■■合コンの必勝本、「出逢うための法則」は語義矛盾■サービス化された出逢い(結婚情報サービス、ネット上の出逢い)は出逢う効率は良いが、リスクが高い。前者は金銭的リスク、後者は騙されるリスクや犯罪に巻き込まれるリスク。■何より、「恋愛のスリル」が無い。互いのことを少しずつ知り合ったり、相手の気持ちを探
...続きを読むってみたり、というゲームとしての楽しみが。
■■合コンの社会的な期待(非婚化などに対する)、その背景には「職縁」から「友縁」■合コンの出逢いに介入する階層ファクター。合コンはただ今を楽しむためだけに行くのではなく、その果てには結婚がある。経済力や生活設計を占う指標として階層は重視される■合コンは同階層婚を生み出す装置。結婚の際、あまりにも住む世界がかけ離れても困るので(注、要検討)
■■合コンの二面性―「協働」と「競争」、そのジレンマ■カジュアルでオープン、参加者全員が参加して楽しめる「飲み会」を皆で「協働」して装う■一方で、「出逢う」ための同姓間の「競争」■この二つが同時進行するとき、合コンにおける魅力や序列は複雑化する■恋人や配偶者の選定を前提にしている限り、「協働」要素(座の中心になって会を盛り上げる、気配りが出来る、印象が良いなど)を満たしているだけでは不十分。「競争」要素(年収や職業、家族構成などの社会的望ましさ)も重要となる■このダブルスタンダードは、かつての「男は仕事、女は家庭」のシングルスタンダードの時代と比べて、「お金はないけど気が利く」男性や「家庭に入るつもりの無いきれいな」女性にもチャンスが与えられることを意味するのか。それとも「お金持ちで話の面白い」男性と「家庭的で美人な」女性しか勝てなくなるのか。■現実的に手堅く同階層婚を狙うには、ジェンダー間の格差が大きすぎる合コンでは効率が悪い■【私見】合コンする人々のターゲットを著者は「同階層婚」志望者と想定しているが、実際、かつてより「上昇婚」より「同階層婚」を望む人が増えているのか。また「ジェンダー間の格差」がどれほどのときに「同階層」と著者が呼んでいるのかが曖昧■誰かが目立ち、他が見劣るような「ばらつき」は、不安定要素として事前に排除される。結果として同性間や相手グループとの均整を取ろうとする。例)同大学出身者、同会社の同僚同士という面子■またこれらが、意図的・非意図的なフィルタリングとして作用する■「自然な出逢い」という演出。がっついてはいけない、あたりさわりのなさ、階層性の隠蔽というルール。■このルールに精通し習熟した男女が合コンではもてる■「飲み会」を偽装するレトリック、その背景にあるのは合コンの社会的なネガティブイメージ■合コンのサクセス・ストーリーの多くには、「言い訳」が。例)気乗りしない合コンに言ってみたら、人数あわせで言ってみたら、たまたま…■「盛り上げ役」が割りを食うのは、「協働」と「競争」という二つの目的のうち、前者だけを排他的に遂行した結果と言える。■過剰な技法(無理に盛り上げようとする、テクニックで会話する)は、「自然な出逢い」の演出の妨げとして、厳しい批判に晒される■合コンにおける相手との会話には二つのメッセージがある。一つは「あなたに好意がある」、もう一つは「私は合コンの場において適切に振舞える(相手に対する個人の好み関係なく)」。マナーとしての連絡先交換。ゆえに、相手の真意の見極めは容易ではない。■また、「楽しい飲み会」という装いのために、既婚者や恋人持ちでも参加できてしまう■序列の隠蔽のために、エリート会社員の中にフリーター、弁護士や医者の中に大学院生を混ぜることで、「有名企業合コン」「弁護士合コン」「医者合コン」ではないように偽装する。■そうした「スケープゴート」の社会的階層が逆転することはない。平等のように見える合コンの不平等性。■現実を見ても、それでも非現実的なサクセス・ストーリーを追いかけてしまう「幻想」。疲れた私たちを、さらに駆り立てる力。
■■ジェンダー・パフォーマンス。合コンにおいて、男女は共に異性に受けの良い「キャラ」を「演技」する(時にはそのジェンダー・ロールを逸脱という形でアピールしながら)。■合コンにおける競争とは、ジェンダー・パフォーマンスの競演に他ならない。時には集団的に達成される。■合コンでは、合コンにおいて望ましい「男らしさ」や「女らしさ」が忠実に演じられ(参加者はジェンダー・ロールに拘束され)、しかしその虚構性ゆえにパロディ化される■合コンでは気配りキャラだった人が空いたグラスに気づいてくれない、などのギャップ■パフォーマンスの発展と共に形骸化する既存のプロット。一時的で着脱可能な「キャラ」を使い分ける参加者は、ジェンダーに拘束されながらもパフォーマンスの手段として「軽く」利用している。■参加してる男女が「演じて」いるのに、それをお互い知っているのに、どうやって恋に落ちるのか?という困難■合コン後に露呈する「キャラ」とのギャップ。合コンではもてるけどその後が、という人は、おそらくパフォーマンスが上手すぎて失敗している。■またしても二つの基準―「合コン限定の」魅力の一般的魅力■ジェンダー・パフォーマンス力と、それではどうすることも出来ない「容姿」や「職業」、と対応。■両方勘定した結果、最終的にはみんなダメ、ということになり易い。■合コンの困難。複数の基準が錯綜する中で相手を見定め、競争のために日常とは分断された虚構の世界で「キャラ」を演じる。
■■合コンのホモ・ソーシャルな楽しみ―同性同士の二次会、品評会や反省会■自己目的化する合コン、純粋な遊びに興じる余り、長期的恋愛関係や結婚の達成という本来の目的は遠のく
