「観光客の哲学」初版は既に購入して読んでいたのだけれど、今回の増補版で再読して
新たな発見がいくつもあったので、備忘録として記しておくことにした。
まず第4章の「二層構造」。カント、ヘーゲルの時代から哲学者が考えてきた国家と市民社会のことがものすごくわかりやすく述べられている。21世紀はネーショ
...続きを読むンの統合性が壊れただけの状態であり、2つの秩序が独立して存在する「二層構造の時代」であると。
もはや普遍的な正義が存在しない、リベラリズムの根幹が揺らいでいる現代には、上半身(理性、政治)と下半身(欲望、経済)は別々の秩序で動く。これは、コロナ禍を経験した我々には実感を伴って感じられる。医療者である私の上半身(理性)は、この新型ウイルスを正しく恐れ、思慮深く理性的に行動することを職場から求められ、医クラは一致団結をして正しい情報を発信しようとする。そして、欲望のままに行動する市民を厳しく糾弾する。そこには、「我々だって飲みに行きたいのに我慢して病院内でクラスターを作らないように行動を抑制しているのに」という、自由に行動する者に対する軽蔑とともに、羨望も含まれていたことは否定できない。実際に、そのような理性的な振る舞いを求められることに疲れ、職場を去ったものは数知れない。このようなリバタリアンな側面とコミュニタリアンな側面の折り合いをつけることがどれほど難しいかということが、身に染みてわかるのだ。
そして、これまた、規律訓練と生権力という権力の二類型についても、同じ個人が、個別のコミュニケーションの場では人間として扱われ、同時に統計の対象としては動物として扱われるということは、医者の世界では日常的である。癌の5年生存率を語るときに、私たちは努めて冷淡に「情報」を伝える。一方で、目の前にいる個人に対して、私たちはその動揺や葛藤を傾聴し、支えるのだ。どの職業でも同じだろうが、エビデンスや統計を重視する科学重視派の医師と、患者の気持ちを支える人情派の医師は、時に同じ職場の中でぶつかることもある。
この二層を横断する運動として、個人(私)を出発点として公共の政治に繋げるような試みとして、第5章の観光客(誤配)、郵便的マルチチュードが導入される。
グラフ理論のスモールワールドとスケールフリーは、まさに脳科学の分野でシナプスの振る舞いとして研究が進んでいるもので、この話を初めて本著で見た時にはとても興奮したことを覚えている。もう10年ほど前になるが、東大の池谷先生の講演で、シナプスのネットワークのつなぎかえについても、学習や記憶、可塑性の観点から話を聞いたことがある。生物学的な(数学的な)法則は人間の社会的な側面にも深く浸透しているのだということをダイナミックに示してもらったようで、科学と人文学のクロストークに触れた気分だ。
本章で東は、リチャード・ローティーのプラグマティズムに触れる。共感の連帯、ルソーからつながる憐れみの連帯を、再誤配の戦略として捉え、そして観光客の哲学を家族の哲学
へとつなげていく。
そして第2部は、家族についての哲学である。普段の診療の中で子どもを通じて「家族」を扱う小児科医としても、この第2部は非常に知的好奇心を刺激された。家族の強制性、偶然性、拡張性について述べられた第6章を読むだけでも、この議論が一筋縄ではいかないことがよくわかる。出自の問題や家族の強制性については、多くの作家の小説でも主題として取り上げられているし、その偶然性や拡張性については、例えば是枝裕和の映画の主題でもあるだろう。そして第7章ではフロイトの論文「不気味なもの」をタイトルに取り上げる。
ラカンの主体性についての想像的同一化から象徴的同一化への二重性が、ポストモダンの時代変遷の中でどう位置付けられるべきかについての考察はとても興味深い。平野啓一郎の分人主義の著書に当時私も大変共感したのだが、小児科の実臨床では「器用に分人を使い分けられない」子どもや大人を目の前にするばかり。理論(理想)通りいかないことばかりの壁にぶち当たる。ここで東の述べるように、現代の情報社会の本質を、こちらとあちらが曖昧になる「不気味なもの」として捉えることの重要性は、アクチュアルな思想の実践としてたいへん実臨床と親和性の高いものだと感じた。フロイトのテクストの再読を予感させる続編を期待したい。
第8章のドストエフスキー論については、カラマーゾフを再読してから改めて考えたいと感じたが、章の最後にある東のメッセージである「親であることは誤配を起こすことであり、親として生きよ」は、親子関係を扱い、子どもを通じてではあるが親をエンパワーする立場にある私たち臨床家にも大変力強い言葉であった。
まとまりなく読んだ感想をつらつらと重ねたが、訂正可能性の哲学も早く読みたいところである。