「ヴェーバー入門」とうたってはあるが、読み応えのある本書は、社会的行為の動機を理解し、その内面から人間と社会のあり方を考えるという理解社会学を中心にその射程をとらえようとする力作。第1章ではヴェーバーの動機理解を学問の方法としたヴェーバーの学問をドイツ歴史学派の方法批判から綿密に跡づける。第2章はそ
...続きを読むの理解社会学の最初の実践例としての『プロ倫』が取り上げられる。
「理解社会学の方法に即して『プロ倫』をここまで丁寧に読んでくると、この著作が、資本主義という経済システムの歴史的起源を解明するものではなく、ましてや、近代という時代とその文化を一般的に擁護したり批判したりするものでもなく、ここに文字通り語られているように「職業理念を基盤とする合理的生活態度」をその淵源となった「キリスト教的禁欲の精神」から問うものだという、その真意が正確に理解できると思います」(p.123-4)
第3章はヴェーバーの読まれざる大作『経済と社会(宗教ゲマインシャフト)』をその構成の検討からはじめて読み解いていく。ここでは宗教倫理への定位の問題が、行為と秩序の関係を問うという課題と、『プロ倫』が対象としたプロテスタンティズムから視野を他の宗教まで広く拡張していくという2つの問題があることが展望される。
そして第4章は「世界宗教の経済倫理」を通じて比較宗教社会学へと展開していくさまを読み解いていく。キーワードは物象化。とくに儒教とピューリタニズムの比較から解析される、秩序形成の物質中心と人間中心という視角は重要であることが示される。現代の我々自身の課題へと繋がっていく。
「おわりに」では「人間と社会の脱一体化的理解」という社会認識の形が、現在の社会の組織形態にしたがって生活していても、それとは異なる未来を構想して行動を開始するという可能性を開くことが指摘される。
(注)では去年出された岩波新書(今野)、中公新書(野口)なども批判的に取り上げられているので、一読を。とくに今野本には「伝記論的転回」って書かれてるけど、自分のウェーバー像に都合の良い断片をつなぎ合わせて構成しているだけだと手厳しい。