【感想・ネタバレ】神曲 煉獄篇のレビュー

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ダンテの神曲。
いろいろな訳を3から4種類持っていますが、何度も読んでいるのはこちらの平川さんの訳です。
挿絵もきれいで読みやすく一番気に入っています。

#深い #怖い

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2024年02月29日

Posted by ブクログ

煉獄とはなんぞや?地獄行きを免れた死者が天国を目指し七つの大罪を浄める贖罪の山である。鬼滅の刃は知らん。

地獄篇のビジュアルが印象強い「神曲」だが、煉獄篇も非常に映像的。地下に降りていった前篇から、今度は山を登っていくという流れになり、雄大かつ峻烈な風景が描かれる。おどろおどろしさは薄れるものの、罪を償うべく過酷な労働を強いられる著名人が続々登場し感情移入を誘う。ダンテの額に肉、ではなくて七つのP(罪)の文字が刻まれ、七つの大罪に対応した環道を通過するごとに一つひとつ消えていく、というのもマンガ的で面白い。
先生との別れの情緒と、ようやく出会えた夫人から受ける叱責の強烈さが見事なコントラストをなしていて、ここが煉獄篇最大の見どころなのかも。というかSMすぎてワロタ。ダンテくんがM男というよりSすぎるんですよあの方……。
終盤の、美女がたくさん登場し癒やされる光景は文字通り地上の楽園という感じで、ダンテと共に旅をしてきた読者をなごませる。このあたりは天使やら幻獣やらが登場し、どファンタジーな映像を堪能できるので読んできたかいがあるというもの。続く天国篇はいかなる世界か楽しみだ。

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2022年03月12日

Posted by ブクログ

地獄編同様、一日一歌コツコツ読んだ。
『神曲』を読む上で、思いつきで実行してきたこの読み方は案外有効なように思える。なぜなら、地獄〜煉獄を巡ることがいかに大変なのかを追体験できるからだ。途上でダンテは何度も挫けるが、その都度ウェルギリウスに励まされ、歩を進める。私も何度か読むことが億劫になったが、その度に自分で喝を入れて読んできた。

だからこそ、ダンテがベアトリーチェに再開するまでどれだけ苦労したのかが、現体験を通じて感じることができる。

閑話休題、煉獄編で特に惹かれたのはやはり美しい情景表現だ。第一歌から感動で鳥肌が止まらなかったのは鮮明に覚えている。これも地獄編をコツコツ読んできた後だからこそ味わえる感動である。

もちろん第一歌のみならず、全体にわたって美しくて的確な表現が止まらない。これに心動かされない者が果たしているのだろうか?

『神曲』の魅力は語り尽くせないくらいにはまだまだある。″3″を意識したゴシック調の形式、原語で音読したときに歌になる工夫、各編の行数の統一性などなど。『神曲』は知れば知るほど、その偉大さにひれ伏す。

こんなにも私の心を打った作品なので、本書の訳者である平川先生による『ダンテ神曲講義』を参考に再読しようと決意。その前に天国編へ!

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2020年10月07日

Posted by ブクログ

2009年1月19日~20日。
 面白さからいったら地獄篇の方が上かも知れない。
 それでも、これは面白い。
 ベアトリーチェってのもかなり自惚れが強い女性だし、ダンテも案外傲慢で情けなくて、甘えん坊。
 キリスト教ってのもどうなの?
 結局は神の復讐の訳でしょ。
 なんて読み方はやはり邪道だろうか。

 訳者の平川氏の功績がやはり大きいと思う。
 この作品を盲目的に賛辞するのではなく、きちんと俯瞰してダメなところはダメ、首を傾げるところはおもいきり傾げる。
 そして懇切丁寧な注釈。
 大抵は注釈なんて斜め読みするんだけど、ここでの注釈は本当に役に立つ。
 痒いところにきちんと手が届くのだ。

