青弓社作品一覧
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3.5ヤンキーという言葉から、どのようなイメージをもつだろうか。時代遅れというイメージがある一方で、近年では「マイルドヤンキー」のようにマーケティングの対象として注目されたりもしている。しかし、ヤンキーと呼ばれる若者が何を考え、どのように生活をしているのか、十分な調査に基づいた書物は少ない。 大阪府の高校で3年間、〈ヤンチャな子ら〉と過ごしフィールドワークして、対立だけではない教師との関係、〈インキャラ〉とみずからの集団の線引き、家族との距離感を丁寧にすくい上げる。そして、高校を中退/卒業したあとの生活も調査し、大人への移行期に社会関係を駆使して生き抜く実際の姿を活写する。 集団の内部の亀裂、地域・学校・家族との軋轢、貧困や孤立――折り重なる社会的亀裂を抱える若者の「現場」から、分断や排除に傾かない社会関係の重要性を指し示す。
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-※この商品はタブレットなど大きいディスプレイを備えた端末で読むことに適しています。また、文字だけを拡大することや、文字列のハイライト、検索、辞書の参照、引用などの機能が使用できません。 テレビ離れが叫ばれる一方で、スマホやパソコンから屋外に遍在するスクリーンまで、多様な形式で映像コンテンツは受容されている。ニコニコ生放送やパブリック・ビューイングなどの集団的な映像視聴は「戦後の街頭テレビ」の熱狂に例えられ、新しい映像文化はテレビ放送の原点に回帰しているとも言われる。 しかし、都市でテレビにふれるという経験は、戦前からテレビジョンの公開実験というかたちで人々の日常にあった――。 戦前のテレビジョン技術に対するアマチュアの熱狂、博覧会や展覧会での展示とその人気、逓信省のテレビジョン電話への欲望、幻の東京オリンピックと国策宣伝も含んだ実験放送……。「ラジオの時代」「映画の時代」とイメージされがちな戦前・戦中の日本で、アマチュア・興行師・技術者・政治家などの多様なアクターがテレビジョンという技術に魅了され、社会的な承認を獲得しようとしながら技術革新を目指していた事実を掘り起こす。 「戦後・街頭テレビ・力道山」という放送史の神話によって忘却されたテレビジョンの近代を丹念に跡づける技術社会史。
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-ジェンダーや階級などの今日的な視点から、暴力をめぐる小説や思想を読み解くことはいかに可能なのか。他者の痛みを描く文学を介して、私たちがそれらの経験を分かち合うことはできるのか。 戦前のアナキズム思想やフェミニズム、プロレタリア文学、戦後の大江健三郎や井伏鱒二、井上ひさしの作品などを「暴力をめぐる記録/記憶」として読み解く。そして、「歴史」「戦前・戦後」などの時間の視点からそれらの作品や思想に介入し、批判的に検証する。 それらの実践を通して、女性への差別や抑圧される身体、歴史の語りとホモソーシャル、異性愛主義体制の再生産、戦争の記憶など、暴力やジェンダーの問題を私たちの目の前に出現させる。忘却に抗い、痛みの経験や暴力の痕跡を分かち持つための想像力を呼び起こす文学研究の成果。
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-いま日本では、菓子店やコンビニなどで、様々な種類のバウムクーヘンを気軽に食することができる。中央に穴が空き、「年輪」に見立てられるユニークな形状のこの菓子は、いつ歴史に登場して、どのように発展してきたのだろうか。 ドイツでの文献をもとにパンや料理、菓子の間で行きつ戻りつしながら形作られてきたバウムクーヘンの来歴を明らかにし、19世紀から20世紀の初頭にドイツで菓子の王と称されるようになるプロセスについて考察する。さらに各時代のレシピや焼成法を史料から読み解きながら、当時の素材や形状、色、味についても丁寧に紹介する。加えて、第一次世界大戦を期にもちこまれてから現在まで、独自の発展を遂げた日本のバウムクーヘンにも光を当てる。 「パン職人と焼き菓子」「宴会料理との関係」「年輪の誕生」など、バウムクーヘンをめぐるエピソードをふんだんに織り込みながら、多くの人々に愛されるバウムクーヘンの歩みをたどる異色の文化史。歴史的に貴重なレシピの和訳や図版も多数所収。
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-フランスは柔道の強豪国として知られている。オリンピックでのメダル獲得数も多く、その高い競技力と競技人口の多さ、事故の少なさなどから、日本で柔道先進国として紹介される。だが、イメージで語られることが多く、フランス柔道の実態や教育との関わりは日本でほとんど知られていない。 本書ではまず、フランス柔道の現在を紹介する。柔道クラブのエピソードからひもとき、競技人口や指導者数などの実情、学校教育や課外活動との関わり、フランススポーツ界での柔道の位置づけを丁寧に概説する。そのうえで、日本の講道館柔道とはまた違った柔道を確立した歴史的な歩みをたどり、洗練されてきた指導法や昇段試験などの制度、教育方法も通時的に検証する。 日本における柔道と教育との関係を確認したうえで、日仏を比較し、教育を基軸にするフランス柔道のありようと日本の柔道が抱える問題点を明らかにする。
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3.0NHK連続テレビ小説『カーネーション』『とと姉ちゃん』『べっぴんさん』で注目を集めたように、戦後日本の洋裁文化に対する興味と関心がますます深まっている。 洋裁文化は、女性たちが自分の着る洋服を自分たちの手で作る技術を中心とした文化だったが、単にその実践だけにとどまらない、教育やマスメディア、さらに都市環境をも含み込んだ独特な社会構造を構築した。1940年代後半から60年代半ばまでの間に一気に形成され、そして消滅した洋裁文化は、戦後日本のファッション文化の基盤を作り上げ、「消費者」の形成にきわめて大きな役割を果たした。 一般的な戦後史や文化史だけではなく、ファッション史や大衆史からもこぼれ落ちる洋裁文化の実態を、デザイナー、ミシン、洋裁学校、スタイルブック、洋裁店、ファッションショーなどの事例から立体的に描き出す。そして戦後の洋裁文化を、「民主化の実践」「消費社会の促進」という視点から再評価する。
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-芸術家は、なぜ、自らの表現を発表することで社会に何かを知らせようとしたり、自らの表現を歴史化しようとするのか。 いまや世界中で一般的になっているインスタレーション、ミックスドメディア、パフォーマンス、インプロビゼーションなどの現代芸術特有の表現形態、さらにはトリエンナーレや芸術祭などのプロジェクト型の芸術活動なども、「行為の芸術」としてのインターメディアという考え方を基本にしている。いわゆる現代美術は、「行為の芸術」の社会実験としての役割を果たしてきた。だからこそ、政治、経済、科学技術、福祉あるいは環境とも関わらざるをえない。 本書は、「行為の芸術」としてのインターメディアを出発点として、「芸術とは何か」「芸術が存在する世界とは何か」という問いと向き合った論考である。とりわけ、同時代芸術で発揮されているさまざまな表現の実践を、エチカ=倫理の観点から論じる。
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-いまでこそ「自習」する場所として活用されているが、公共図書館はいつ・どのようにして勉強・独学の空間になったのか。明治期からの近代化のなかで、勉学の情熱を抱えた青年・女性たちに果たした図書館の役割とは何だったのか。 明治初期の唯一の無料公開図書館である東京書籍館の成立と展開をたどる。そして、音読の禁止を背景にして、弁護士・医師・教員の資格試験の勉強空間として図書館を使う利用者が増えたことを掘り起こす。一方で、図書館での独学を軽んじる社会的な風潮もあり、そういった独学をしていた専門学校や社会人経験を経た大学入学者に対して差別があった事実も指摘する。 加えて、雑誌「成功」から当時の社会的な成功のあり方、独学と立身出世の関係を読み解き、学歴社会への移行も描出する。 これまで正面から取り上げられてこなかった「図書館と勉強」をめぐる独特な文化を掘り下げて、近代日本の風俗や社会的な感性も浮き彫りにする。
