感情タグBEST3
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私は怒りを感じる。〈車や大砲や飛行機やコカコーラがないからといって、彼らを滅ぼす権利があるとでもいうのだろうか?〉宣教師たけでなく民俗学者も悪だ。彼らと共に生活し、ジガバチが芋虫に産みつけた卵から孵る幼虫のように彼らの内部から破壊するのだ。マチゲンガ族はロマのように放浪する民。しなやかな強靱さをもつ。語り部は物語る、世界の生成、月と太陽、善き神と悪魔、死者の国、タブーなどを。顔に傷のあるカシリの偽りの光ではなくタスリンチに息を吹き込まれた真の光だった。密林から呼ぶ声がする。マ・ス・カ・リ・タ…
〈聖書、二言語の学校、福音の指導者、私有財産、金銭の価値、商業、洋服…それらがすべて向上に役立つと言えるだろうか?自由で独立的な《未開人》から西欧化の戯画《ゾンビ》への道を進みはじめてしまったのではないか?〉これはマチゲンガ族だけの問題ではなく、北アフリカを除くアフリカやオーストラリア、オセアニア、東南アジアなどにも当てはまる。民族自決とはヨーロッパにだけ適用されるもの。ダブルスタンダードだ。なぜ彼ら自身に選ばせないのか。自分たちの経済システムに組み込み、収奪するためにほかならない。
生物多様化、進化論が正しいとするならば太古の昔から生命は常に進化してきた。ならばなぜ進化の頂点とされる人類に一元化されないのか。それは多様化により様々な環境に適応し、分科することにより絶滅することを防いでいるのではないかと思う。人類も居住範囲を拡大し、環境に適応して多様な文化を築いてきた。大航海時代より近代社会への転換をせまられるようになった。現代はさらに経済システムまでもグローバルスタンダードの名の元に一元化されようとしている。それは人類の滅びへの道ではないのか。
マチゲンガ族は決して怒るなと言う。〈《大切なことは、焦らず、起こるべきことが起こるにまかせることだよ》と彼は言った。《もし人間が苛々せずに、静かに生きたら、瞑想し、考える余裕ができる》そうすれば、人間は運命と出会うだろう。おそらく不満のない生活ができるだろう。だが、もし急いて苛立ったら、世界が乱れるだろう。〉これが彼らのしなやかな強靱さの秘密だ。西洋哲学や仏教などに勝るとも劣らない哲学ではないだろうか。
ストーリーと語り部の物語が対位法により交互に語られる様はバッハのトッカータやフーガのようだし、フィレンツェと密林もまた対応関係にある。『ドン・リゴベルトの手帖』はこの発展系かもしれない。さりげなく?カフカを織り込んであるのも見事。ダンテやマキャベリにも言及されそれぞれ照応関係にあるようだ。カルペンティエル『失われた足跡』と読み比べてもおもしろいかもしれない。『緑の家』とも関連があるようだ。
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「密林の語り部」(バルガス=リョサ)を読み終わりました。私は静かに目を閉じて密林に差し込む月の光を想い、密林に降る雨を想い、マスカリータを想い、そうして少しだけ悲しくなった。近代化という大きなうねりの中でしだいに失われていく神話や知恵について、痛みに似た喪失感を伴う静かな物語。
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ひとつの文化に魅せられ、回心してその内部へと踏み込み"語り部"となるサウルと、文化を外側から物語にしようと試みる筆者(?)の2人の物語が交互に折り重ねられている。
初め語り部の物語が始まった時、なれない情景や言葉に戸惑いつつも引き込まれている自分がいた。
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2012.7記。
「チボの狂宴」の著者バルガス・リョサ再読。ペルーの少数民族マチゲンガ族の「語り部」が伝える神話的記憶と、人類学者の考察やドキュメンタリー制作の描写が交互に描かれる。
「木が血を流した時代」と語り部が呼ぶ、白人の過酷なゴムプランテーション経営による人口の激減、乱開発から滅び行く民族を守ろうと努力する同じ白人の人類学者たち。定住し農耕することを教え、人口維持に貢献する学者たちは、しかし同時に境界なく森を行き来する民族の誇りと文化を破壊したのだろうか?こうした問題を考えさせられながら、めくるめく神話の数々にも圧倒される。