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2018年01月06日

Posted by ブクログ

文学的美しさにおいては、平川祐弘訳の右に出るものなし。これをたった35歳の弱冠で訳し上げた平川先生はやはり学者としては超一級。

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2021年12月13日

Posted by ブクログ

ネタバレ

煉獄というのは、天国へ行く前に現世の罪を浄める場所。
これはカトリックだけの教えのようです。
プロテスタントには天国と地獄しかありません。

ここも天国ではありませんから、地獄ほどではありませんが苦しみに悶えながら罪を償っています。
本来罪を犯した人は地獄に行くのではないの?
一度の罪で地獄に落とされ永遠に地獄で苦しみ続けなければならない人と、煉獄でゆっくりゆっくりと罪を浄めて天国へ入れる人のちがいがわかりません。

だたし、どんな理由があろうとも罪を犯すのは結局本人の意思。
“天球は君らの行為に始動は与えるが、
万事がそれで動くのではない。仮にそうだとしても
善悪を知る光や自由意志が君らには与えられている。”

今話題の『沈黙』のテーマにも重なりますが、こんなことも。
“ 至高の神よ、口にするのも畏れ多いが、
神の正義の目はよそを向いておられるのか?
それとも神の深謀遠慮は
われわれの理解の及ばぬところで
こうした禍を福に転じる用意を整えておられるのか?”

“普通、正義を心に秘めている人は多いが、射るのは遅い、
議を経ずには矢を弓につがえぬからだ。”
議を経ないでやりたい放題の人、最近多いですね。

一昨年読んだゼイディー・スミスの『ホワイト・ティース』の中に出てきた疑問
“もし自分が神に許され楽園に行けたとしても、自分の足元に数え切れないほどの救われなかった人たちの屍があるとするのなら、それは本当に楽園と言えるのだろうか。”
これに対する答えはまだ私の中にない。
天国篇を読んで答えは出るだろうか。

ダンテ以前とダンテ以後で大きく変わったと言われるヨーロッパの文学と美術。
それほどの芸術のきらめきが天国篇では薄れて、宗教色が強くなるらしい。

“詩行が独立して読むだけでは意味が通ぜず、興趣も湧かず、註釈が必要とされるような部分は、詩的作品としては欠陥作品というべきであろう。残念なことにこの種の傾向は煉獄篇末尾から天国篇全体を通じて強まる傾向にある。”
と訳者が書いているのを読んで、日本では『神曲』を芸術作品として読んでいたのだと気がつく。
てっきり宗教作品だとばかり…。
だから明治の文豪たちがこぞって絶賛していたのか。今気がつきました。

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2017年01月30日

Posted by ブクログ

地獄編に続いて煉獄編。
煉獄とは、生まれ変わるために魂の浄化が行われる場所で、巨大な山になっている。

地獄編よりも。情景の描写が一層文学的になり、また思想も多く散りばめられている。
しかし、地獄編よりも面白みは薄くなってしまった印象。
ダンテと会話をする人物それぞれの個性が立っていないので
全体的にぼんやりしているのかも。

後半でベアトリ―チェにやっと逢うことができるが、まさか遭遇した時のベアトリ―チェが結構強烈な人で驚いた。

それにしても、ウェルギリウスがここでお別れしてしまったので、「先生」の言葉と素敵な振る舞いが、これから天国編でみられないのは、大変に惜しい。
地獄の罰を受けることも、煉獄で浄化されることも、天国に行く着くことも、生まれ変わることも出来ない、永遠の魂の放浪者・ウェルギリウス。
少し遅く生まれたスタティウスが、最期に改宗した故に煉獄山を登ることを許されたのに、死後はるかに詩人としての評価が高いウェルギリウスがこうした扱いを受けてしまう、キリスト教の考え方に、理不尽を感じてしまった。

