心の病んだ人というのは、憎むべき人を憎まず、逆にその冷たい人々に罪悪感を抱く。それは心の病んだ人が、その冷たい人に心理的に依存しているからである。
認められる自分と認められない自分に分裂するとアイデンティティーがなくなる。そうすると「これで自分は生きていく」というこれを求めるようになってしまう。「私
...続きを読む」という実感を失ってしまったものは、たえず自分の存在感を感じようと焦る。
規範意識が肥大化している者もそうである。生きることを難しくしてしまうような過剰な規範意識というのは、存在感の欠如の補償作用である。実際の自分の存在のほとんどが意識から排除されてしまって、実際の自分のほんの一部を自分のすべてと意識しているからである。ほとんどの自分は許されないとして「ない」と見なされている、だから一つ一つの経験が十分に経験されないのは当たり前である。自分に自身がある人というのは、このように自分が分裂していない人である。分裂している人ほど無意識の領域の大きい人ほど自分のやることを一つ一つ意識しないではいられない。
すぐに肩に力が入ってしまう人は欲求不満である。このような人は、まず自分は自分に何を隠しているのだろうと反省してみるべき。
雨の日が悪いのではない。雨の日に晴れていると信じていることが心を病ませていく。
もしある人といて、理由のわからない焦りを感じるとしたら、その人のことを心の底では嫌いなのかもしれない。
心の健康な人達の間の道徳や規範は、時に、心の病んだ人達の間の搾取を正当化する理論となる。卑怯な人間は道徳や規範を持ち出して弱い人間から心身ともに搾取する。つまり反抗を封じるのに道徳ほど都合のよいものはない。相手に罪の意識を強要して自分の側に利己主義を通す。彼らにとって利己的であることが許されないのは相手であって自分ではない。要するにあなたは同じ人間と見られていない。あつかいやすい人間として見くびられているだけなのである。
理由もなく不愉快になるのは、何か自分の欲求を自分が隠しているから。
たとえ他人が自分に対して好意を持っていても、他人に依存している限り、他人は自分を脅かす存在である。