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-民主主義社会を維持するためには、知る自由、学習する権利が絶対的な基盤である。そのデモクラシーを支えるのが図書館だ。とくに公共図書館は、市民にもっとも身近な教育施設として、書物や資料、情報を集積し、著者それぞれの知的営為を持ち寄った場である。 多くの人々の興味・関心を「持ち寄り」、利用者は世界中の本から自身の気づきを「見つけ」、わかる喜びをほかの人と「分け合う」。図書館は市民の〈知りたい〉を支え、情報のナビゲートを通じて主体性の確立を促す。そして、地域の情報ネットワークの中心となって人々に等しく寄り添い、まちの連帯と文化的な発展に寄与していく。まちの活性化の鍵は図書館にあるのだ。 構想段階から市民が参加して新しく作り上げた瀬戸内市民図書館は、2017年に「ライブラリー・オブ・ザ・イヤー」の大賞に輝く。その館長として図書館と地域の発展に貢献した著者が、自身の図書館員としての体験談を交えながら、地域の住民一人ひとりが主役になって作る現代の公共図書館像を描き出す。
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-公共図書館は、そもそも何館あるのか。 47都道府県立が約60館、市区立が2,600館、町村立が620館で、全国に合計約3,300館ある。 市区町村の約77%が公共図書館を設置しているが、町村部の設置率はかなり低く57.6%でしかなく、これが全体の数字を押し下げているのが現状だ。 これを人口比でみると、日本は4万人に1館、アメリカはその倍の4万人に2館もある。 2005年には人口の48%が図書館を使っていたが、14年には34%にまで下降している。 こうした現状を踏まえ、公共図書館を増やすにはどうしたらいいのか、利用者の縮減を押し止めて図書館を使いやすくするためにはどういう施策があるのか――、を具体的に検討して提言する。 解決策の一部としてAIを使った図書館資料の管理や利用者誘導、さらに経営規模のあり方を検討し、身近な公共図書館が十分な情報資源を提供できるようになっているのかどうか、コミュニティとつながるだけのサービスポイントになっているのではないか、も指摘する。 さらに、財政難を逆手に取った岩手県の成功例や図書館が変わることで地域を変えた栃木県の実例、図書館蔵書検索サイトを使った横の連携を当事者が語る。 加えて、市民の意向を踏まえて専門的なリーダーシップを発揮した新たな図書館、心地よい空間として世界的にも有名なデンマークとフィンランドの2つの図書館を紹介して、大きなヒントを示している。
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-公立図書館の現職/元館長や図書館学の研究者、図書館の新設プランナー、什器メーカー社長、学校図書館関係者たちが、社会のインフラとしての図書館のあり方を対談・鼎談・座談で縦横に語り合う。 「図書館内部でのコミュニケーションの工夫」「図書館員の研修」、あるいは「図書館は生き残れるだろうか」というシビアな課題、「地域活性化サービスはどうすればいいのか」「IT時代の図書館のあり方」、さらには「公共図書館とボランティア」や「小・中学校との連携」などテーマは次々とあふれ出てくる。 話題はさらに、「図書館のビジネス支援サービスの課題」や「今後の図書館の展望」「図書館員に望むこと」など尽きることがない。 もちろん、利用者にとって「使いやすい図書館」のためにはレファレンス・サービスの充実は不可欠で、サービスの位置づけや課題を現場の図書館員がしっかり学ぶことができる事例も提示する。 未来をつくる子どもたちが使う学校図書館に求められる機能とは何か、あるいは各地で図書館をどうやって始めるか、館内を使い勝手よくするために什器・設備のメーカーはどういうプランを考えているのか、など、図書館界だけではなく、利用者にとっても未来が明るくなる発言集である。 著者一覧 山崎博樹[知的資源イニシアティブ(IRI)代表理事]/伊東直登[松本大学図書館長]/淺野隆夫[札幌市中央図書館]/齋藤明彦[元鳥取県立図書館長]/竹内利明[ビジネス支援図書館推進協議会会長]/齊藤誠一[千葉経済大学短期大学部]/原田隆史[同志社大学大学院総合政策科学研究科教授]/神代 浩[量子科学技術研究開発機構監事]/中山美由紀[立教大学兼任講師]/岡本 真[アカデミック・リソース・ガイド(arg)代表]/木原一雄[キハラ代表取締役]
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4.0※この商品はタブレットなど大きいディスプレイを備えた端末で読むことに適しています。また、文字だけを拡大することや、文字列のハイライト、検索、辞書の参照、引用などの機能が使用できません。 国際的な産業競争力を向上するために「内向き志向」を改善して海外に目を向け、語学力やコミュニケーション能力、主体性をもつことを期待される若者=グローバル人材。近年では、文科省や経産省がその育成に力を注ぎ、経団連が必要性を訴えている。 留学も含め海外に渡る若者は現在でも多いのにもかかわらず、行政や企業が強く求める「グローバル人材」とはいったい誰なのか。 海外滞在経験をもつ若者ともたない若者へのインターネット調査と、カナダやオーストラリアに実際にやってきた若者へのフィールドワークを組み合わせて、「普通の若者」にとっての海外経験の意味をすくい取り、期待される「グローバル人材」とのズレに、階層やジェンダーという、「若者の意識」だけには還元できない問題があることを明らかにする。そして、「グローバル人材」といった特権的な人材層の育成だけに目を向けるのではなく、若者のキャリア形成の多様性を確保しながら、若者に広い視野を与える環境づくりの必要性を指摘する。
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-江戸期から明治期にかけて、大衆芸能である落語は小説にどのような影響を与えたのか。落語は西洋近代とどのように出会い、どのように向き合ったのか。 三遊亭円朝の「怪談 牡丹灯籠」「怪談乳房榎」「真景累ヶ淵」「錦の舞衣」のほか、三遊亭円遊、快楽亭ブラック、談洲楼燕枝など、同時代に活躍した噺家による落語も議論の俎上に載せて、明治期の物語の様相や「人情」の語られ方を丁寧に読み解いていく。 これらの議論を通じて、言文一致をめぐる問題、坪内逍遥の「人情」論を再考するとともに、小説が落語に翻案されるプロセス、物語が小説・落語・講談などのメディアを越境する諸相を分析し、日本近代文学研究、アダプテーション研究の新たな地平を示す。
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-いまやグローバル・メディアとして成長したアニメーション。世界の多くの人々にとって、アニメは単なる娯楽にとどまらず、アニメをめぐる、あるいはアニメに触発された学術的知見が着実に蓄積されている。 国内外の研究者が参加した国際会議では、「声」を中心にしたアニメの音響的側面と、アニメ表象の成立に欠かせない絵コンテや原画などの「アニメ中間素材」の物質的側面を主軸に、これまでのアニメ研究では扱っていない領域について野心的な発表と討論を重ねた。 アメリカ、スペイン、台湾、シンガポール、フィリピン、韓国、日本――。各国・各地域のアニメをめぐる状況に、従来の日本のアニメ研究が見過ごしてきた3つの問題意識から迫る。 ①国を超えて変容する声と映像=国や地域を超えて横断し変容する声と映像の実態を記述し、考察するアプローチ ②多様な身体に作用する声と映像=大人から子どもまで、多様な受容者の身体に作用する声と映像の実態を記述し、考察するアプローチ ③異なる素材が示すアニメの現場と仕事の形態=アニメ中間素材を物質として保存するだけでなく、時空間を横断する存在としての活用を目指すアプローチ 新しいアプローチの実践を目指す刺激的で国際的なアニメ研究の成果。
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4.0※この商品はタブレットなど大きいディスプレイを備えた端末で読むことに適しています。また、文字だけを拡大することや、文字列のハイライト、検索、辞書の参照、引用などの機能が使用できません。 1970年代のオカルトブームによって広く知られるようになった心霊現象の数々。現在では多様なメディアがこれらのアイテムを物語に取り込み、消費している。では、これらを束ねる「心霊」という解釈格子は、はたしてどこからやってきたのだろうか。 明治半ば以降、一気に広まった不思議な遊び「こっくりさん」、人々を熱狂させた催眠術、透視をめぐる論争を巻き起こした千里眼事件を掘り起こし、それらに通底していた心霊学と科学の相克を描き出す。 「信仰」「迷信」「心」と「科学」のあわいに発生して、多くの人々の耳目を引いた明治期のオカルト現象から、日本の近代化の一側面を照らす怪異研究の古典を復刊。千里眼事件の再検討や大正期の催眠術の受容、「こっくりさん」の戦後を扱った論考を増補し、東雅夫氏による解説も所収する。