いつかウェルギリウスの「アエネイス」も読んでみたい。

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2013年05月27日

Posted by ブクログ

地獄篇から煉獄篇(Purgatorio)へ。

全ての霊は、死後、肉体を離れ、地獄行きか煉獄行きか分別される。生前の信仰のため、地獄に堕ち永劫の罰を受け続けるのを免れた霊が、天国界へ昇るのに相応しくなるべく罪を清める場所がこの煉獄界、浄罪界とも訳される(なお、聖書に煉獄界の記述は殆ど無く、のちのプロテスタント教会ではその存在を認めていない)。

浄められるべきは七つの大罪。傲慢・嫉妬・憤怒・怠惰・貪欲・大食・色欲。地獄で罰せられる罪よりも日常的なものであるため、キリスト教の倫理的厳格さが却って身に詰まされる。

「私の血は嫉妬に煮えたぎっていたから、/もし人の幸福を見ようものなら、/顔面は、君の目にも見えるほど、蒼白となった。」(第十四歌)



キリスト教の世界観では、神の絶対性・神に対する人間の無力さが公理として前提される。

「おまえらにはわからないのか、われわれは守りもなく/裁きに向かって飛ぶ天使のような蝶となるために/生まれついた虫けらだということが?/なぜおまえの気位はそう高く舞いあがるのだ?/おまえはいわば片輪の虫、それも/まだ発育不全の蛹のようなものではないのか?」(第十歌)

「三位一体の神が司る無限の道を/人間の理性[ratio=計算的理性――引用者]で行き尽くせると/期待するのは狂気の沙汰だ」(第三歌)

次の引用に云う「自由」も、当然のことながら、「神への自由=罪に塗れた肉体という鉄鎖から解放され霊が神へと合一していく自由」であって「神からの自由」ではない。勿論、近代的な政治的「自由」でもない。

「自由を求めて彼は進む、そのために/命を惜しまぬ者のみが知る貴重な自由を」(第一歌)

愛の志向も美への陶酔も、一方で人間に自由意志を認めておきながら、最後には神の裁きと地獄の罰を持ち出して、愛や美への自由を矯めようとするのがキリスト教の教えだ。

「人間は善や悪を愛し、/その愛を集めて選り出すことができる・・・。」(第十八歌) 「・・・善悪を知る光や自由意思が君らには与えられている」(第十六歌)

「愛がおまえたち人間のあらゆる徳の種であり、/かつ罰に値するあらゆる行為の種である・・・。/・・・およそものは自己嫌悪におちいることはありえない・・・。/そしてあらゆる存在は原初存在[神]から切り離されて/それ自体で存在するとは考えられぬ以上、/およそ被造物はそれを憎むことはできぬわけだ」(第十七歌) 「およそ愛と呼ばれるものなら/それ自体でみな称賛に値すると主張する人の目には/真理は隠れ、真相は映じていないのだ」(第十八歌)

「天はおまえらを呼び、おまえらの周りを回って、/その永遠の美の数々を示しているが、/おまえらの目はもっぱら地上に注がれている」(第十四歌)

神の絶対性を志向する、則ち神と云う審判者の赦しを日々希求し続ける、その強迫的なまでの目的論的世界観とは、何と窮屈な生だろう。想像するだに息苦しい。



"永遠の女性"と云われるベアトリーチェも、要は自分の死後にダンテが自堕落な生活に陥り「よその人の許へ走った」ことを、キリスト教の用語を用いて責めている。そもそもダンテのこの彼岸行自体が、堕落した彼の眼を覚まさせるには「破滅した人間を見せるより外に/もはやない」と、彼女によって図られたものだった。

"永遠の女性"とまで云われる彼女が、言葉ばかりは宗教的な説教で飾り立てているが、その実は高慢で世俗的な女であったことに対して、率直に云って失望を覚えた。「世の中の人々が苦労して方々の枝に探し求めた/あの甘い樹の実」「おまえの餓えをいやしてくれる」(第二十七歌)天国に於いて、彼女はどんな言葉を語るのか。



