この人の考えること、よく分かるなぁと思い、よく読む。
共感を呼ぶ本は、出合うと嬉しい。
でもある程度読むと、飽きてきたり不安になったりする。
それで今度は、違いを探し始める。
それで、あぁここが違うから、自分は大丈夫だって思って
なんか救われた気になる。
おかしな話なんだが。
...続きを読む 違いを認識しつつ(私はこんな破滅的な行動はしない)
自分を投影していたはずなのに、(それでも彼女の言う「愚かしさ」はよく理解できる)
最終的にはその投影を捨て去ることで救済を得る。
その「自分は大丈夫」は、別にこの人を卑下して感じるものではなく、
ただ「違う」という認識だけ。
自分が囚われている愚かしさに終わりが見えない不安に対し、「違い」を「自身の終わりへの可能性」と感じるからなのだろうか。
(あぁ、でもそれって「中村うさぎは未だ救われていない」って目線だ。いや、救われるようなことがあったら、わたしは彼女の作品をもう読めないのだろうけど。救われないから書いてるとでもいうか。)
はてさて
太陽のもとで咲く大輪の花よりも、泥沼の中で凛と咲く水連に魅かれる
的なことが書いてありました。
だから、夜の街の王子様にハマったのだと。(多分そんなニュアンス)
暗喩に他ならないが、私はここに彼女との違いを見た気がしました。
私も多分、睡蓮に心ひかれる人間なのですが、
私は、睡蓮は、遠くから見てこそ美しいのだ、と思う。
睡蓮を近くで見ると、雄蕊雌蕊の生えているところには、「これから蓮根になるんだ。」という形状が見られる。それが睡蓮のリアル。わたしはそこに触れて、幻想を壊すことが、怖くてできない人間なんじゃないかな、と。
それか・・・「睡蓮のリアル」なんて、この人百も承知だと思うんだけど、私はそこまで深く関われないからそこに幻滅はしないかな。「あ、この人も人間か。」と。ただそれだけ。
関われない分思うのは、「夜の街」の泥沼具合と「睡蓮」の美しさ。
睡蓮は、泥の中でしか生きられないが、泥の中で生きることを選んだ「睡蓮」は、私は美しいとは思わない。だったら不当なまでの過剰労働で泥だらけ傷だらけになってる中で見出す美しさの方が私のイメージに近い。
この人は、夜の街の様々な内情を知ってるからこそ書けるのであろうが、
ネオン街の王子様を「泥沼の中の睡蓮」と例えられるほど想像力の及ばない私は、凡人の領域に住むそこそこの自意識のもとに、葛藤に耐えて生きていくのでしょうな。