絵ばかり描いていてヘンな子だと思われている小学生、直と、イラン人の同級生、アリのお話。
不思議成分をふくみつつファンタジーではない現実のお話。
ヘンダワネとはイランのスイカのこと。
直と直の弟の暖とアリは直のおばさんのリコちゃんの家で一晩あずかってもらうことになる。
ヘンだと思われてもひとりで絵を
...続きを読む描きたい直と、ヘンだと思われたくないアリ。
でも日本人の変わり者と、出自が違う異物の「ヘン」は同じ「ヘン」ではない。
日本語が下手な親や祖国に対する複雑な感情、アリが語る魅力的なイラン、アリがおじさんにきいた物語。
知っている世界と知らない世界と物語の世界が違和感なく溶け込んで、新藤悦子の物語世界に引き込まれる。
ただ、現実に近いだけに気になる部分も少々あった。
たとえばアリをみんなが呼び捨てにする。年下だけどサッカークラブで交流のある暖はともかく、小5の女の子がろくに話さないクラスメートをいきなり呼び捨てにするか?母親同士が仲良しなだけの関係で、他人の子を呼び捨てにするか?姪甥の知り合いの初対面の子をいきなり呼び捨てにするか?
でも小学校のころ、仲良しの子以外は名字で呼ぶのが普通だったけど、外国人の子だけはみんな名前で呼んでた。
さすがに「くん・ちゃん」はつけていたけど。あれはなんだったんだろう。名字はよびづらかったからか?
その子たちは途中から引っ越してきた子たちだから外国語が母語だったけど、決して話さなかったし、アリのように「普通に」日本の文化の中にいた。
きっと私たちが(故意ではないにしろ)話させなかった。そういうことを思い出した。
直がアリに対して思う「がんばって漢字を覚えたり」とかリコちゃんが遊牧民に抱く「(歌いながら絨毯を織るのは)仕事と遊びを区別しない自由さ」という感想にも違和感がある。
「日本育ち」なら「がんばって覚えた」のはむしろペルシャ語じゃないのかとか、歌と仕事って辛い肉体労働にこそ現れるもんなんじゃないの?とか(織物の場合は違うかもしれないけれど)
母親たちが地の文では名前で呼ばれる。それはアリが「イラン人」ではなく「イラン人である個人」であるように、彼女たちも「母である個人」だからなんだろうな、と思ったけれどそれだとこちらも呼び捨てとさん付けの基準がわからないや。直視点なんだろうか。
絵はいまいち。きれいだけどこの作品には合わない。
やたら広くてでかい縁側や、「見た目はイラン人」じゃないアリ、「一重」じゃない直、日本人もイラン人も紙より真っ白な表紙、誰もが振り向くほど美しいはずなのに美しくないトゥーバさん、「色だけ」じゃない直の絵。
挿絵が文の邪魔をする。
スイカな見返しは素敵。