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-1964年の東京オリンピックは、戦後日本の復興を象徴し、高度経済成長と一体となった「世紀の祭典」として語られてきた。その語りは、日中戦争によって返上された1940年「幻の東京大会」の悲劇性との対比で、国民に感動と誇りと活力を与えた成功譚として記憶されてきた。 東京が三度招致した東京2020オリンピックは、新型コロナウイルスによって延期になり、国民的な批判を浴びながら、史上初、無観客で開催された。悲劇性を抱えた2つの東京大会のはざまで、1964年の東京オリンピックは、唯一、正常に開催されたオリンピックになった。 本書は、1964年の東京オリンピックの遺産の正負両面を具体的な事実にもとづいて掘り下げ、脱神話化を試みる。開催に反対する世論、オリンピックをめぐる政治家の思惑、文学者たちによる批判、地方都市での受け止め方、学校での関連教材の配布や観戦動員、パイロット選手の記憶、音楽や踊りなど身体を通したオリンピックの経験に光を当てる。 そして、1964年の東京オリンピックの遺産を通して、東京2020オリンピックの意義をあらためて検証する。 中京大学スポーツミュージアムとも連携して、当時の資料が閲覧可能に。スマートフォンやパソコンを通して、1964年を追体験できるスポーツ・デジタルアーカイブの新たな試み。
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-戦前にはプロレタリア文学運動に身を投じ、共産党員や政治家としても活躍した作家・中野重治。中野の著作は、天皇制との闘争や転向など、共産主義運動との関連で批評されてきたが、中野が敗戦後から晩年まで取り組んだ朝鮮問題の実態や全体像は語られてこなかった。 中野が書いた戦後のテクストにおける朝鮮や在日朝鮮人の言説を丹念に読み込み、安保闘争や浅間山荘事件、東西冷戦などの社会的な事件・状況を踏まえながら、彼の朝鮮認識の変容と実像を明らかにする。 植民地主義やナショナリズム、転向、親日/反日、民族的連帯など、朝鮮や在日朝鮮人をめぐる諸問題に誠実に向き合い、それまでにない連帯のありようを模索した中野の思想的・政治的な実践が示す可能性を浮かび上がらせる。
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4.0※この商品はタブレットなど大きいディスプレイを備えた端末で読むことに適しています。また、文字だけを拡大することや、文字列のハイライト、検索、辞書の参照、引用などの機能が使用できません。 コティングリー妖精写真は、1917年と20年にイギリスのコティングリー村に住んでいたいとこである2人の少女フランシスとエルシーが野外で出会った妖精の姿を撮影した不思議な写真である。公表されるやいなや真偽が話題になり、「シャーロック・ホームズ」シリーズの作者アーサー・コナン・ドイルなどを巻き込んで、当時のイギリスにセンセーションを巻き起こした。 この事件の調査に関わった神智学者エドワード・L・ガードナーが所有していた鞄が、100年を経て海を渡り、日本にやってきた。その鞄に入っていた貴重な新資料――「2人の少女と妖精」の5枚の写真プリントやネガフィルム、未公開の写真、手書きの手紙・文書などをフルカラーで紹介する。 資料の詳細な解説に加えて、社会的・文化的な背景や心霊写真との比較、写真にだまされる「楽しみ」を論じる論考も所収して、妖精写真から人々の感性や時代性を浮き彫りにする。
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-※この商品はタブレットなど大きいディスプレイを備えた端末で読むことに適しています。また、文字だけを拡大することや、文字列のハイライト、検索、辞書の参照、引用などの機能が使用できません。 高度経済成長と重ね合わせて、強烈なまでの成功神話として記憶される1964年のオリンピックだが、はたして成功に満ちあふれていたのだろうか。64年大会の遺産は日本をどう変えていったのだろうか。 本書では、スポーツ界と都市という2つの視点から、成功神話の陰にある語られない実態に迫る。第1部では、スポーツの情報化、指導者と根性論、女性スポーツの大衆化など、スポーツ界への影響の大きさを史料から掘り起こす。第2部では、メガイベントが作り出した道路整備とその影響、都政との関係性、大阪万博や新潟震災から見る東京など、インフラや政治、地方格差の問題を検証する。 2020年大会への過剰な期待や歓迎ムードとは距離を置き、ネガティブなものも含めて64年大会の遺産に正面から対峙して、インパクトを冷静に見定める。
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-小説を読むとは、どのような行為なのか。現代の小説は私たちに何を語りかけるのか。 本書では、金井美恵子、村上春樹、田辺聖子、松浦理英子、多和田葉子という5人の作家が1970年代から2010年代にかけて描き出した7つの小説に着目する。これらの小説を、アイデンティティのあり方を多様に読み替え/書き換えていくクィア批評と、動物やケアなどをめぐる批評理論を縦横に組み合わせて読み解き、小説に内在する多様性や小説固有の強度を浮かび上がらせる。 既存の社会秩序や異性愛主義的な社会構造を揺さぶり、読者の主体性やジェンダー/セクシュアリティをめぐるアイデンティティをも変容させていく「現代小説を読むことの可能性」を、小説表現とクィア批評の往還からあざやかに描き出す。現代の小説をふたたび読み返したくなる、「クィアする」文学論。
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-※この商品はタブレットなど大きいディスプレイを備えた端末で読むことに適しています。また、文字だけを拡大することや、文字列のハイライト、検索、辞書の参照、引用などの機能が使用できません。 人口の約40%が65歳以上という超高齢社会への危機感のなか、「地域包括ケアシステム」の構築が社会的な課題として浮上している。しかしこのビジョンには、自助(自己責任)の強化を推し進めようとする政策意図も織り込まれている。個人や家族の垣根を超えた介護や生活支援はどのようにして可能なのか。 日中の孤独や強制された施設収容などの「老人問題」に対して地域住民で「たたかう」ために生まれた「助け合い活動」の1970年代から現代までを追い、地域のグループ、有償ボランティア、NPOと移り変わった担い手の変容、苦悩や課題を描き出す。 「助け合い活動」の歴史と展開を地域福祉に回収せず、新しい社会運動と定義することで、政策とは別の「互助」の可能性を展望する。
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-知のアーカイブである図書館は、司書を中心に多様な人々に支えられて、地域と図書館をつなげる実践や情報発信をおこなっている。司書、学芸員、研究者、行政担当者が連携して、それぞれの役割を拡張させながら図書館をアップデートし続けている。 図書館を支える人々は、どのような思いで業界に足を踏み入れ、日々の仕事に向き合っているのだろうか。また、図書館ではどのような人が、何を目指して活躍しているのだろうか。 本書は、若手・中堅として活躍するライブラリアン31人にインタビューをした雑誌「ライブラリー・リソース・ガイド」(LRG)の人気連載をまとめ、現在の思いをつづる書き下ろしのエッセーや論考も所収する。ライブラリアンがもつ情報や知識への考え方、彼/彼女たちの生き生きとした表情を描き出す一冊。
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-拉致、奴隷化、尊厳の剥奪、隔離、共同体内での分裂など、複雑で艱難辛苦の連続だった歴史をもつアフリカン・アメリカンが書く児童文学は、多様性の希求やルーツの受容、他者との連接を目指してきた。社会的に「見えない」子どもの感情を可視化し、抑圧された環境下でも協働して人間らしく生き延びようとした集団の強さを描く作品は、あらゆる子どもへの「励まし」の役割も担う。 1920年代にアフリカン・アメリカンの子どもへの「励まし」の土台を作った雑誌「ブラウニーズ・ブック」、キング牧師の思想を継いでアメリカの人間像の多様性を訴えた作家ミルドレッド・テイラーの「ローガン・サーガ」、奴隷制時代の過去の記憶と現代を生きる子どものサバイバルを結び付けて描いたヴァジニア・ハミルトンの『偉大なるM・C』『マイゴーストアンクル』『ジュニア・ブラウンの惑星』、逃亡奴隷の支援ネットワーク「地下鉄道」の「車掌」を務めたハリエット・タブマンの2つの伝記、ハーレム地区の複雑な人間関係と利害を超えた結び付きを描いたウォルター・ディーン・マイヤーズの『ニューヨーク145番通り』ほか、多数の作品を取り上げてアフリカン・アメリカン児童文学の軌跡をたどる。 奴隷制度や人種差別の苦痛を描きながらも、それを「生き延びた」ことの強さにあえて焦点を当て、現代を生きる子どもに新たな視点と励ます力を与えるアフリカン・アメリカン児童文学がもつポテンシャルを描き出す。
