いやこの表紙じゃないんだけどね、わたしの持ってるのは。。
『PERFECT DAYS』で平山さんが求めてたのと同じやつ(わたしも彼と同じく古本屋で100円で購入)。その表紙のほうが全然かっこいい。
その昔、幸田文を見つけては買っていた時期があり、買ったものの読んでいなかった作品。上記映画に出てきて
...続きを読むびっくりして読んでみた。
いや面白い。幸田文さんは率直だ。素直だ。そのような姿勢で、感じたことをそのままあぶり出すかのような文章が素晴らしく魅力的だと思う。
たとえば、「杉」のこんな文章。
「本当のことを打明ければ、私はおびえていた。おびえているから考えることもなみを外れるし、並外れを考えるから、またそれにおびえる。この杉は、なにか我々のいまだ知らぬものに、移行しつつあるのではなかろうか、などと平常を外れたことを思ったりして、だいぶイカレていたのだが、同行皆さんの厚い好意の手前、感じたままのあしざまはいえない遠慮があり、その遠慮で、イカレをかくした。」
その文章の魅力を、巻末の「解説」で佐伯一麦さんがサマセット・モームの文章を引用し、実に的確に語っておられる。
モームいわく、良い文章とは、育ちがよく、礼儀を尊重し、生真面目すぎもせず、つねに適度であり、『熱狂』を非難の眼で見なければならない、という。
そして幸田文さんの文章はまさにこれに当てはまると。
実に同感です。
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なお「木のきもの」を読み、樹皮に興味がわいてきた。
「木は着物をきている、と思いあててからもう何年になるだろう。北海道へえぞ松を見に行ったとき、針葉樹林を走りのぼるジープの上で当惑したことは、どれがえぞ松だか、みな一様にしかみえず、見分けができないことだった。仕方がないので、目的地へついてから、教えを乞うた。あなたは梢の葉っぱばかり見るから、わからなくなっちゃう。幹の色、木の肌の様子も見てごらんといわれた。つまり、高いところにある葉や花にだけ、うつつを抜かすな、目の高さにある最も見やすい元のほうを見逃すな、ということである。そのときに、これは木の装いであり、樹皮をきものとして見立てれば、おぼえの手掛かりになると知った。」
「木は着物をきている」という発想が面白くて、ジョギングの最中、樹皮ばかり見るようになった。もともと桜が樹皮だけでわかる唯一の木だったけど(子どものころ桜の木に登ってたから)、楠を覚えて、そしたら他の場所でも「あ、楠だ!」とわかるようになり、楽しい(字を覚えた子どものよう)。
先日はジュゴンの肌みたいだなぁと思って興味をもっていた木が、「ヤマモモ」だと知る。
わたしは葉っぱを見ずに樹皮ばかり見ているので、葉にも目を広げつつ、少しずつ木の種類をわかるようになっていきたい。