本書はマックス・ウェーバーの『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』を解読(解説ではない)しようという試み。第1章から第2章まではその前提を確認する作業となっている。
著者は第2章の終わりで「資本主義の精神」の狭義の定義と広義の定義をおこない、「私たちは「広義の資本主義の精神(「勤労ー反消費
...続きを読む」の生活スタイルで「子孫の幸福」「自身の繁栄」「社会の繁栄」を追求するもの。対して狭義のそれは目指すところが「倫理的義務の遂行」となる)を含めて、さまざまな立場を検討してみる価値があるだろう」(p.101)とし、そして、第3章以下ではルター派、禁欲的プロテスタンティズムの各派における「倫理」の分析、理念型を剔出していく。この辺が「解読」と銘打つ本書の真骨頂。
そして、第6章では禁欲的プロテスタンティズムの「倫理」と「天職倫理」の『プロ倫』上の定義の断絶を確認しつつ、「天職倫理」と「資本主義の精神」がほぼ同じ倫理内容をもつと論じている。いささかややこしいのだが、その辺は6章の図5と図6で綺麗に提示されている。
第7章ではウェーバーの『プロ倫』のメッセージから現代の我々が読み解くべきところのものが、著者なりの解釈も交えて示される。著者は、『プロ倫』が新保守主義的な発想からとらえた新たなリベラリズムの方向性を包含したものとして読み解くべきだと考えており、それはそれとしてわかるのだが、それが本当に禁欲的プロテスタンティズムのみから生まれてくれるものなのか。思想や倫理の歴史の世界史的な探求がまさに必要とされているのではないか、と感じた。
ウェーバーの宗教社会学研究という壮大かつ遠大な構想の限界と可能性を考えてみなくてはならないだろう。