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5.0※この商品はタブレットなど大きいディスプレイを備えた端末で読むことに適しています。また、文字だけを拡大することや、文字列のハイライト、検索、辞書の参照、引用などの機能が使用できません。 ハンドメイドは女性、プラモデルは男性――ものづくりの趣味は男性らしさ・女性らしさと強固に結び付き、趣味としてただ楽しんでいるつもりでも性別役割分業と密接な関係を築いてきた。 「ジュニアそれいゆ」(1954―60年)と「子供の科学」(1924年―)という2つの雑誌を読み込み、手芸・人形・インテリアなどの女性と結び付けられる〈手づくり〉と、工作・模型・ミリタリーなどの男性に割り当てられる〈自作〉をキーワードに、手づくり趣味の近・現代史を描き出す。 コミケやデザインフェスタの盛況、郊外に点在するホームセンター、「Instagram」にあふれるハンドメイド――現代の「あえて自分で作って楽しむ趣味」の源流をたどり、男性・女性に分かれ、双方が排他性をもってしまう手づくり趣味をめぐる文化の内実に迫る。
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4.0戦後の郊外住宅地の開発は、そこにあった地域生活を大きく変容させ、平板で奥行きがない空間を作り出してきた。一方で、近年では郊外や街の何げない場所に過去の痕跡を探り、その土地の固有性に光を当てる「街歩き」や「聖地巡礼」が注目されてもいる。では、郊外という均質な空間に眠る固有性は、どうすれば掘り起こすことができるのだろうか。 多和田葉子や三浦しをん、北村薫が東京の郊外を舞台に描く小説を読み、その街を実際に訪れ、ありふれた風景のなかを1人でゆっくり歩く。そしてあらためて小説を読み、また街を歩く――。この実践を繰り返すことで、場所・時間・物語の交差点に浮かび上がる「土地の記憶」に光を当てる。 東京の縁を読むことと歩くことを通して、郊外に眠る戦争の残痕や失われた伝統、開発の記憶、人々の生活史をよみがえらせ、「均質な郊外」に別のリアリティーや可能性を浮上させる。
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-※この商品はタブレットなど大きいディスプレイを備えた端末で読むことに適しています。また、文字だけを拡大することや、文字列のハイライト、検索、辞書の参照、引用などの機能が使用できません。 現代日本の市民は、自衛隊にどういう意識をもっているのか?――平和・安全保障問題に関する討議の前提になる客観的・学術的なデータを得ることを目的にして2021年1月―2月に実施した全国規模の無作為抽出による意識調査の結果を報告する。 平和・安全保障問題をめぐる社会情勢は現在、大きな変動の時期を迎えている。それは2015年の安全保障関連法の成立を端緒とし、それらと憲法との関係、日本の防衛計画・防衛体制のあり方、海外派遣を含む近年の自衛隊の役割と活動をめぐる一連の議論、そして現在の東アジアでの安全保障上の脅威の増大などに至っている。 また、米中対立の先鋭化のなかで、日米軍事同盟やアメリカ軍基地のあり方があらためて問い直されている。 一方で、戦後日本の平和主義の重大な転換点に直面しながらも、「戦争」や「軍事」のリアリティに冷静に向き合った論議は未成熟で深化していない。 そこで、全国規模の意識調査の結果を公開して軍事・安全保障問題の議論の前提や基礎データを幅広い読者に提示する。
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-地域性や各地の文化・風土を重視するテレビやラジオのあり方を指す「放送のローカリティ」は、放送と民主主義の関係を支える重要な理念として参照されてきた。 一方で、戦前から通底する行政手法、地方紙や自治体を中心にした戦後の運営主体、中央集権的な(キー局中心的な)放送ネットワークなどにより、放送と地域の関係は常にきしみも見せてきた。 戦前のラジオ放送から戦後のテレビの登場、ローカルテレビ局の開局と系列化、BSデジタル放送の開始、地上デジタル放送の移行という歴史をローカル放送の制度・組織・番組という視点から検証して、放送のローカリティの理念と実態が乖離してきた実情を明らかにする。 多くの史料を渉猟し関係者にインタビューをして、放送と地域の近・現代史を実証的に描き、今後のローカル放送のあり方を指し示す。
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-昨年のワールドカップで盛り上がったラグビー、サッカー、バスケ、卓球など、地域に根づいたクラブスポーツが活況を呈している。一方で、閉鎖的な組織運営や組織役員の高齢化、勝利至上主義、体罰など、クラブスポーツにも課題が山積している。スポーツを日常的に楽しむために何が必要なのか。 本書では、コートの「中」と「外」という視点を軸にして、地域のコミュニティ型のクラブ文化を問い直す。フィールドワークやインタビューから総合型クラブの実情を確認したうえで、ゆとりを重視するスポーツ大会運営、指導者と学習者がともに学ぶコーチングのあり方、熟議を重視する人々のつながりなどの重要性を指摘する。 後半では、スポーツ社会学の名著『「コートの外」より愛をこめ』も復刊して、総合型クラブのマネジメントのハウツーでもなく、歴史でもなく、スポーツクラブの現代的な意義と今後の展望を明らかにする。
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5.0保守的・愛国的な信条を背景に、その言動でしばしば他者を排撃する「ネット右派」。彼らはどのように生まれ、いかに日本社会を侵食していったのか。その真の意図とは何だったのか。 前史にあたる1990年代の雑誌論壇と草創期のネット論壇、55年体制の崩壊から現政権の成立までの政治状況、マンガ・アニメや「2ちゃんねる」などの文化状況、歴史教科書問題や外国人労働者問題、日本会議・在特会・極右組織などの団体の動向――。 日本社会に全面展開するネット右派の2000年代までを、嫌韓・反リベラル市民・歴史修正主義・排外主義・反マスメディアという5つのアジェンダ(論題)と、サブカル保守・バックラッシュ保守・ネオナチ極右・ビジネス保守という4つのクラスタ(担い手)からあざやかに分析する。 圧巻の情報量で「ネット右派の現代史」と「平成のアンダーグラウンド」を描き出す「ネット/右翼」研究の決定版。
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-※この商品はタブレットなど大きいディスプレイを備えた端末で読むことに適しています。また、文字だけを拡大することや、文字列のハイライト、検索、辞書の参照、引用などの機能が使用できません。 貧困や格差の拡大、テロ/人種差別といった剥き出しの暴力と排外主義の台頭、他者へのバッシング……グローバル化を背景に国境を越えて再編される現代の越境社会は、いま様々な場面で分断を抱えた危機的状況にある。 移民、難民、テロ、犯罪、ヘイトスピーチ、多文化共生、福祉財政、災害被災地――国内外の具体的事例と現場を「越境」と「想像力」に着目しながら読み解き、そこに潜む問題性を浮き彫りにする。他者と対話し理解しようと努める人びとの営みを「越境的想像力」と位置づけ、他者の経験を想像力によって自身のリアリティーに取り込む重要性を指摘する。社会的分断を乗り越えるために、私たちの想像力をバージョンアップするアクチュアルな成果。
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4.0満洲事変から日中戦争へと続く戦時下の日常=銃後では、プロパガンダを意図した美談が様々な団体によって作られ、新聞や雑誌は「愛国の物語」にあふれていた。 万歳三唱のなか出征する兵士、残された子を養う隣人、納豆を売って献金する子ども、夫の戦死を誇る妻、戦地の兵士を「お兄様」と呼び武運を祈る少女――。 赤誠・献身・愛国・義心など、銃後美談にこびりつく戦意高揚や動員の言葉を慎重にはぎ取り、戦時下に漂う「空気」を示す記録・資料として美談を読み替える。そして、銃後美談から、総力戦下の矛盾や人々の困難、善意という暴力、戦争のリアリティーを浮き彫りにする。
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3.5近年、ミステリジャンルでの「怪異」の増殖が目立つ。探偵小説や推理小説など、人智による「謎」の「合理的解明」を主眼としたフィクション・ジャンルであるミステリは、人智が及ばない「非合理」な存在である怪異・怪談・怪奇幻想・ホラーとどのように切り結んできたのか。 岡本綺堂、江戸川乱歩、横溝正史、夢野久作、海野十三、久生十蘭、戸川昌子、小野不由美、綾辻行人、京極夏彦などのミステリの代表的な作家の作品はもちろん、四代目鶴屋南北や芥川龍之介、「故人サイト」やゲーム「逆転裁判」シリーズなどのテクストに潜む怪異を丁寧に分析する。 ミステリというジャンルで展開される「怪異」の 拡散と凝集、合理と非合理の衝突から、日本のミステリ小説の潮流を捉え返し、近現代日本の文化表象の変容をも明らかにする。
