ユーラシアでは、農耕をしながら定住する湿潤地域の人々と、草原を移動しつつ牧畜をする乾燥地域の人々で二分された。
→この人々が混じり合う場所で、文明が発達した。
また、文明が発達し、人々が交流すると契約が生じる→文字の出現
中華とは、中心地、センターの意味。その外には朝貢国がいて、外側に行くにつれて
...続きを読む程度の低い野蛮人、「外夷」がいる。
秦の始皇帝の後に成立した漢では、西の匈奴により絶えず圧力をかけられていたが、武帝の時代に匈奴に勝利。その後、平和の時代が訪れる。シルクロードの最東端である漢(和帝)と、最西端であるローマ(トラヤヌス帝)は同時期に平和を享受した。
寒冷化が進み、北の遊牧地では草が取れなくなる→民族が南へ大移動をする。
中国での都市形態はもともと内城外郭であったが、寒冷化により城が狙われるようになると、白の外に村を作って暮らしだす。
→政治(城)と経済(村)が分地、小さな地域に分裂することになる。これが五胡十六国時代の礎。
中国は戦争と統一を繰り返していると思われがちだが、もともと地域ブロックが明確であり、利害調整が難しく、各地で戦争が起きていた。→複合的、多元的な社会を実現した。また、軍隊が政治的な力を持ち、貴族に支えられ、下の者を強制的に働かせるという政治・社会制度は共通していた。
隋の時代になり、中原を統一。首都を長安と洛陽に置く。南方の経済力、北方の軍事力。
唐の時代、李世民という名君が統治。仏教という価値観の共有も相まって遊牧民と農耕民と融合するレベルで南北の統合を図った。思想界、宗教界でもとても多元的だった。
8~9世紀にかけ、唐は解体に向かうが、その理由は、中央アジアがイスラーム化し始め、小国が分立し始めた。また、温暖化し、ウイグル人が東から西に移動し始めた結果、モンゴル系・ツングース系の狩猟民族が力を持つようになった。
唐宋変革:唐と宋の時代の間で起きた大きな社会変動
①エネルギーが木材から石炭になり、金属生産が増える。
②土木、農業技術の進歩により、低湿地の水田化と人口増大
③貨幣経済の開始
④貨幣の発達による商業発展。(税システム)
⑤都市化の発展。城郭の無いところにマーケットができ、それが商業都市化する。
このときには各地が各名産品をその気候風土の中で作っていたため、多元化・多様性があった。それがバラバラにならないよう、君主独裁という中央集権制を取った。
→隣接する契丹、西夏にも、対等の交際をし、攻め込まれないように上手く政治を行っていた。
→社会が圧倒的に豊かになった。今の中国文化のベースになったのもこの時代。
モンゴルが異様に発達した理由…騎馬の強さもあるが、支配した地域をそれまでの生活を続けさせたこともある。また、ウイグル人という商人集団が、モンゴルの軍隊とともに商業経営を拡大する。水先案内人のように征服する地を導いていた。
モンゴルでは銀との兌換紙幣の流通、塩の専売化による税収の確保など、かなり発展した商業金融が行われていた。
元寇も、征服ではなく商業圏の拡大を意図して日本にやってきた説がある。
しかし、世界全体の寒冷化によって、農作物が不作になり経済が崩壊、モンゴル帝国は滅亡していく。
明の出発は、まだ域内に残っていたモンゴル帝国の影響を払拭し、多元的な社会を中華と外夷に分離、漢民族だけの王朝を目指した。
そのため、貿易は鎖国、取引したい国は朝貢だけ認めた。朝貢の結果明国内での売買取引が認められる、という制度。
また、江南デルタ周辺で農業、綿、生糸栽培が発達。明朝は現物主義のため、貨幣が存在しなかったので、大量の銀が中国に流れ込み、中国の木綿や絹が世界に輸出された。しかし、当面鎖国体制を敷いていたため、密貿易が横行。政府と民間の行いが乖離し始める。
清朝では、明朝の官民乖離がそのまま量的拡大した。
清朝の前身は、リャオトン地域で満州人が建国したアイシン国。モンゴルと似ていた。
清朝は、今までの「華夷思想」を、「華夷一家」にあらため、満州人、漢人、モンゴル人、チベット、ムスリム一体の政権を作ろうとした。
貿易を容認する。中国は、大々的に小さい政府であり、人口が爆発的に増加しても、政府は何も対応を取ろうとしなかった。
→各地で特産品を海外に輸出したり、地域に応じた背策を個別に打ち出した。しかし、欧米列強の台頭により、国が一丸とならなければ駄目になり、「中国」と名乗り、国民国家化を目指す。
日清、日露戦争後、海岸地域を日本帝国に奪われる。→毛沢東が共産主義を掲げ、農村から革命を起こす。
→日中戦争で日本が敗北すると、中央政府に蒋介石が戻ってくるが、農村の労働者の支持を得た毛沢東に敗北、台湾に逃げる。
その後鄧小平が改革開放政策を打ち出すも、富裕層と農村の「上下の格差」は、今日に至るまで解消されてない。
中国の歴史は、バラバラな民族と社会が存在する中、いかに秩序を保って共存を図るか?という腐心の歴史であった。近代の時の「国民国家」を見習ったが、単一構造的な社会ではない中国には難しい。宗教でまとまるか、共産主義でまとまるか、社会も信仰も違う国々が、一つになろうとする歴史は今日でも繰り返されている。