【感想・ネタバレ】眠れなくなる怪談沼 実話四谷怪談のレビュー

\ レビュー投稿でポイントプレゼント / ※購入済みの作品が対象となります
レビューを書く

感情タグBEST3

Posted by ブクログ


四谷怪談で有名なお岩さん。
きっと、聞いたことはあるかと思います。
四谷怪談の内容を知らなくても、怖さ・ストーリーがとても面白く、怪談好きにはたまらなかった。
そして、古典怪談にも興味が湧きます。
もっと知りたくなりました。

四谷怪談の解説は詳しくて読み応えがあり、実話怪談は怖くて不思議で、とても贅沢な1冊です。

読み終えた後、四谷怪談の印象が変わると思います。

0
2023年05月17日

Posted by ブクログ

「四谷怪談」らしく、読んだのはお盆の頃。

面白かったんだけど、いささか、衒学的になりすぎちゃったかなぁー(^^ゞ
「四谷怪談」=怖い!なんだから、もうちょっと怖がらせてくれてもいいんじゃない?みたいなw
もちろん、この本は「四谷怪談」が成立していく過程を紹介する内容だから。
やもすれば、「四谷怪談」を"お勉強”するような内容になるのはしょうがないし。
なにより、そのことも期待して読んでいるわけで、それはそれで全然OKなんだけどさ。
でもさ。「四谷怪談」というのは怪談なわけじゃん。
怪談ということは、怖さを楽しむ「娯楽」じゃん。
「四谷怪談」に学術的意味や知的好奇心を求めて、この本を手に取った人もいるのかもしれないけど、自分はそれだけではなかったので(^^ゞ
夏といえば怪談だよね。怪談といえば「四谷怪談」だよね。「四谷怪談」といったら、無茶苦茶怖いよね的に。軽ぅ〜い気持ちで手に取ったこともあって。
『四ツ谷雑談集』、講談・落語の「四谷怪談」、『東海道四谷怪談』と繰り返される「四谷怪談」のストーリーに、「え? また読むの、これw」となってしまったのは事実だ(^^ゞ
ていうか、これじゃ、まるで、『文藝百物語』に出てくる「繰り返す四谷怪談」だよなぁーwって、読んでいて苦笑してしまったくらいだ。

とはいうものの。
『四ツ谷雑談集』→ 講談・落語の「四谷怪談」→ 『東海道四谷怪談』での「四谷怪談(というより、お岩さん)」の変遷は、すごく興味深かったのは事実だし。
『四ツ谷雑談集』では、怪談であると同時に哀しいストーリーとして描かれていたその話が、講談と落語では一転、大衆の下世話な好奇が求めるままにグロテスクに変容する様は、元ネタに尾ひれ眉唾つけまくって、"怪談好きの怪談好きによる怪談好きのための怪談に仕立て上げちゃう”、「実話怪談」と呼ばれる今の怪談そのままで(ま、今の「実話怪談」に限らず、怪談というのはいつの時代もそういうものなんだろーけどねw)。
世間というのは、結局、昔も今も変わらないんだなぁーと、ミョーにしみじみ(^^ゞ


そういえば、前に「四谷怪談」に関する本を読んだ時は、確か『四谷地誌(字は違うかもしれない)』という、怪談とは何の関係もない書物があって。
そこに貞女だか孝女の「お岩」という人が出てきて、その人が「四谷怪談」のお岩さんのモデルになった、みたいに書かれてあったような記憶があるんだけど(読んだのはかなり前なんで定かではない)。
この本では、その『四谷地誌』のことに一切触れられていないのがどういうことなんだか、その辺りがよくわからない。
でも、この本で「四谷怪談」の大元とされている『四ツ谷雑談集』の中で描かれている「お岩さん」を見る限り、たぶん、『四谷地誌』の「お岩」と同じ人物なのだろう。
ただ、同じ人物といっても、確か、『四谷地誌』の「お岩」は怪談とは関係ない人なのに対して、『四ツ谷雑談集』の中で描かれている「お岩さん」は怪談の登場人物という大きな違いがある(注:『四谷地誌』のことはかなり前に読んだ本の記憶なので定かではない)。

ただ、『四谷地誌』の「お岩」にしても、『四ツ谷雑談集』の中で描かれている「お岩さん」にしても、その人を良い人ーー『四谷地誌』では貞女だか孝女。『四ツ谷雑談集』では結果的に怪談の主人公になってしまったものの、生前は不幸にめげずに毅然と生きた女性ーーとして書かれているわけで。
そういう人のエピソードを、どうして、講談・落語の「四谷怪談」以降は、大衆の好むドロドロの人間関係に基づくグロテスクな話に変えてしまったのか、その辺がイマイチ理解できない。

だって、たとえば今、美談か何かで話題を集めた人、仮に女性がいたとして、その人に関わるエピソードをエンタメ界がわざわざ怪談にする?
しないよね。
もちろん、今と江戸時代ではそういうことの仁義に多少の違いがあったのは確かだろう。
でも、『四谷地誌』の「お岩」は貞女だか孝女として、世間の尊敬を集めていたのだ。
世間のウケがなにより大事なエンタメ業界が、その世間の尊敬を地に落として世間から批判を浴びるようなマネは、江戸時代だってしないように思うのだ。
(もっとも、時代を経ることで評価が変わるということはあるのだろうけど)