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-戦前、女子の中等教育を担った高等女学校(高女)は「良妻賢母」の再生産の場とみなされてきた。しかし、満州事変から始まった15年戦争下(1931-45年)では軍人を指導教員に招聘して竹槍訓練・匍匐訓練、さらには銃や木銃を使った射撃訓練を含む教練を実施したり、生徒を地域の軍隊に短期入営させて軍人に教練指導を委託したりという高女もあり、身体を「兵士化」する訓練が日常化していった。 そうした軍事教練の実態を、関東地方を中心に5つの公立高女の卒業生を対象にした聞き取り調査から探り、高女の変容の要因を分析する。 同時に、女性の戦時動員のなかでも空白部分の女性軍属、とりわけ女性通信手に光を当てる。部隊や県庁への防空警報などの連絡係、敵機からの防衛を担う情報係、海上の船舶などからの略号による無線航空情報を翻訳する係、軍隊の機密を知ることができる任務などの軍属としての女性の正規軍への参入の内実を、北海道札幌と愛知県名古屋の軍隊に通信隊員として採用された高女卒業生への聞き取り調査から解明する。 高女での軍事教練と女性の通信隊員の歴史から、戦時下の女性の動員の実態を浮き彫りにする貴重な成果。
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-芸能人の逮捕ニュースや使用罪の賛否で耳目を集める大麻。それは、麻薬なのか、医薬品なのか、嗜好に適したハーブなのか、覚醒剤への入り口なのか。摘発して厳罰に処すべきなのか、それとも自由化すればいいのか。 禁酒法と大恐慌後の1930年代に「黒人のドラッグ」として大麻を規制したアメリカでは、戦後のビートニク、ベトナム反戦運動、ヒッピー、摘発を強化した「ドラッグ戦争」などを経て、現在は非罰化・合法化する大都市と州が増えている。同様にヨーロッパも非罰化へと向かっている。 日本では、1930年の麻薬取締規則や48年の大麻取締法で規制を強化して摘発を重ねている。しかし一方で、アメリカの対抗文化に呼応しながらも独自に自由化運動を展開している。具体例として、新宿ビートニクからコミューン運動、レゲエやラスタ思想との関連、スピリチュアリズムへの傾倒、非犯罪化市民運動などの潮流を概観する。 さらに、戦前の帝国時代に各家庭に頒布した神宮大麻も取り上げて、政策の変遷を描く。 大麻を語ることは、摘発と逮捕、規制史と統治性権力、抵抗と社会運動、そして嗜好する人たちの生そのものを論じるということである。 文化社会学と犯罪社会学の立場から大麻所持の厳罰化の100年間を精査して、有害か自由化かを超えた大麻をめぐる論争に一石を投じる。
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-ひいきのプロ野球チームを熱烈に応援して勝敗に一喜一憂し、アイドルを追っかけてオタクの生活に浸る。応援団のリードに手拍子を合わせる。応援団としてファンを統制する。 他者を激励して成功を自分のものとし、失敗を自分の責任のように背負い込む応援するという行為を、どういう心性が支えていて、生活にどのように位置付けているのだろうか。大学応援団の実態や、スポーツと芸能の現場――特にプロ野球の私設応援団と、親衛隊からヲタ芸まで――をフィールドワークに基づいて分析し、選手・演じ手と観客との関係を考察する。 大学応援団の歴史や因習に縛られた上下関係、「男の世界」に女性が入り込んで生じるジェンダー問題、伝統校の新入生へのイニシエーション行為、それらが時代とともに変貌するさまを解明する。 また、プロ野球の私設応援団が引き起こした事件と無秩序の実態、その後の統制と管理、トライアスロンなどの参加型スポーツイベントの地域住民と参加者の交流、さらには伝統芸能とアイドルに熱狂する忘我現象とは何か、にも迫る。 応援文化を多角的に描くことで、「他者によって自分の存在を確認する応援という行為」を照らし出す。
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-年間3万人超え、10年以上続いた日本の自殺増加は何だったのか。 なぜ、1998年からの日本の自殺増加の中心は中高年男性だったのか。 なぜ、2000年以降、中高年の自殺が減っても、若者の自殺は減らないのか。 なぜ、日本の女性や若者の自殺率は、他の先進国と比べてとくに高いのか。 社会の自殺率は、何によって変化するのか。 自殺研究は、いまも貧困や失業、離婚、病気、争いごとなどに自殺リスクの原因を求めがちだが、自殺は高度に社会的な現象でもある。自己本位や愛他、規範崩壊、宿命などの個人的な事情に押し込めずに、隠されている背景や事情を究明する必要がある。 そのために、自殺率統計も援用しながら、ゴフマンが提起する自己イメージ(体面=フェイス)の概念をデュルケムと関連づけて考察し、デュルケムの『自殺論』を現代に適用して分析する。 孤立や社会的排除など、個々人が集団や組織から切り離されたいま、個々人がどんな社会関係にも参入できる自己イメージをもつことが必要だ、と提起する新しい「自殺の社会学」。
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-楳図かずおの作品に通底する恐怖・子ども・母といったモチーフを主題論・作品論・表現論・文献学を総合して読み解き、恐怖マンガの巨匠と称され、多くのマンガ家たちからの尊敬を集めながらも、一面的に批評されがちな楳図作品の評価をくつがえす大著。
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4.0戦前期日本で「映画館に行く」とはどのような経験だったのか。1907年に誕生して以降、戦前期の映画館が毎週発行していた広告メディアであるプログラムに着目して、映画史初期から続くメディア横断的な経験のあり方に光を当てる。 戦前期にはすでに、映画館で作品を「見る」だけでなく、プログラムの文字と紙を「読むこと」、投稿や概要、批評を「書くこと」が観客の映像経験に分かちがたく結び付いていた。さらに、映画館という場所、映画という映像、プログラムという紙などの複数のメディアが折り重なるようにして、「映画を見る」経験を支えていた。 映画配給がもたらす時間感覚や、戦前から複合施設化していた映画館の実態、戦局の悪化によって映画興行が統制されていく諸相も掘り起こし、メディアミックスや大小さまざまなスクリーンをインフラとした今日のメディア経験の源流にある、戦前期日本の豊かな映像文化を描き出す。
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-柔道や剣道などの武道は、学校で子どもが体育の一環として親しみ、スポーツとして、見る競技として、健康維持として、多くの人々が楽しんでいる。また、世界選手権なども開催され、柔道や空手のようにオリンピックで採用されるなど、世界的にも普及している。 本書では、今日の状況を踏まえて、武道に内在する戦いに勝ち自分を守る技術としての「武術性」にあらためて焦点を当てる。そして、武道の根底にある武術性といまどう向き合うかを、柔術・柔道や剣道、中国・韓国の武術などを事例に検証する。 他者への暴力も内在する武術性を再編して、日常に文化として定着させてきた日本の歴史的な歩みをたどり、武道・武術の思想を人間/サピエンスの「生き抜く力」と再評価する。
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-※この商品はタブレットなど大きいディスプレイを備えた端末で読むことに適しています。また、文字だけを拡大することや、文字列のハイライト、検索、辞書の参照、引用などの機能が使用できません。 20世紀半ばに登場した核・原爆は世界のありようを一変させた。広島・長崎への原爆投下、今日も続く各国の核実験、原子力の「平和利用」と原発事故……。それらは生活だけではなく社会制度や文化に大きな影響を及ぼした。 社会的・政治的には様々な問題や議論を引き起こし、文化的には物語として表象され人々に受容されてきた核のイメージや言説の全体像をとらえるために、70項目をピックアップして、基本情報から論点・要点までを項目ごとにまとめる。 〈原爆〉から「戦後70年」を見通すだけでなく、「いま」と「これから」を考える有用な知の資源として活用できる、最新の知見と視点を盛り込んだ充実の「読む事典」。
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-神智学運動は、オカルティズムからニューエイジ、現代のスピリチュアリティへと続く霊的な思想の要所にありながら、宗教だけでなく、19世紀末から20世紀の政治や社会などに様々な影響を及ぼした。欧米で誕生した神智学は、どのようにアジアに広まり、受容され、それぞれの社会にインパクトを与えたのか。 創立者であるヘレナ・P・ブラヴァツキーの思想や活動を押さえながら、神智学協会の性格やその変容、ヨーロッパでの展開、植民地との関係を明らかにする。そして、南アジアのナショナリズムとの結節、近代中国での展開、日本仏教との関わりなど、アジアでの受容の実態を掘り起こす。 アジアの宗教にも影響を与え、東西にまたがる活動をおこなった神智学の越境性と分野横断的な営為、人的な交流を、近代の帝国主義、グローバリズム、メディアの発達なども踏まえて多角的に検証する。神智学運動をテーマにした日本初の論集。