内面に於て最も清浄たるべき神的合一を憧憬する精神的営為を、世俗に於いて支えるはずの教会。そんな内面に於ける宗教的権威が世俗に於ける政治的権力と一致してしまっては、その権威の源泉たる清浄な信仰心は、世俗の泥濘に何処までも墜ち込んでいくだろう。現に、政治活動家でもあったダンテの本作にも、信仰の清浄な静謐さとはほど遠い、俗世の政治状況に対する憤怒怨恨を露わにしている場面が多々見られるではないか。天皇制批判にも通じる一節を引用する。

「・・・。ローマ教会は/[世俗と宗教の]二権力を掌中に握ろうとしたから、/泥沼に落ち、自分も汚し、積荷も汚してしまったのだ」(第十六歌)

加うるに、内面を支配する宗教的権威が世俗を支配する政治的権力と一致してしまっては、神の絶対性へ合一しようとする宗教的心性は、世俗に於ける絶対的な暴力へと容易に転化してしまうことも歴史を顧みれば看て取れるだろう。



最後に、我が身へ向けての叱咤の句を記しておく。

「風が吹こうがびくとも動ぜぬ塔のように/どっしりかまえていろ。/次から次へと考えが湧く男は、/とかく目標を踏みはずす。/湧きあがる力が互いに力をそぎあうからだ」(第五歌)

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2012年08月21日

Posted by ブクログ

其れが目的のひとつであるからには当然のことなれど 宗教文学のとどのつまりは その宗派に属する者の祝福にあるから 何れを採っても私などは蚊帳の外 お陰で公正な眼でもって その教義が宗派を超えた処で——つまり万民にとって普遍の真理たり得るか否かを観察することが出来る。熱狂や戦慄からは一線も二線も画されて在り 個人的反省や呵責を別としたなら 所詮他人の土俵上の取組を観覧しているに過ぎない。
外国文学を採る限りは そうした一抹の無益は付き纏う訳だが このように小さな 旗頭をもたない国土に産み落とされたのは運の尽きで 彼方の人類史に占める面積も質量も大きい以上 理不尽でもこれに組み拉かれて往くより仕方はない。
なれど 一体 本来で在れば得られた筈の処のどの程度 異教の民は読み取るだろうか。

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2012年03月13日

Posted by ブクログ

日本人におよそ馴染みのない『煉獄』が舞台。地獄に行く程ではないが天国に行くまでに改悛が必要な人が来る場所。天国行きが確定している人が来る場所です。ヴェルギリウスがいなければ意味が分からなかったと思います…。地獄ほど生き生きした文章ではないものの、変わらずサクサク読み進められました◎煉獄では生きている身内に祈ってもらうと天国行きが早まるので、生きているダンテに我先にと話を聞いてもらいたがる下りが非常によく出来ているなぁと思います◎面白かったです!

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2011年11月19日

Posted by ブクログ

地獄と比べてここ煉獄にいる人たちは KiKi にとってあまり馴染みのない人が多かったです。  そうそう、それとですね、地獄と煉獄って形からすると地獄をひっくり返したのが煉獄・・・・みたいな形になっているみたいです。  要は地獄はすり鉢状・・・というか漏斗状で下へ行くほど狭まってその先っちょにあるのが氷漬けの世界なんだけど、煉獄はそれを上下ひっくり返したような形の急峻な岩山でその天辺にあるのが天国・・・・らしい。  地獄から天国に移動する際には地獄の底に埋まったルシフェロの体づたいにダンテはウェルギリウスに負ぶさって、地球の球体のど真ん中を突き抜けてエルサレムとはちょうど反対側に突き抜けていくような形で浄罪山のほうへ脱出していったということらしいです。  何となくネジをどんどん下がっていくみたいな感じがしてちょっと面白いと思いました。

(全文はブログにて)

