【感想・ネタバレ】神曲 天国篇のレビュー

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Posted by ブクログ

ネタバレ

「天国篇」第三歌・第四歌についての記述。
生前、神への誓願を破った為に、天国で一番低い天球「月光天」に割り当てられた魂の一人、ピッカルダ・ドナーティ。
彼女を通して「足るを知る」事の幸福が、美しく描かれています。

ダンテから、より上天を望むかと問われて、ピッカルダはしばし微笑むと、初恋の火に燃える人のように嬉々として答えます。

「わたくしどもの意志は愛の力で静まるのでございます。
 おかげでわたくしどもはいまが持つものしか所望せず、
 ほかのものに渇きを覚えることはございません。」
(「天国篇」第三歌70行~72行)

しかしダンテは、天国の住人にも階級があることに疑問を感じます。
それに対して、天国の導き手であるベアトリーチェは、ダンテに説明しました。

「[天国で最も高い処を占める魂たちも]
 いま現われた魂[ピッカルダ]たちと異なる天に
 座を占めるわけではありません。」
(「天国篇」第四歌31行~32行 [ ]は評者。)

「皆が第一の天球を美しく飾り、
 多かれ少なかれ永遠の聖息[みいき]を感じて、それに応じて
 それぞれのうるわしい生を送っているのです。」
(同 34行~36行 ルビは[ ]に記入。)

つまり天国の高低は、ダンテに分かりやすく示すためのサイン・方便に過ぎず、天国に住む全ての魂は神の君臨する「至高天」で暮らしているのです。
発想を逆転させると「月光天」という最も低い定めも、むしろピッカルダたちの謙譲の美しさを引き立たせている、とも取れます。
ともあれピッカルダも、神の愛に包まれて満たされているのです。

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2024年03月03日

Posted by ブクログ

眩しいばかりの光で目が眩みそうだった。
神学理論は難解で理解に苦しんだ。
ベアトリーチェの美しさは抜きんでていた。
聖母マリアの慈愛は心を溶かした。
聖母の助けによって至高天に昇った時、全てがわかった。

地獄を下り、煉獄の山を登り、天国で神の玉座まで上昇していく。
「神曲」という建築物を駆け上ることができたのは、平易な現代語訳があればこそであった。
ゴシック建築は立体的な聖書と言われるが、高校時代の無神論者であrと公言していた師が、フランスに旅行に行った折、シャルトル大聖堂に入り、思わず跪いて神に祈ったと語ったことが忘れられない。
たとえ全てが理解できなくともこの3冊を読み通すと同じように神に祈りを捧げたくなる気持ちになる。
自分もキリスト者ではないが、聖書の引用があれば聖書にあたり、ジョットをはじめとするルネサンスの絵画をみたことで少しキリスト教について理解が深まったように思う。

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2010年05月29日

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けっきょく、偉大な人間とはわたしなど及びもつかない人びとなのだということがわかる作品だった。
訳をされた平川さんという方の全人格をかけてダンテに立ち向かった気概と天賦の才能に嘆息するより他ない書物です…

できれば河出書房新社「神曲(完全版)」を手元に置きたい!

Mahalo

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2014年08月24日

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言葉にも血にも土にも神にも共通をもたない私が、道中、取り零す以前に直観し得なかったものは、莫大である。が、代わりに極公正な機能でもって眺めた時、一連の旅路を拓ききった詩人の空想・構想・信念・情熱・自負の力、乃ち愛の強大は圧巻だ。
全てを同じに有すべく、又視覚的刺戟——TVやスクリーン、果てはRPGなど含めた処の——の未だ自然の域を出ない時代に産まれた人々には、きっと、本当に詩人は死後の世界を巡って還って来たと思われたのではないだろうか。真摯に心眼見開き耳聳てれば、同じ民だ、同じものを観得ると信じられたに違いない。その信頼のもたらす恩恵は、読書に在っても無論絶大である。書物離れた雑務の時にさえ、それは励みとなって読み手を鍛えたことだろう。