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-※この商品はタブレットなど大きいディスプレイを備えた端末で読むことに適しています。また、文字だけを拡大することや、文字列のハイライト、検索、辞書の参照、引用などの機能が使用できません。 絵画を見ること/知覚すること――。現象学の発展に寄与したフランスの哲学者モーリス・メルロ=ポンティは美学・芸術論も残しているが、「見ること」や芸術を通じて何を思索し、それは彼の哲学でどのような意味をもつのか。 メルロ=ポンティの美術論・芸術論を導きの糸に、「奥行き」や「同時性」という概念に着目して『行動の構造』『知覚の現象学』『見えるものと見えないもの』などのテクストを緻密に読み解き、2つの概念の絡み合いを彼の思想に位置づけ直す。 哲学に限らず美学や芸術の領域にも越境し、のちにジョルジュ・ディディ=ユベルマンの美術論にも影響を与えたメルロ=ポンティの美学の深奥とポテンシャルを指し示す。
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-人々を政治的・社会的・文化的に統合し均質化する近代の国民国家は、非合理な他者の一つとして〈怪異〉を排除した。だが〈怪異〉はそのような近代社会と緊張関係をはらみながら様々に表象され、ナショナリズムにときに対抗し、ときに加担してきた。 戦前・戦後の文学作品、怪談、史跡、天皇制、二・二六事件、マルクス主義と陰謀論、オカルトブーム――〈怪異〉にまつわる戦前・戦後の小説や史料、事件、社会的な現象を取り上げて、「戦争」「政治」「モダニズム」という3つの視点からナショナリズムとの関係性を読み解く。 〈怪異〉とナショナリズムが乱反射しながら共存した近代日本の時代性を浮き彫りにして、両者の奇妙な関係を多面的に照らし出す。
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-明治から昭和まで歌人・詩人・フランス文学者として活躍して、多くの翻訳をなした堀口大學。10年以上にわたる海外生活や翻訳の業績がこれまで注目され、堀口の翻訳が日本近代文学に与えた影響という側面から主に議論されてきた。 だが、堀口自身が精力的に展開した文学実践や、彼の活動が日本文壇に与えた「異国情緒/エキゾチシズム」のインパクトは注目されてこなかった。 堀口大學の文学者としての経歴を、創作詩作『月光とピエロ』や訳詩集『月下の一群』などを中心に理解する。そのうえで、原文と翻訳テクストの比較などをとおして、堀口によるポール・モラン作品の翻訳とモダニズムの関係性、「新しさ」への志向、堀口自身の詩歌・随筆の射程を明らかにする。 堀口大學が日本文壇で異国情緒というイメージをまとい、それが解体・展開していくプロセスを比較文学的な視点から追い、堀口の詩歌や随筆が日本の翻訳――文体・語句・テーマ性――に与えた影響に光を当てる。
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-大正期から昭和初期のプロレタリア文学運動は労働者階級の現実を描く文学実践だが、そのジェンダー構造については十分に問われてきたとはいえない。プロレタリア文学をジェンダーというレンズを通してみたとき、階級と性にはどのような関係性が現れるのだろうか。 小林多喜二や徳永直、葉山嘉樹、佐多稲子、吉屋信子、山川菊栄など、大正から昭和初期の日本のプロレタリア文学を中心に、ジェンダー批評の観点からその実践を読み解く。弱者が権利を求める階級闘争の渦中でさえ、周縁化されたり、ケアとしての役割を求められたりする女性の姿を切り取る文学作品からは、階級闘争におけるジェンダー問題にとどまらず、「階級闘争自体のジェンダー化」というべき複合的な課題がみえてくる。 「階級」「労働運動」という論点とジェンダーやセクシュアリティ、さらに民族やコロニアリズムなどの論点の交差=インターセクショナリティにも着目して、プロレタリア文学が内包する問題と闘争の可能性を描き出す。
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-一般的には「異常」や「障害」としてネガティブにとらえられがちな〈色盲〉。だが、そういったイメージは「近代」によって作られたものにすぎなかった――。 ドルトン、ゲーテ、メリヨン、ブルースター、ショーペンハウアー、ヘルムホルツ、ヘリング、スーラ、ホルムグレン、シュティリング、そして石原忍……。18世紀末から19世紀末までの近代ヨーロッパと20世紀前半の日本で〈色盲〉という概念の形成や色覚検査器具の開発に関わった有名無名の哲学者、芸術家、科学者たちの言説を渉猟することによって、現代の私たちが知るものとはまったく異なる〈色盲〉の姿を浮かび上がらせる。 哲学・医学・生理学・社会学・芸術学・メディア論など、様々な領域にまたがる豊富な資料を横断的に読解しながら、きたるべき「色覚多様性社会」の構想をも視野に収めた画期的な成果。
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4.0明治維新から西欧にならって殖産興業を急ぎ、新しい組織=株式会社が次々にできたことで生まれたサラリーマンはどのように「成長」してきたのか。現在では「ありふれた一般人」の総称とされるサラリーマンは、いつ社会に登場したのか。また、サラリーマン層を「安定」の表象とする社会意識の浸透には、どのような歴史的・社会的背景があるのか。 「ありふれた一般人」という集合体としてだけ語られがちなサラリーマンに焦点を当て、彼らが生きた各時代の社会のなかで、彼らのどのような心情が様々な文化表象に反映されてきたかを明らかにする。具体的には写真、漫画、映画、そして文学作品、とりわけ文学作品という虚構の背後にそびえる社会状況をサラリーマンの視点から読み解いていく。 立身出世、小市民、インテリ、労働組合――。かつて「一億総中流」といわれ、その象徴として「安定と平凡な家庭生活」の代償に働き続けたサラリーマンたちのさまざまな表情を、各時代を生きたリアリティとともに浮き彫りにする労作。
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-カッパ、カマイタチ、くねくね……私たちはなぜ、それらを妖怪と呼ぶことができるのか。私たちにとっては実在しない・超自然的である・俗信だから、だろうか。だが、ある時代や別の社会にとってみれば、妖怪はそのようなものではなかった。この食い違いは、どうすれば和らげられるだろうか。妖怪の概念をどのように書き換えていけばいいのだろうか。 妖怪を超自然的で実在しないものだとしてきた妖怪研究の存在論的前提を問い直すために、主に18世紀末から現代までの自然/超自然、宗教、近代/非近代をめぐる議論、日本の知識人の言説や思想、学知を渉猟して、それらと絡み合うなかで現代の妖怪概念が生成してきた過程を丁寧に分析する。 さらに、主要な妖怪を題材に、自然と文化、科学と俗信などの区分の構築とその限界を検証し、現代の私たちが想像してきた「非近代的存在論」に収まらない妖怪の記述の仕方を模索する。 妖怪と妖怪研究の関係性を存在論的転回の人類学の視点から批判的に検証する。そして、妖怪を超自然や非実在なものに還元せず、状況に応じて適切な概念でそのつど捉えていくことの重要性を指摘する。妖怪研究の再構築を試みる野心的な研究成果。
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-近年、日本の政治・社会の右傾化や排外主義の台頭、保守団体の活発な活動が指摘されるようになった。なかでも、1997年に設立された日本会議は日本最大の保守団体として注目を集めている。 1990年代から小泉政権、第一次安倍政権を経て民主党政権までの政治動向や社会状況を押さえながら、靖国参拝支持、教育基本法改正、歴史教科書問題、夫婦別姓反対、「従軍慰安婦」問題などをめぐる日本会議の活動やイシューの内実、それに基づく集会や署名活動、動員の実態を検証する。 加えて、保守市民社会のアドボカシー活動=政治家に直接にはたらきかけるロビー活動に着目して、「歴史検討委員会」「日本の前途と歴史教育を考える若手議員の会」「日本会議国会議員懇談会」という主要な議員連盟を取り上げ、日本会議と政治家のつながり、その影響力を分析する。 日本会議の活動や機関紙「日本の息吹」から作成したイベントデータを対象に、社会運動論や利益団体論、ロビー先選択論などの枠組みから保守市民社会と政治の関係を明らかにする画期的な研究成果。
