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いまや日本人は自分たちを「無宗教」と規定して、なんら怪しむことがない。しかし、本当に無宗教なのだろうか? 日本人には神仏とともに生きた長い伝統がある。それなのになぜ「無宗教」を標榜し、特定宗派を怖れるのか? 「……私は、宗教とは、人間がその有限性に目覚めたときに活動を開始する、人間にとって最も基本的な営みだと理解している……」。著者は民族の心性の歴史にその由来を尋ね、また近代化の過程にその理由を探る。そして、現代の日本人に改めて宗教の意味を問いかける。
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Posted by ブクログ
とても勉強になり、とても面白かったです。 日本においての宗教や信仰について、私は知識不足であり、間違った考えをしていたように思います。 現日本で言う「伝統」は、意外と歴史が浅いのかも、という疑問も私の中では生まれたりもしました。
卒業研究に向けてということで読みました。 さまざまな事例をもとにした考察がどれも興味深く、論文執筆における「視点」づくりに役立ちました。 特に、創唱宗教と自然宗教の区別は明快で、卒業研究でも大いに参照させていただきました。 修士論文を書く上でまた読む機会があるかもしれません。
日本人の無宗教の由来を徹底的に掘り下げている。その中で、社会に無宗教(自然宗教)がもたらす安定性と危険性をえぐり出した力作である。最終章の沖縄の離島の信仰と真宗の信仰の事例は心打たれる「回心」論である。 ・自然宗教は創唱宗教のように特別の教義や儀礼、布教師や宣教師はもたないが、年中行事という有力な...続きを読む教化手段を持っているといえるのであり、人々もそうした年中行事をくり返すことによって生活にアクセントをつけ、いつのまにか心の平安を手にすることができるのである。 ・創唱宗教への恐怖心とは、厳密に言えば、それらの宗教の教えが怖いのではなく、その前提である人生を疑ったり否定せざるを得ない営みへのおそれといえるのではないか。あるいは、おぼろげに見えている人生の深淵を、あらためて正面からのぞき込まねばならないことへのおそれといいかえてもよい。 ・法事は、意外にも国際的な由来を持っている。インド、中国、日本の融合。 ・生前の在り方は不問に付して、死者を阿弥陀仏の慈悲にゆだねるという、生きている人間のいわばおもいやりが、「葬式仏教」を支えることになった。 ・人々は、子孫に相続させる財産があっても、またなくても、それとは無関係に家の永続を願い、家族が死ぬと、仏教式の葬送と法事をくり返して、死者が成仏して、ご先祖になり、永遠に家のメンバーであり続けることを期待した。 ・(江戸初期頃から)、死者を「ホトケ」という風習が成立してくる。 ・(幕末期)、結論的に言えば、宗教とは「個人の私事」だという考え方であり、こうした考え方は、今日では、日本人の間に広く行きわたっている宗教観の原型になっている。 ・そのために天皇は歴史上一度として参拝したこともない伊勢神宮に、はじめて参拝するようになり、宮中からは一切の仏教色が閉め出されて、新たに神々が招かれ、天皇がその祭祀にいそしむようになる。 ・真宗の島地黙雷らがとった考え方は、神道は祖先を崇敬する道であり、それは宗教とはいえないという論法であった。 ・大逆事件で逮捕されたものの中に、明白な仏教徒が4名もいた。 ・無宗教の傾向、創唱宗教に共感を示さないとか、とりたてて宗教を論じることには気が進まないといった宗教嫌いは、日本文化がはぐくんできた、この「平凡」志向と密接な関係がある。 ・部落という集団を守るために、物資的平等を期する一方、感情の面でも、ムラ人それぞれの気持ちが極端に偏ることがないように工夫する。 ・近世に入って、祭りが祭礼となった結果、賽銭箱が神社に登場した。個人の祈願の始まり。神を試みる。 ・創唱宗教は日常生活の矛盾、不条理から生まれており、日常生活の単純な肯定を目的としていない。創唱宗教日常生活と鋭い緊張関係を持つ面がある。その緊張関係が見失われるとすれば、それは宗教心の後退である。 ・創唱宗教を選び取るということは、回心を経験すること。 ・ジェームズの分類からいえば、回心を必要しないひとというのは、「健全な心」の持ち主。回心を必要とするのは、「病める心」の持ち主(人生の本質は不安や懐疑や悪にあると考える)。