もっとも。
怪談とは関係ない『四谷地誌』の「お岩」さんが、“なんらかの理由”で『四ツ谷雑談集』の中で怪談の主人公である「お岩さん」になったことで、ネタを探している講談・落語がそれを大衆の嗜好に寄り添ったエンタメ怪談に仕立て上げちゃった……、ということなら、それは今の「実話怪談」と呼ばれる、怪談好きの嗜好に寄り添って作られるエンタメ怪談と同じなので、まー、それと同じことか、と理解出来なくはない。
それこそ、今の「実話怪談」だって、かつての連続幼女殺害事件の被害者のことを(家族の気持ちを一切考えないで)平気でネタにしている連中がいるわけだ。
そのことを踏まえれば、確かにそれはあり得るだろう。
ただ、だとしたら、怪談とは関係ない『四谷地誌』の「お岩」さんが、なぜ、『四ツ谷雑談集』の中では「お岩さん」という怪談の主人公になってしまったのか?という疑問が出てくる。

実は、この本には、その疑問に対する回答のようなもの、というか、この本を読んでいて、「もしかして、そういうこと?」と思ったことが書かれている。
それが、「第4章:伝承と信仰に息づくお岩さま」の中の、「2.於岩稲荷田宮神社に伝わるお岩さまーー鴛鴦夫婦説」にあることで、そこにはこう書かれている。
“お岩さまと婿養子の田宮伊右衛門は人も羨む鴛鴦夫婦だったが、禄高30俵の家計は苦しく、お岩さまは屋敷神を信仰しつつ奉公に出て蓄えを増やした。おかげで田宮家は再興した。これが評判になり、近隣の人々が幸運にあやかろうと、田宮家の屋敷神を信仰するようになった(ーー於岩稲荷田宮神社が謳う同社の起源)”

上記は、「於岩稲荷田宮神社」が参拝客に向けて謳っていることだから、“人も羨む鴛鴦夫婦”に見られるように殊更きれいな話にしている面は多分にあるのだろう。
ただ、この本では、岡本綺堂が言っていたことも紹介されていて。
それによると、“お岩稲荷の縁起は徹頭徹尾めでたいことであるにも拘らす、講釈師や狂言作家が敷衍して勝手な怪談を作り出し、世間が又雷同したのである”となっている。
つまり、おそらくは、勤勉な「お岩」さんによって再興した田宮家の屋敷神が、近辺の人たちに「お岩稲荷」としてお参りされるようになった、ということが“事実”なんだと思うのだ。

ただ、好事魔多しなのは江戸時代も同じだったんだろう。
ここからは自分の想像だけど、つまり、勤勉な「お岩」さんによって田宮家が再興したことで、その幸運を妬んだ人たちがいた。
妬んだその人たちが、再興した田宮家、あるいは「お岩」さんの陰口を言い合うようになった。
その陰口だけを聞いた講釈師や狂言作家が、「そんな悪いヤツなら怪談の主人公にしちまえば、みんなにウケるだろう」と勝手に怪談に仕立てたら、本当にウケちゃった。
……という経緯であれば、今でも、人気があったタレントに対する世間の手の平返しみたいなことは普通にあるわけで、なんとなく納得出来る。

つまり、今で言う「有名(人)税」みたいなもので。
「お岩」さんが世間に知られているからこそ、講釈師や狂言作家は怪談のネタや登場人物にした。
そして、「お岩」さんが世間に知られていたからこそ、世間は怪談の主人公になったことに拍手喝采した。
そういうことなのだろう。

自分は怪談が大好きなバカなので(爆)
猫も杓子も言いたがる、「一番怖いのは生きている人間」などという陳腐な慣用句は、口が裂けても言いたくないのだけれど(^^ゞ
でも、これに関しては、まさにそういうことなんだろうなぁーという気がしてしまう。


この本には、読者サービス(?w)として、著者が集めた四谷怪談にまつわる「実話怪談」がいくつか載っている。
著者はそれを「実話怪談」としているものの、それらは程良い感じの怖さで。そこはかとなーく漂ってくる、その怖さがすごくいい。
なんで、それを「実話怪談」という安直なカテゴリーにしたんだろう?と個人的には不思議に思ってしまうくらいだ。
というのは、上記にも散々イヤミったらしく書いたけど、自分は「実話怪談」と呼ばれる今の怪談が好きではない。
それは、「実話怪談」と呼ばれる怪談が、あまりにもつまらないからだ(^^ゞ
なんでつまらないかと言うと、大抵の「実話怪談」は、怪談が好きな人が、元ネタを、怪談が好きな人が好むように尾ひれ眉唾つけて“作った”、怪談が好きな人のための怪談、つまり「駄法螺」だからだ。←あくまで個人的な見解ですw
ただ、怪談というのは、そもそも、そういうものであるのも確かだ。
(だから、いつの時代でも、怪談を「馬鹿馬鹿しいもの」と思う人が多いのだろう)