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-フランス社会は学歴に強く支配されていて、学歴と職業が直結している。そのため、グランゼコールという難関の高等教育機関に入るための厳しい選抜競争を勝ち抜いた人々は自他ともにエリートであると認められている。現代フランスでエリートになるには、どのような能力が求められるのだろうか。 本書では、ピエール・ブルデューとジャン=クロード・パスロンが提示した「言語資本」概念を下敷きにして、グランゼコール入学試験の際のフランス語の運用能力に着目する。選抜におけるフランス語の重視度や運用能力の獲得過程を調査するため、入学試験を分析し、名門グランゼコール在学/卒業生とその親、受験準備学級の教師たちに対するインタビューを実施する。 そして、現代フランスでエリートになるためには、フランス語の卓越した運用能力が専攻を問わず重視され、それ自体が資本として機能していることを明らかにする。また、言語資本は出身家庭で獲得され、継承されるだけではなく、学校教育でも獲得できる非-世代継承的な側面があり、またその内実が変容していること、それによって移民家庭などの恵まれない階層出身者であってもエリートへの階層移動が可能になっていることを照らし出す。
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-※この商品はタブレットなど大きいディスプレイを備えた端末で読むことに適しています。また、文字だけを拡大することや、文字列のハイライト、検索、辞書の参照、引用などの機能が使用できません。 食を自分のアイデンティティやライフスタイルとして捉える人々=フーディー。その言葉や存在は、TBSドラマ『グランメゾン東京』や三越伊勢丹運営の食メディア「FOODIE」、雑誌の特集で、日本でも知られるようになった。 高級店を訪れる一方、オーガニック食品やローカルフード、「手作り」にも引かれ、郷土料理やエスニック料理も味わう。「良い食べ物」を食べて学ぶことに強い関心をもつ彼/彼女たちの実態とは、いったいどのようなものか。 現代アメリカのフーディーの生活世界、セレブシェフへの熱狂、レストラン批評やフードブログの隆盛に、雑誌記事やテレビ番組、フーディー当事者へのインタビューから多角的に迫る。そして、「食の民主化」と「エキゾチシズム・真正性への希求」という食文化の両義性と、両者の緊張関係を析出する。 フーディーをめぐる食文化から階級や人種、ジェンダーの問題系を浮き彫りにして、そこに潜む社会的な不平等や雑食的な文化資本、卓越化の戦略を明らかにする「食の社会学」。
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3.0「日本に経済格差はあるが、文化的には平等である」――戦後、こういった神話が語られてきたが、はたして本当に平等と言えるだろうか。平等だと言うことで、どういう現実が覆い隠されてきたのだろうか。 ピエール・ブルデューの『ディスタンクシオン』の問題意識と方法を共有しながら、社会調査や計量分析を基に、日本の文化資本の機能を読み解く。 芸術・音楽・読書などの趣味とジェンダー/ライフスタイルの関係、趣味を通じた友人のネットワーク形成、家庭の文化資本が学歴や地位の形成に及ぼす効果とその男女差などの分析を通して、日本における文化的オムニボア(文化的雑食性)という特性とジェンダーによる文化の差異を浮き彫りにする。そして、日本で文化の再生産が隠蔽されてきたメカニズムを解き明かす。
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-19世紀末から20世紀初頭にかけて、生理学や神経学、病理学などの生命科学は、キモグラフやミオグラフなどの装置を使って「生命」を視覚化しようとしてきた。では、医学は「生命」をモニタリングするために、何を、どのように記録しようと試みたのか。医学を支えたそれら視覚技術は、映画などの映像文化とどのように結び付いていったのか。 ゾウに6,000ボルトの電流を流す瞬間やイヌの拍動する心臓を記録する映画、てんかん発作のような不随意的な身体の動きを追う映像、ウサギの血液循環を顕微鏡で撮影した科学映画、そして、未知の光線で骸骨にされた人体内に再び生命活動を捉えようとするX線映画――。 映像技術によって「生命」を明視しようとする科学的観察の欲望を、多様な事例と豊富な図版から明らかにする。それら医学の欲望が「生命」を把持し統制しようと格闘した歴史をたどり、現代のCTやMRIなどの画像技術へつながる医学的な映像実践と映画との関係を検証する映画研究・視覚文化論の成果。
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-エミール・デュルケムの集合意識論を批判的に継承し、フランス社会学派第2世代の中心を担ったアルヴァックス。近年、海外でも再評価が進むアルヴァックスが1925年に執筆した「記憶の社会学」の嚆矢が本書である。 社会のメンバーがみずからの過去を想起するとき、「記憶の社会的枠組み」がいかに機能するのか、過去の出来事の記憶を社会のメンバーはどう組織化し、「集合的記憶」を形成するのか、「集合的記億」は社会にどのような影響を及ぼすのか――。 アルヴァックスは本書でまず、個々人の夢や記憶などを論じるベルクソンやフロイトなどの哲学や心理学を緻密に検証する。そのうえで、「家族」「宗教」「社会階級」などを切り口に、社会集団にとって記憶が、人々を統合するばかりでなく、ときに分断もするというその社会的な機能を析出する。 記憶をどう継承するのか、歴史と社会の関係をどう考えていくのかが様々な局面で問われる今日にも、集合的記憶という視点から問題提起を差し向けるアクチュアルな古典的名著。
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-1932年から敗戦直前まで発行されたナチスの機関誌「女性展望」は合計282号を数え、最盛期には140万部を記録した。それは、ナチ女性団が編集・発行した女性向けプロパガンダ雑誌として、社会的・文化的領域で「理想的な」女性像を伝達する有力メディアのひとつだった。 誌面では、ヒトラーの指導者像を形作り、敵と味方のイメージを色濃く描き分け、女性を戦時奉仕活動へと動員するための表象を次々に打ち出していった。一方では、性別役割分業と良妻賢母思想を宣伝し、戦時下の窮乏生活を乗り切るための調理方法や物資の倹約法、娯楽を提供する連載小説などを掲載した。 さらに、ナチ女性団と、権力掌握後にナチ化を受け入れたドイツ女性事業団の活動記事からは、彼女たちが母性主義を逆手に取って、家庭に収まることなく女性の社会的地位向上を目指して大規模な社会活動を展開したことを明らかにして、これまでのナチ女性のイメージを覆す。 本書は、官製女性雑誌のために戦後ドイツの記憶から消し去られた「女性展望」を掘り起こし、ナチス支配下に生きた女性たちの全体像を解明する初の研究成果である。270点の貴重な図版を所収する。
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-文学作品の作者とは何者であり、読者とは、また何者なのか。 〈作者〉と〈読者〉の相互作用としての〈書く〉ことと〈読む〉ことを捉え返すことを通じて、エクリチュール(文字表現)の文字の連なりのなかに埋もれた意味やイメージをたどる。近代文学研究の泰斗のデビュー作を増補して復刊。 宮沢賢治の『銀河鉄道の夜』を呼び水にして、近代小説を築き上げた二葉亭四迷の『浮雲』や坪内逍遥『小説神髄』、森鴎外『舞姫』、夏目漱石『坊っちゃん』、さらには横光利一『蝿』、にいたるまでのさまざまな作品を、クリステヴァやボードリヤール、バルトらの文学論も援用しながら多元的で重層的に読み込み、近代日本文学の〈語りの構造〉を解明する記念碑的な論文集。
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-※この商品はタブレットなど大きいディスプレイを備えた端末で読むことに適しています。また、文字だけを拡大することや、文字列のハイライト、検索、辞書の参照、引用などの機能が使用できません。 「愛がある批評」を掲げた宝塚歌劇評論の新シリーズ第1弾。ネット宝塚を考察する特集をはじめ、安蘭けいの魅力を存分に語るスター論、大浦みずきにダンス・歌・芝居を聞くインタビュー、公演評とOG公演評、男役論・女性学・音楽論の連載も充実した一冊。※写真は掲載されておりませんのでご注意ください。
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-※この商品はタブレットなど大きいディスプレイを備えた端末で読むことに適しています。また、文字だけを拡大することや、文字列のハイライト、検索、辞書の参照、引用などの機能が使用できません。 ベルリン公演紀行、各組の詳細な劇評に加え、『ハゥ・トゥー・サクシード』『エリザベート』をとりあげて短期集中講座、さらにはOG・寿ひずるへのインタビューなど、愛する宝塚を、語り、論じ、研究するバーチャルな空間、宝塚ゼミ開講。