20年前の本であり、また本という特性上、筆者の思想が多分に含まれているがそれでも日本の宗教の歴史を知る上では読む価値のある一冊。 日本人の間で宗教が浸透しにくい理由の根本に振れることができる。
日本人はなぜ無宗教なのか タイトルと著者の阿満利麿先生に仏教を教わったことのある自分としては、非常に内容が頭に入ってくる良書だと思いました。 宗教を「自然宗教」と「創唱宗教」の二つに分けて考えることから始まり、「無宗教」というのはその二つの間に属するような、折衷案の言葉である。 ムラ単位で存在してい...続きを読むた排他的な自然宗教が仏教の広まりや、生活水準の向上などで、他のムラとのつながりが増えたり、現世を享楽的に生きていこうとする考えと結びついたりしながら、自然宗教が世俗化していった。 自然宗教の世俗化とは、一例をあげるならば「葬式仏教」のようなものである。しかし仏教は本来、死者に対して葬儀を行い、お墓を立てるものではない。 そうした葬儀の儀礼やお墓を立てることは日本における自然宗教の宗教的実践だったのだ。 この「葬式仏教」の例だけでも、私たちが非常に無自覚に自然宗教の行為を行ってきたことがうかがえる。一方、本書に出てきた宮古島の事例が象徴しているように、自然宗教でありながらお墓を立てないものもあるという。この二つの例は日本の自然宗教の豊かさを表しているともいえる。 では、創唱宗教は何のためにあるのだろうか? 創唱宗教の教義というのは私たちに人生を奥底まで見つめよと迫るものだ。これに日本人は抵抗を感じる。「喜びも苦しみも悲しみもほどほどに生きている。人生をかきまわされたくない」というように。無宗教は自己防衛の表現だという。 ここで私は、3.11のような人災も含めた圧倒的に理不尽な自然災害を思い出した。東北にちょうどそのタイミングで移り住んだ人たちやもともと住んでいた人たち、そこで生まれ育った人たちがその災害に直面するという確率や 因果関係のようなものを私たち人間は考えてしまうのではないだろうか。 つまり「なぜ、こんな目に合わなければならなかったのか」という思いである。 この「なぜ」に対して、仮に科学的に説明ができたとしても被害をこうむった人たちにとって、はたして納得できるものなのだろうか。 何かしらの立脚点や支えとなる宗教観が「無宗教」では、貧弱なのではないだろうかと思った。 「無宗教」であることは、現実のそうした理不尽さや人間存在の根源への不安を考えなくても済む、「なんとかなる」ようなところがある。 しかし、現実の社会問題や想定される大規模な地震を考えざるを得ないときに「無宗教」という宗教観はあまりにも貧弱ではないだろうか。 そんなことを考えさせてくれる本でした。
彼の指摘している問題は、人々の宗教性の無自覚さに尽きる。どうせなら就活で自己分析をする時、こういう己の宗教性≒思考性を見つめ直すのも良いのかも。
現代の日本人はそもそも「宗教」というものへの理解が浅い。 江戸時代までは日本人の多くは「無宗教」ではなかった。 かつての日本人が信仰していた「宗教」とは。そして「無宗教」とはどういうことか。明治以後の何が日本人を「無宗教」にさせたのか(科学技術の発展ではない)
歴史的経緯を踏まえて、日本人が「無宗教」を自称するに至った理由を探る本。 無宗教というのは、元々はキリスト教の伝播を阻止しつつ、近代国家を作り上げるのに考え出された論法だったということです。 前半部分は非常に優れていると思いますし、一読の価値がある本です。
中学か高校んときに読んでおきたかった一冊。 なぜ自分が日本人として、この無宗教観をもっているのかを教えてくれる本。
日本人は無宗教だとはよく聞くが、それはよく考えてみればありえない言説だということを、分かりやすく説明している。 宗教学では、宗教が「創唱宗教」と「自然宗教」に分かれるのかということにも議論があるらしいが、創唱宗教と自然宗教の違いについてイメージを掴むにはもってこいな1冊だと思った。
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