にも関わらず、今の「実話怪談」が嫌いなのは、90年代のホラーブーム、怪談ブームを経たことで、実話に基づく怪談が、ウケるための怪談、つまり、いわゆる「実話怪談」という、たんなる“作り話”に成り下がってしまったからだ。←あくまで個人的な見解ですw
つまり、自分が今の「実話怪談」と呼ばれるものが嫌いなのは、それがウケるための作り話だからということだけではなくて。その、“ウケるための要素”が嫌いだからだと思う。

知らなかったのだけれど、実は、この本の著者も、その「実話怪談」作家らしいのだがw
でも、この本を読んで、ちょっと好感を持った。
というのは、著者が「第2章:講談・落語『四谷怪談』のお岩さま」の中で紹介している、現代の講談師、6代目一龍斎貞水と一龍斎貞寿の言葉だ。
6代目一龍斎貞水が言ったのは、“怪談は難しい。人間のデッサンをきちんと取れないと出来ない”。
それは、一龍斎貞寿が6代目貞水に聞かされたことらしいのだが、その一龍斎貞寿は著者にこう言っている。
“私は、お岩さまを単なる化け物にしたくなかったんです。お岩さまという女性の立場に立ってみたら、夫に尽くしていたのに浮気され夜鷹長屋に売り飛ばされ、化けて出て、周りの人をバンバン殺しまくって……、それでお終いって、納得行かないですよね?”

幽霊(今風に「霊」でもいいが)が、どういう存在なのかはわからない。
生きている人のように自我や意志を持つ「魂」なのかもしれないし、たんなる、死んだ人の「意志」なのかもしれない。
ていうか、生きている人が頭の中で勝手に感じる、データみたいなものなのかもしれない。
もちろん、たんなるデマカセにすぎないのかもしれない。
それはわからない。
わからないけれど、亡くなった人の姿でソレを見る以上、人はソレに対して、ソレが“生きていた人”であった時と同じように礼儀を持って接するのが普通の人の態度であるはずだ。
もちろん、ソレに生きている人と同じような感情があるかはわからない。
さらに言えば、ソレがかつて生きていた人の姿をしているということは、多くの場合、ソレの家族や親戚は、生きている人として存在しているはずだ。
当然、その人たちには感情がある。
ということは、その人たちに対して、人としての礼儀を持って接しなければならないのは誰でもわかる理屈だし。
家族たちも、ソレに対しても礼儀を持って接することを求めるはずだ。
さらに言えば、今、ソレに家族や親戚がいなかったとしても、ソレがかつては同じように生きていた人だったということは、生きている人がソレに対して共感や親しみ、あるいは信仰している人たちだっている。
ということは、今もソレに対して共感や親しみ、あるいは信仰している人たちの気持ちに敬意を払わなきゃならないはずだ。
面倒くさいことを書いているようだけど、単純に言えば人と人の仁義は守らなきゃってことだ。

一龍斎貞寿が著者に、“私は、お岩さまを単なる化け物にしたくなかった”と言ったのは、「お岩さん」に共感や親しみを感じたからこそなんだろうし。
また、6代目一龍斎貞水が貞寿に、“怪談は難しい。人間のデッサンをきちんと取れないと出来ない”と言ったのは、たぶん、幽霊が人として生きていた時の思いや心を理解しないと、怪談は怖くない。だから、“怪談は難しい”ということなんだと思うのだ。

「四谷怪談」が怖いのは、作られた怪談のキャラである「お岩さん」の姿が恐ろしいからなのは間違いない。
でも、「四谷怪談」のあの問答無用の怖さというのは、なにより、あんな恐ろしい姿形で祟らざるを得ないお岩さんの哀しさが、誰にもダイレクトに伝わってくるところにあるんだと思う。
つまり、その姿で現れる気持ちが理解出来る、そこにこそ「四谷怪談」の怖さがあって。
だからこそ、著者も書いているように、今もなお、お岩さんは「四谷怪談」に触れた人に不可思議な出来事を起こしている。
だから、「四谷怪談」は怖い。
自分は、そういうことのように思えるのだ。

でも、人の心なんて、なかなかわかるものではないし。
(怪談というたんなる娯楽を求めている人に)人の心をわかってもらうのは、さらに難しい。
だから、“怪談は難しい”のだろう。

0
2023年11月21日

Posted by ブクログ

若い頃は、ホラーを読んだりしたものだが、日本の怪談は、友達に借りたつのだじろうの心霊漫画が怖すぎて(正確にはカテゴリーが違うのだろうが)手に取らなくなっていた。

この本は、『四谷怪談』そのものというより、時代を遡って文献や家計を調べ、様々な角度から紐解かれたものだ。
『四谷怪談』がそもそもよく分かっていなかった自分にとって、発見が多く興味深い本だった。

本編とは別に、ところどころに挟まれている怖い話に、久しぶりにあのゾワっとする感覚を味わった。

0
2023年08月22日

「雑学・エンタメ」ランキング