から「殺人光線」と呼ばれた技術を医療に用い「神の指先」と言わしめたレーザーメスを開発した男たちがいた。立ち上がったのは脳外科医、滝澤利明。昭和40年代、脳外科では摘出困難な腫瘍や出血に悩まされ、余命宣告せざるを得ないこともしばしばだった。「レーザーを照射すれば正確に患部が切れ、しかも一瞬で血管が塞がり出血がない」ことを自ら動物実験で確認した滝澤は、小さな町工場とともに開発に乗り出した。町工場のメンバーは全員が手に火傷を負いながら開発に取り組んだ。しかし当時まるで「巨大な大砲」だったレーザー発射装置を手術室に出し入れできるほどコンパクトにし、直進するレーザー光線を医師の手元まで送り、自在に照射することは至難の業だった。しかも開発から3年後、町工場は倒産。技術者達は妻子を実家に帰し、債権者から身を隠しながら開発を続けた。昭和50年、様々な困難を乗り越え、ついにレーザーメスが完成した。残るは医療機器として当時の厚生省から認可を得るための臨床例が必要だった。昭和54年、滝澤は悪性の脳腫瘍を患い余命1年と宣告された8歳になる女の子の手術に成功。翌年、レーザーメスの製造が正式に認可された。一人でも多くの命を救いたいと願う脳外科医と町工場の技術者達の執念のドラマを描く。

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  • プロジェクトX 挑戦者たち 命のリレー 出動せよ救急救命士
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    かつて医師法が壁になり、医療行為が出来なかった日本の救急隊。目の前で多くの命が消えていった。法改正に立ち上がり救急救命士制度誕生に尽くした人々のドラマを描く。

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  • プロジェクトX 挑戦者たち 技術者魂よ、永遠なれ 命の水 暴れ川を制圧せよ 日本最大 愛知用水・13年のドラマ
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    昭和36年、木曽川の上流から知多半島の突端まで、120キロの田畑を水が潤していった。構想から13年、総工費423億円の「愛知用水」。長年、干ばつに苦しめられてきた農民達の執念が、日本初の巨大プロジェクトを動かした。 大きな川のない知多半島。雨水を溜めた池が農民達の生活を支えていた。農家の5男に生まれた濱島辰雄。幼い頃、「池番」という見張り役を一日中続けた。池の水を引く順番は厳しく決められ、例え親戚 であっても一滴も渡せなかった。 昭和22年、大干ばつが襲った。その時、農家の久野庄太郎は、木曽川から水を引くことを思い立つ。それを新聞で知った濱島。久野の元に駆けつけ、運命の出会いを果 たす。 久野と共に、ルート作成のため半島全土を歩き、緻密な測量を行った。3ヶ月後、愛知用水の計画図が完成。半島1市25町村の代表が集まり、昭和23年「愛知用水期成会」が結成された。 濱島は高校教師を辞め、末端水路の整備にかけた。久野は親から受け継いだ田畑を全て売り払い活動費にあてた。 最初の課題は莫大な建設費。二人は首相、吉田茂に直談判。国の協力を取り付けた。 昭和32年、工事が始まった。最難関は水源となるダムの建設だった。基礎工事の最中に火山性の有毒ガスが噴出。土砂崩れや落盤など、死傷者が続出した。 「自分達が用水を望まねば、こんなことにはならなかった」 濱島と久野の2人は断腸の思いだった。犠牲者の冥福を祈り続けた。 昭和36年、壮絶な工事が終わりダムと水路が完成。9月30日、愛知用水への放水が始まった。知多半島突端の村では、住民総出で水を迎え、神棚に水を供えた。

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  • プロジェクトX 挑戦者たち 執念の逆転劇 巨大台風から日本を守れ富士山頂・男たちは命をかけた
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    20世紀を変えた電気通信技術に贈られる技術界のノーベル賞「IEEE賞」。2000年の受賞は、日本が生んだ世界最大の気象レーダー「富士山レーダー」に決まった。 日本列島を台風から守るため、富士山頂に建設された巨大レーダーは、あらゆる意味で常識破りなプロジェクトによる産物だった。入札制度を無視して強行された「気象庁の官民プロジェクト」結成、標高3700mという史上例のない高地での大規模土木工事。そして、乱気流が渦巻く世界有数の危険空域・富士山頂への“巨大レーダー”空輸など。 昭和39年8月15日、元ゼロ戦パイロットが熟練の操縦技術でヘリコプターを操り、620kgにおよぶ巨大レーダーを富士山頂に送り届けることに成功。世界最大の気象レーダー建設に情熱を傾けた、官民プロジェクトの「不可能」への挑戦を描く。

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  • プロジェクトX 挑戦者たち 成功へ 退路なき決断 霧の岬 命の診療所
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    北海道東部の、小さな漁村・霧多布の地域医療を支えた、一人の医師と小さな診療所のチームのドキュメント。

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  • プロジェクトX 挑戦者たち 翼よ、よみがえれ 国境を越えた救出劇大やけど コンスタンチン君・命のリレー
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    1990年8月20日の夕方、旧ソ連のサハリンで、3歳の男の子が大やけどを負った。誤って熱湯が入ったバケツを倒したためだった。コンスタンチンくんの親は、医療技術が進んだ日本で手術が受けられないかと知り合いに相談。北海道庁に連絡を取った。その一本の電話がきっかけで、前例のない超法規的措置が、外務省、法務省、海上保安庁の間で検討されていく。「ビザはどうするのか」「飛行経験のないソ連領空を安全に飛べるのか」「手術に失敗したら日本の恥にならないか」…しかし、関係者は様々な思惑を超えて、見知らぬ幼児の命を救うことを最優先に掲げる。最初の電話からわずか17時間後、海上保安庁の輸送機がサハリンへ飛び、コンスタンチンくんは札幌医科大で手術を受けた。両親は涙ながらに日本人への感謝を述べ、ゴルバチョフ大統領も謝意を表明した。  小さな命を救おうと、東西冷戦末期、日本とソ連との間で交わされた、「善意」のバトンタッチを描く。

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  • プロジェクトX 挑戦者たち 復活への舞台裏 裕弥ちゃん1歳 輝け命日本初・親から子への肝臓移植
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    1989年、出雲市にある島根医科大学に、瀕死の状態の1歳の男の子が運び込まれた。肝臓移植をしなければ助からない、胆道閉鎖症を患った杉本裕弥ちゃんだった。 永末直文医師を中心とする医療チームは、難しい選択を迫られる。当時、脳死による臓器移植は認められておらず、助けるには健康な人の肝臓を切り取り移植するしかなかった。手術に成功しても、失敗しても倫理上の非難が集中することは必至だった。しかし、医師たちは肝臓提供を申し出た父親や家族の思いを聞くうちに、日本初の生体肝移植への決意を固めた。 15時間に及んだ難手術、285日目に訪れた別れ。母親は、「自分をあーたん(母さん)と呼んでくれた瞬間を持てただけで、手術をお願いした甲斐がありました」と語った。 その後、生体肝移植の技術は固まり、1000人を超える子供たちが助かっている。小さき命を救うために手術に初めて挑戦した、医師と家族のプロジェクトを描く。

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