■■一定年齢に達すると、男女は合コンから「抜ける」ことを望む。■「抜ける」ための二つの方策、運命の出逢いを諦めるか、更に追求するか。■合コンから見る非婚化■合コンを繰り返すが結婚できない人々は、従来指摘されたような「シンデレラ願望女」や「コミュニケーション不全男」とは言えない。■原因は、運命的な出逢いに対する執着ではないか。「理想の相手」ではなく、「運命の出逢い」を執拗に求める男女が、合コンから抜けずに留まる。出逢えればいい、結婚できればいい、ではなく、そこに「物語」が欲しい■「運命の物語」を求める人々にとって、「理想の相手」は曖昧なものでしかない。条件をリストアップして項目をチェックするやり方では見つからない。■美しい物語を作り出せるかどうか。「年齢差」や「外国人」は格好の要素かもしれない。勝ち組のストーリーが美しいのは、そこにある要素より無い要素。例えば、彼が一流企業に勤めていたことを最初は知らなかった、ことになっていたり。■非婚というスティグマ、一定年齢に達したら合コンから「抜ける」べきであり、それが無理なら「降りる」べきであるという、一般他者の声。単に親友や親が、ではなく世間や社会といった高次の力が発する要請。■合コンはかつての村祭りと同様、限定的な自由が許された場として機能している。若者が羽目を外して「ハレ(非日常)」を楽しみ、その後に大人しく「ケ(日常)」に帰っていく。■合コンを経て、「ちゃんとした相手」を見つけて「落ち着く」ことが求められる。つまり合コンは、男性を夫や父に、女性を妻や母に、家庭化するための装置と言える。■この意味で合コンはロマンティック・ラブイデオロギーと直結する。■「情熱恋愛」という、時に狂乱を呼び反秩序的となる“情熱”を管理するために、権力は結婚に至る「良い恋愛」とそうでない「悪い恋愛」の区分がなされ、ロマンティックな恋愛=排他的な性関係と生殖活動、家庭の運営を伴う永続的な結合と定義づけた。「結婚=幸福」という図式。■加藤秀一『恋愛結婚は何をもたらしたか―性道徳と優生思想の百年間』(2004年、ちくま新書)■合コンを「抜けた」人、及び運命の物語を諦めて合コンを「降りた」人は、制度から守ってもらえる。■運命の物語の更なる追求のために合コンを「降りた」人々は、制度との関係で位置づけが微妙。ロマンティック・ラブを信望していながら、それゆえにその関係に移行できないアンビバレントな存在。■合コンに留まるのは、「生存」のために勝つしかない層ではなく、勝たなくても良い層。二つの層の差は経済力(生活力?)に起因。■しかし留まる贅沢を享受できるはずのこの層は、むしろ焦っている。■それは、非婚のスティグマから逃れられない現実を自覚しているからである。ロマンティック・ラブから外れた者を、この社会は守ってくれないことを。■つまり、「勝たなくていい」層は「いつかは必ず勝たなくてはいけない」と感じており、ひとりは嫌だから結婚する、あるいは結婚せずにひとりで生きるというどちらかの極に振り切ることが出来ない。このアンビバレントを、「運命」が解消してくれることをただ願うのみである。■結婚における女性の「上昇」は、女性の社会的進出や価値の多様化により、以前のように必ずしも経済的上昇を意味しなくなった。しかし経済的要素(「玉の輿」)以外の価値の模索。■しかしそれでは経済的要素が勘定されなくなったというとそうではなく、むしろそれだけでは不十分と思われる。■「上昇」から「運命」へ。結婚の「条件」だけでなく結婚の「意味」も。■一昔前の合同ハイキング…合コンは形を変えて昔かあり続けていた。■IT化する出逢い―合コンセッティングサービス。■【引用】「合コン時代の私たちは、『運命の物語』を阻む要素を排斥しつくそうとしたしかし今、本当に出逢うために必要なのは、恋愛や結婚のなまなましい現実に対する耐性だろう。」
■■安部真大、世代論との関連■合コンの出逢いの「唯一性」に期待する。「唯一性」に拘るのは団塊ジュニアによく見られる特徴。■「やりたいこと」志向と「公務員」志向は根を同じくする。流動性の高まる社会において、流動しない確固たるものを求める。その対象が、前者は「自分」、後者は「社会」。■安野モヨコ『ハッピー・マニア』の主人公と紫門ふみ『同・級・生』(小学館)の主人公は、それぞれ前者と後者に対応する。
■■【感想】非婚化の原因に、未婚者の「運命の物語」に対する執着を指摘したのは鋭い。自身の卒論で結婚相手の条件、結婚に対する期待値の高まりを日本社会の経済的変化から説明したが、条件云々の問題では割り切れない後味の悪さが残った。それは、人々の理屈を超えた「結婚(あるいは家族を持つ)=幸せ」という幻想の疑いない妄信である。この残尿感を解消する手がかりを本書は示してくれた。ロマンティック・ラブイデオロギーから説明するという視点である。これは、「結婚」を分析するものとして当然に検討すべき問題であったかもしれないが、無知ゆえに卒論では検討できなかった問題である。今後、上に上げた加藤秀一の著作を端緒に、検討してみたいと思う。■【私見】問題に対する著者の態度を明らかにしようとしている点がとても印象的で、構成や論旨も明確、社会学者の本としてとても好感を持ちました。文章表現もクールでシンプル、読んでいて子気味良いものでした。■「結婚」を意識した社会人の合コンと、純粋な恋人探しの側面が強い学生間の合コンの違い、また学生合コンでも大学生と高校生ではかなり異なるように思われる。その点についても考察してみたい。[0305]