又、「愛の強大」さから言うなら、訳者のそれも詩人の道と同じほどに苦難と祝福とに溢れている。
全てを異にする上、天文数学の頭を幼少からすっかり放擲したきりの私には、殊にこの「天国篇」は、彼の大業なくしては単なる記号の羅列に過ぎなかったろう。辛くも一個の人として何かしらを感じ得たのは、偏に訳者の努力と、また其れに報いんとする私の敬意の賜物である。
趣も信念も別の姿で往く訳本が複数存在する中で、先ず何れを採ろうか迷う向きには、私がそうで在ったように、気負いも気取りも棄て、此の平明にして繊細な配慮ゆき届いた、平川訳から繙くことを薦める。その上で未だ詩篇としての味わいに飢えるなら、他と共に掘り下げるのが佳いと想われる。

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2012年03月19日

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三昼夜を過ごした煉獄の山をあとにして、ダンテはペアトリーチェとともに天上へと上昇をはじめる。光明を放つ魂たちに歓迎されながら至高天に向けて天国を昇りつづけ、旅の終わりにダンテはついに神を見る。「神聖喜劇」の名を冠された、世界文学史に屹立する壮大な物語の完結篇、第三部天国篇。巻末に「詩篇」を収録。

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2011年10月28日

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>他者の暴力によってなぜ善い願いの功徳が減じるかについて
>絶対的意志と相対的意志の違い →コスタンツァの例で説明
>破られた誓願は他の善行によって補いがつくか否か

天国篇、説教臭くなってつまらなかったらどーしよ…て思ってたけどこういう質疑応答が続くのは興味ある~!!ので楽しく読んでる
生きることは戦いだなぁと思う時があるのですが、なるほどヨブ記にも「人の世にあるは戦闘(たたかひ)にあるがごとくならずや」とあるのですね…しみじみ…

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2019年03月30日

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"神曲の最終巻。天国編。キリスト教の世界観。
地獄、煉獄、天国の三冊の中では、地獄編が一番おもしろいと感じた。
世界の三大宗教の一つキリスト教、聖書を読み学ぶことで、西洋の思想のベースを理解したいと思った。
もちろん、コーランやスッタニパータも読まないと世界を俯瞰できないかな。"

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2018年10月19日

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ネタバレ

目次より
・天国篇
・詩篇

天国篇はほぼ宗教論に終始していて、今までの映像的な描写は格段に少なくなり(挿絵も激減)、小難しいやり取りが続きます。
“君たちはおそらく
私を見失い、途方に暮れるにちがいない”

さて、地獄篇からの懸案事項、「キリスト以前に死んだ善人が地獄にいることの是非について」にとうとう回答が!

“その男の考えること、為す事はすべて
人間理性の及ぶかぎりでは優れている。
その生涯を通じ言説にも言動にも罪を犯したことがない。
その男が洗礼を受けず信仰もなくて死んだとする。
その彼を地獄に堕とすような正義はどこにあるのだ?
彼に信仰がないとしてもそのどこに罪があるのだ?”

“天の王国は熱烈な愛と熾烈な望みによって
掟が破られることを許すことがある。
それらが神意にうち勝つのだ。
人が人に勝つのと同然ではない。
神意が負けることを望むから勝つのだ。”
問いに対する答えがこれ。
熱烈な望みがあれば、掟をまげて天国に受け入れることもある。
ただし、それは人が神に勝ったというわけではなく、あくまでも神が受けいれようと思ったからだ、と。
つまり神の自在定規ってこと。

“そしておまえら現世の人間よ、判断はけっして迂闊に
下さぬがよい。神を見る我々の目にも
神に選ばれるべき人々の姿がみな映るわけではないのだ。”
そして神の決定に口を出すな、と。

アダムとイブが楽園を追われたのも、禁じられたリンゴを食べたからではなく、リンゴを食べることによって神と同等の存在になろうとした高慢のためにだというのには納得。
なるほどね。

地獄が非常に感覚に訴えるものであったのに対して、天国篇は論理的。
“人は感性で知覚されたものから
はじめて知性に適するものを学び取るからです。”

宗教って感覚的なものから始まるけれど、最終的には論理に向かう。
それはつまり、人間はそういうものだからだ。

…ということしかわからんかったわ、結局。
そして、天国で、一糸乱れぬポーズでうじゃうじゃといる天使がとても気持ち悪い。居心地が悪いと思う私は、とても罰当たりです。

自分らしさ=業ってことなのかな。
自分らしさ、人間らしさを捨てないと天国に行けないのであれば、人として生まれた意味は何なのだろう?
やっぱりもっと勉強しないとダメですか?
ちょっとしんどいな。

