「読書家への長い長い道のりで思ったこと」が印象的だった。
ジェーン・スーさんの、痒いところに手が届くような、しかも人を傷つけない言葉の表現が大好きだ。
そんなジェーン・スーさんが読書が苦手だなんて意外過ぎる。
文章を書くことは楽しめるけど読書が苦手っていう人もいるんだなぁ。
「対象物に劣等感を持っ
...続きを読むていると、自分の感覚が信じられなくなる。これは面白いとされているはずだから、面白がっておいた方がいいかな?と、楽しめなくても楽しいフリをしたり、美味しくなくても美味しいと言ったり、はたまた過剰にけなしたり。」(p75)
わたしにとって劣等感を持ってしまう対象物は「アート」だった。
昔から美術館は好きだった。
なのに、なんだか美術館を楽しめなくなっていた時期があった。
有名な絵画を見ても、絵よりまず解説文を読み、分かったような気になって絵をじっと見つめる。
有名な作品なんだから、何か感じなければいけない、という強迫概念に苛まれながらとりあえず見つめる。
だけど、特になんとも思わない。
だんだん、これを見ても心が動かないなんて、自分には美的センスが無いんだろうか、と悲しくなってくる。
そんな自分を認められずに、ミュージアムショップで中途半端なお土産を買って、無理やり楽しかった思い出として記憶する。
そんな事を繰り返している時期があった。
今考えるときっと、いつの間にかアートに関して、好きであるが故に劣等感を抱いていたんだと思う。
アートが好きな自分でいたい、感性が豊かな人間でありたい、という自分への期待が裏切られる劣等感。
作者が作品に込めた意図を理解したい、汲み取れるはずだ、そんな気持ちが空回りしてしまっていた。
そこから抜け出すには、いくつか段階があったけれど、ある作品を見た時に完全に劣等感から脱却したと感じたことがあった。
その作品は、大きいキャンバスいっぱいに緑で人が描かれていた。
私はいつもの癖で「なんで緑で描いたんだろう。どんな意図が隠されているんだろう」と考えた。
解説を読むと「好きな色をたくさん使いたくてこの絵を描きました」という趣旨の事が書かれていた。
それを読んで、そんなのアリ?と思う反面、そっか、そりゃそうだ、と腑に落ちた。
作品は作者が好きなように表現する場だ。
好きな色だからたくさん使いたい、当たり前の話だ。
そこに「人物を緑で描く事によって作者は何を表現したかったのだろう」なんて想像するのは勝手だし、それも楽しいけれど、答え合わせをする必要は無い。
だってもともと答えなんて無いのかもしれないんだから。
アートに対して自分の好きなスタンスで接することができるようになって、私はもっとアートを楽しむ事ができるようになった。
有名だろうとなかろうと、家に帰ったらこの作品の事はきっと覚えていないだろうな、と思う作品はサラッと見て通り過ぎる。
逆に、惹かれる作品に対しては、純粋に好きという気持ちで向き合う事ができるようになった。
「作品に込められた作者の意図」ではなく、「なんで自分はこの作品が好きだと感じるんだろう」と、アートを通して自分の内面を掘り下げる感覚。
それを味わうために美術館に行けるようになって本当に良かった。
逆にまだまだ劣等感を感じているのは服装に対してだ。
私は「装う」という行動に対等になれていない。
洋服を選ぶ事を楽しめずに、流行の服を見て過剰に批判してしまう事もある。
頭でなんやかんやと考える前に、どんどん色々な服装を試してみて自分が好きなものを探せば良いとわかっているのに、なぜか勇気を持てずにいつまで経っても「装う」事への劣等感を拗らせている。
そんな卑屈な自分をさっさと認めて、自分に見合ったスケールで自由に楽しめるようになりたい今日この頃。