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2010年09月23日

Posted by ブクログ

ベアトリーチェに会いに!
その思いで辛く、険しい山道を登る。
ところどころ一息つけるものの、なかなか読み進むのがつらかった。
頂上に着くとベアトリーチェに会えるが、ベアトリーチェがなかなか手厳しい。
気づくとヴェルギリウスが消えているし。
地獄に落ちなくても7つの大罪の罪を煉獄で償わなければならない
ああ、天国への道はかくも厳しいものなのか。

途中、フランスのカペー朝の王たちの名前があげられていたのでカペー家の歴史がついでに読めてしまった。

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2010年05月27日

Posted by ブクログ

>詩行が独立して読むだけでは意味が通ぜず、興趣も湧
かず、註釈が必要とされるような部分は、詩的作品としては欠陥作品というべきであろう。残念なことにこの種の傾向は煉獄篇末尾から天国篇全体を通じて強まる傾向にある。
>君ら生きている人々はなにかというとすぐ原因を
天のせいにする、まるで天球が万事を
必然性により動かしているかのような口吻だ。
仮にそうだとすれば、
君ら人間の中には
自由意志は滅んだことになり、善行が至福を
悪行が呵責を受けるのは正義にもとることとなる。
天球は君らの行為に始動は与えるが、
万事がそれで動くのではない。仮にそうだとしても
善悪を知る光や自由意志が君らには与えられている。
そしてこの意志は初期の戦いでは
天球の影響を受けて苦闘するが、もし意志の力が
十分に養成されているならば、すべてに克てるはずだ。
君らは自発的に、より大きな力、より良き性質に
自由に服することができる。その性質が君らの中に
もう天球が左右できないような智力を創り出す。
だから、現在の世界が正道を踏み外しているとするなら、
原因は君らの中にある。君らの中に求めるべきだ。(十六歌)
>疲労困憊するなどと繰返して言いながら、私たちがここまで夢中になって『神曲』のなかを歩みつづけてこられたのは、結局は訳者平川祐弘の流麗明快で活気に満ちた訳文のみごとさによるものにほかならぬことに、あらためて気がつく
平川先生の訳と注釈の頼もしさ、さながらダンテを導くウェルギリウス先生の如しなので解説めちゃくちゃ分かるになった。そしてあらすじ知るだけなら漫画でもいいかと思ったけどダンテ達と一緒に歩く読書“体験”が重要だったと思うから「『神曲』のなかを歩みつづけ」るという表現にも共感

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2019年04月05日

Posted by ブクログ

ネタバレ

ダンテはウェルギリウスに導かれ、最上部の地上の楽園(エデンの園)を目指して七つの圏(わ)を登っていく。そのそれぞれの圏(わ)では、キリスト教の七つの大罪(高慢、嫉妬、怒り、怠惰、貪欲、大食らい、色欲)を犯した魂たちがその罪を浄められている。
その浄められ方がなるほどそうなのだろうという感じ。
地獄編もそうだったが、ダンテさんの想像力、描写力はやはり凄い!

Mahalo

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2014年06月26日

Posted by ブクログ

地獄や天国と違って煉獄というのは日本人になかなか馴染みがないのだけど、そもそもキリスト教内でもプロテスタントや正教会は煉獄の存在を認めてないのだから仕方がない。地獄が信心を持たない者がその罪によって裁かれる場所なのに対して、煉獄は信者として救済を約束されていながらも生前の罪を浄化するために設けられた苦しみの場であるというのも始めて知って興味深かった。内容は一層混み入ったテーマやさほど有名でない人物議論に入っていくが、ウェルギリウス先生と共に行く煉獄山の登山光景は地獄の重苦しい雰囲気と違ってどこか爽やか。

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2013年03月18日

Posted by ブクログ

二人の詩人、ダンテとウェルギリウスは二十四時間の地獄めぐりを経て、大海の島に出た。そこにそびえる煉獄の山、天国行きを約束された亡者たちが現世の罪を浄める場である。二人は山頂の地上楽園を目指し登って行く。永遠の女性ベアトリーチェがダンテを待つ。清新な名訳で贈る『神曲』第二部煉獄篇。

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2011年10月20日

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