千葉県で起きた一家四人殺害事件の犯人である当時19歳だった少年を追ったノンフィクション。
父親に暴力を振るわれ、小学4年生の時には夜逃げ同然で引越しを余儀無くされ、貧乏を理由に学校では馬鹿にされる…。
その生い立ちをみれば、少年にも同情すべき点があるようにも思えるが、筆者も、また被告本人も述べている
...続きを読むように、同じような環境で育っても、犯罪を犯さない人はたくさんいる。現に少年の5歳年下の弟には非行歴はないという。
著者は少年をずっと取材し続け、少年が一時結婚していたフィリピン人の女性を探すためマニラにまでで向いているが、その取材の果てに少年から「すべてがなかったっことになればいい」という言葉を聞き「もはや理解不能」と漏らしている。
これは著者である永瀬氏(または多くの一般人)と少年の「殺人」という事象への認識の差が大きく関わっているのではないかと思う。
少年にとって殺人は暴力の延長であり、日常的に暴力と関わってきた少年には、人の命を奪うことへの重大性が理解出来なかったのではないだろうか。
一家四人を殺害する以前に少年は24歳のOLを相手に強姦事件を起こしている。
その事件を語る際少年は「傷害にしろ、強姦にしろ、他人の血を見るということは興奮するものです。とくに、しだいに相手が弱ってきて自分に従うようになり、どうにでも好きなように動かせるとなった時に見るそれは、僕の中では勝利の象徴として溜飲を下げるのに大いに役立ちました。(後略)」と述べているが、この感覚を理解できるかどうかが、少年と著者を含む多くの一般人とを隔てる壁であると考える。(勿論理解出来るのと、実際に殺人や傷害事件を起こす事との間にはまた大きな壁があると思うが)
私はこの本を読んで、少年の言い分も多少理解出来た。
だが、もし自分の家族や知人を同じ目に合わせる(同じ目に合う、のではない)事が出来るかと問うた時、少年のやったことは「理解不能」であり、やはり異常なことなのだと思った。
本書を読んで少年の事を「理解不能」と感じた方は、どうかその感性を失わずにいて欲しい。