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2017年02月12日

Posted by ブクログ

天国篇では当時のスコラ哲学の神学議論を前提としたダンテの宗教観が最も直接的に表れている分、やはり読み進めるのに苦労するのは否めない。それにしても全篇に渡って挿入されているギュスターヴ・ドレの荘厳な挿絵と平川祐弘による読みやすくリズム感のある素晴らしい日本語訳、そして各歌ごとの丁寧な前文と詳細な解説がなければ、この全3篇100歌14233行からなる叙事詩を読み切ることはとても叶わなかっただろう。3の数字を基底とする、幾何学的に構築されて無限へと向かおうとするこの世界観にボルヘスが夢中になるのも無理はない。

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2013年03月19日

Posted by ブクログ

地獄篇・煉獄篇を経て終局たる天国篇(Paradiso)へ。

ダンテは遂に、至高天にて、"天上の薔薇"とも呼ばれる光の中心に「いっさいの望みの究極(はて)」である神を観るに到る。

「ただそれだけが真実な、崇高な光輝の/光線の奥へ、さらに深く、はいっていった」 「その光の深みには/宇宙に散らばったもろもろのものが/愛によって一巻の書にまとめられているのが見えた」(以上、第三十三歌)

全三篇、粘着的なまでに体系的な、宗教という強迫観念の大伽藍を見せつけられた。



ダンテ自身が冒頭で述べているように、天国篇は地獄篇・煉獄篇に比して難解であり退屈でもある。神的宇宙と云う肉体的現実界とは隔絶された観念体系を、神学的な抽象語で以て綴らねばならぬのだから、尤もではある。それに、善を語るには小理屈を練らねばならぬが、悪にはそれ自体の生々しさがありそれだけでも興味を惹くものだ。

神の絶対性を中心に据えてしまえば、そこから無尽蔵のレトリック・贅言冗語を導出し、如何ようにも言葉を踊らせることができる。「神意」だの「至上善」だの「愛の光」だのと定義不明瞭・定義不可能な語を持ち出されては、叙述や対話の論理的連関は曖昧模糊となること不可避だが、その曖昧さを伴ったまま、神学体系は至高の天上へ向けて何処までも恣意的に語り上げられていく――その「厳格さ」だけは決して放棄されることなく。神の裁きや地獄の罰の如何もこのように恣意的に導出されてしまうなら、これはもはや専制だ。こうして宗教的権威は世俗に於いて権力をもつことになる。権力者と云うのは、言葉を支配し同時に言葉を支配の手段にするものだが、宗教的権力こそが人類史に現れた最初の"言葉の創造=支配者"ではないか。

なお、"永遠の女性"であったはずのベアトリーチェは、最後までキリスト教の教説をひたすら復唱するだけの「自動人形」(正宗白鳥)に過ぎない。



第二十二歌の訳註で紹介されている、クローチェ(1866-1952)によるダンテ評が興味深い。

「世界からの逃避、神への絶対的帰依、禁欲主義、などは、ダンテの精神にとって異質なものであったから、『天国篇』の中にこうしたものは見あたらない。ダンテは世界から逃避しようとしない。彼は世界に教訓を垂れ、世界を矯正し、世界を改革しようとして、天上の至福に言及する。・・・。天と地という二つの世界が公然たる対照裡に示された時でさえ、神的なるものが人間的なるものにうち克ち、それを徹底的に放逐してしまった、とはどう見てもいえないのである」(『ダンテの詩』)

確かにダンテは至高天に於いてもなお俗世の政治家や聖職者をしつこく非難し続けており、天上に在りながらも現世に於ける政治的事業のことが心から離れているようには思えない。

宗教に神秘的な忘我の契機を求める者は、アリストテレス-トマス・アクィナス的な目的論的世界に於いてもいたであろう。しかし、ヴェーバーの『中間考察』にあるように、断片化された自我がその全体性を回復しようとして非合理的な対象との合一を求めようとするのは、資本主義と官僚制に覆われニヒリズムに到るもなお留まることのない機械論的世界、則ち近代の人間に特有の傾向なのだろう。



最後に警句を一つ。

「見当のつかぬ事柄については早急に是非を論ぜず、/疲れた人のように歩みを遅らせるのがいいだろう。/・・・/細かい判断もなしに肯定否定を行う者は/愚か者の中でも下の下たる者だ」(第十三歌)

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2012年08月21日

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