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5.0※この商品はタブレットなど大きいディスプレイを備えた端末で読むことに適しています。また、文字だけを拡大することや、文字列のハイライト、検索、辞書の参照、引用などの機能が使用できません。 稚児灌頂、女装マニア、獣皮フェチ、陰部切り、屍姦、サディズムの彼方……。土着的な性愛の態様や、秘戯の変異、性犯罪者たちの蠕動する欲望をえぐり出す渾身の性愛奇譚。性はフェティシズムに始まりフェティシズムに終わる──。
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-※この商品はタブレットなど大きいディスプレイを備えた端末で読むことに適しています。また、文字だけを拡大することや、文字列のハイライト、検索、辞書の参照、引用などの機能が使用できません。 力強さと華をあわせもつ男役、可憐で美しさがきらめく娘役…。スターたちは何を想って舞台で躍動するのか。30人の宝塚スターが、舞台にかける熱い想いと宝塚への愛を存分に語る。真摯な姿勢と素顔がのぞくファン必携のインタビュー集。
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-※この商品はタブレットなど大きいディスプレイを備えた端末で読むことに適しています。また、文字だけを拡大することや、文字列のハイライト、検索、辞書の参照、引用などの機能が使用できません。 「食」に対して、産地・成分表示の偽装や遺伝子組み換え食品などで不安が高まり、多様なメディアがそれを増幅している。また「食」は、孤食・個食などのように家族問題として取り上げられることも多い。それに対抗するかのように、「健康」「自然」というイメージによってスローフードや郷土食が注目され、食育が見直されている―。「コメ志向」の再考、食育の歴史、調理とジェンダー、スローフード、一家団欒イメージなど、食文化やそれを取り巻くイメージを多様な視点から読み解き、社会的・歴史的文脈によって「食」に対する人々の感性やイメージが全く異なってきたことを描き出す。食文化をとおしてさまざまな社会状況や歴史を、そして現代を照らす論考集。
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4.0※この商品はタブレットなど大きいディスプレイを備えた端末で読むことに適しています。また、文字だけを拡大することや、文字列のハイライト、検索、辞書の参照、引用などの機能が使用できません。 開放的でありながら閉鎖的で、膨張と内破を繰り返し、分割と排除の果てに侵食・増殖して人々を飲み込む都市-。ロサンゼルスの変容の軌跡に大胆かつ繊細な思索を重ね合わせ、ありふれた場所でありながら非‐場所である“場”としての都市の本質を把捉する。
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-※この商品はタブレットなど大きいディスプレイを備えた端末で読むことに適しています。また、文字だけを拡大することや、文字列のハイライト、検索、辞書の参照、引用などの機能が使用できません。 労働と情報の民俗学を問う。
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-※この商品はタブレットなど大きいディスプレイを備えた端末で読むことに適しています。また、文字だけを拡大することや、文字列のハイライト、検索、辞書の参照、引用などの機能が使用できません。 「都市民俗学」は存在しない。「常民」は概念ではない。「民俗」など妄想に過ぎない。「伝承」はもはや呪文である。「民俗調査」は自動筆記と化し、研究室はとっくの昔に天使の王国。つまり、おまえはすでに死んでいる。志もなく、希望もなく、より良い未来を選ぶ心意気さらになく、柳田国男、没してすでに30年。ただ、脳死状態のまま、世紀末の高度消費社会に、およそ不幸な延命を続けるこの国の民俗学。その病いのさまをていねいにほぐし、つづり、かたちにする、身についたことばから再び出発するための、渾身の荒療治。
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-※この商品はタブレットなど大きいディスプレイを備えた端末で読むことに適しています。また、文字だけを拡大することや、文字列のハイライト、検索、辞書の参照、引用などの機能が使用できません。 書くことの重さをひきずりながら、それでもなお「現場」に赴こうとする者たちに、取材・調査のあり方と、それを言葉として紡ぎ出す心得を説く。「場」の可能性を最大限に引き出し、読み手との往還を回復するための処方を模索する書。
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3.0※この商品はタブレットなど大きいディスプレイを備えた端末で読むことに適しています。また、文字だけを拡大することや、文字列のハイライト、検索、辞書の参照、引用などの機能が使用できません。 戦前、各地で大衆娯楽として親しまれていた少女歌劇は、そのほとんどが敗戦前後に消滅した。わずかに残った史料を収集し、元歌劇団員を訪ねて一人一人インタビューして聞き書きし、歌劇団の誕生から解散までを発掘した貴重な大衆文化史・演芸史である。
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-※この商品はタブレットなど大きいディスプレイを備えた端末で読むことに適しています。また、文字だけを拡大することや、文字列のハイライト、検索、辞書の参照、引用などの機能が使用できません。 宝塚アンの人気メルマガが書籍に! 日本一の宝塚歌劇グッズコレクター・オスカル草葉の愛あふれるエッセイや、宝塚初心者の村山らむねが宝塚にハマッていった顛末記、宝塚とブロードウェイ・ミュージカルの比較や本音の座談会など、書き下ろしエッセイも充実。
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-※この商品はタブレットなど大きいディスプレイを備えた端末で読むことに適しています。また、文字だけを拡大することや、文字列のハイライト、検索、辞書の参照、引用などの機能が使用できません。 まんがはすでに終わってしまったのか?──手塚治虫の死以後のまんががジャンルとして拡散・解体する状況を、「有害」コミック問題や「少年ジャンプ」の凋落などのまんが界を大きく揺るがした出来事や作品をとおして診断する評論集。
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3.0※この商品はタブレットなど大きいディスプレイを備えた端末で読むことに適しています。また、文字だけを拡大することや、文字列のハイライト、検索、辞書の参照、引用などの機能が使用できません。 少子化・高齢化・晩婚化が同時に進行するなかで、DVや児童虐待、子殺し・親殺しのニュースが毎日飛び交い、「家族」がきわめて今日的な問題として浮上している。これを「家族の危機」として捉えるかぎり、「危機」の原因を探り、崩壊を嘆く言説は流通しつづけるだろう。それに対して本書では、病理の象徴として家族を論じるのではなく、家族を論じることを通して社会のありようを注視する。具体的には、捨て子が文化としてあった江戸期の家族像や戦後日本における家族の変容などの歴史事象を確認し、人口減少社会の実情や地域と家族の関係性を把握し、家庭内殺人をめぐるメディア報道のあり方などを俎上に載せて家族をめぐる問題系を読み解く。家族と社会の「これまで」と「これから」を見定める格好の入門書。
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-※この商品はタブレットなど大きいディスプレイを備えた端末で読むことに適しています。また、文字だけを拡大することや、文字列のハイライト、検索、辞書の参照、引用などの機能が使用できません。 戦後復興、高度経済成長、バブル…。戦後日本が辿ったのは開発の歴史だといっていい。いまなお全国で続く開発によって、私たちの日常生活や地域文化はどのように変容したのか。「開発」につきまとう“推進/反対”という価値判断から一歩距離を置きながら、経済・文化・政治・環境などのさまざまな場面で個人的な情念と社会的な利権との絡み合いとして問題化される「開発」のありようを、社会的・歴史的に定位する。国土開発の起源、郊外の発展、戦後日本の農村、沖縄の観光開発、グローバリゼーションにおける開発と文化の関係性などの多様な切り口から、開発と地域文化の今後の関係をどう考えていけばいいのかを指し示す論文集。
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