ところで、本作のハイライトである「大地の揺れ、怒りを鎮めるため突如姿を消す」マチゲンガの家族のシーンは、僕に村上春樹の「神の子どもたちはみな踊る」の冒頭部分を思い起こさせた。阪神淡路大震災の報道を一時もテレビの前を離れずに無言で見続けていた「妻」が、突然姿を消すところからこの小説は始まる。発想の源泉が偶々似ているのか、村上がリョサを読んでインスピレーションを受けたのか、とにかくいずれもとても印象的なシーンであった。
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語り部のことを小説にしたいと思う「私」と、(1・2・4・6・8章)
マチゲンガ族に飛び込んで語り手になる「私」。(3・5・7章)
頬に痣のあるサウル・スターラスが語り手に転身したことは謎でもなんでもない自明の筋だが、
語り手になろうと思った彼の内面が徐々に明らかになるのが凄い。
流浪のユダヤ人である(ペルーの白人社会の中ではマイノリティ)こと。
頬に痣のある畸形的な外見であること。
マチゲンガ族では畸形の嬰児を川に流すという風習。
どれだけの驚愕と怒りを自分自身の実感として受け止めなければならなかったことか。
自分のトーテムであるオウム、足が不完全に産まれた子を母オウムから奪い、肩に載せて旅をする、しかもかつての自分のあだ名「マスカリータ」(マ・ス・カ・リ・タ)を授けるなんて、感動なしには読めない。
もちろんマチゲンガの世界観(なんと悪魔の種類の多いこと! 神が身近であることよ!)にもくらくら。
むしろ上記した自己実現を重視する読み方は「小説の読み方」であって、
いくつもの制約や了解を内包しながらも語られる、異合文化の人が世界をどう認識しているのかという語りに恍惚と身を任せるべきなのかもしれない。
語り部によるカフカ「変身」や、タスリンチーエホバの息を吹き込まれた男(キリスト)の受難劇などの「語り直し」も興味深い。
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バルガス=リョサは最も好きな作家の一人だ。今まで読んできた彼の作品はどれも、近代的社会と前近代的な文化という二つの世界を対位法的に描くことで世界の可能性を暴き出しながら深い感動へと導いてくれる。密林の向こう側から紡がれる物語はかつて語る事が社会そのものであったという事実を私たちに突き付け、それをこちら側の世界から懸命に語ろうとすることでその可能性を乱反射させる。例えそれが解読困難な呪文の様なものであろうとも、遠い世界に手を伸ばそうとする事を決して諦めてはいけないと思わさせてくれる素晴らしい読後感であった。
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真に他者、異文化を理解することと、それと同化することの間に大きな隔たりがある。理解は対象を分析し自身のコードに合わせて再構築すること。同化は自身がそれまでに得た世界観を捨て、生まれ変わること。同化には完全な理解は必要ないのかもしれない。サウルはマチゲンガ族が不具の子供を殺す理由を理解できなかった。
サウルは西洋的な価値観は捨てたが物語は捨てなかった。カフカやユダヤ教、キリスト教の物語。サウルは密林の物語の中に自身の物語を自然に織り交ぜて同化した。これは宣教師や学者の理解とは違う。
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南米文学の「普通」に慣れるにはまだまだ読書量が足りません。。南米文学自体がもはや密林。歩き回ってぐるぐる迷っているような、濁流に豪快に流されるような。
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命題は 「宗教やイデオロギーを超える精神的糧、刺激、人生の理由づけ、責務は あるか」
率直な感想は 「面白かったが、それを伝えるのに 330ページ必要か?220ページまで テーマが 全くわからなかった」
時間、場所、ストーリーテラーが 章ごと 変わる。視点を変えられるのに 慣れてくると、語り部が 密林で 物語る章は 本の中に異空間を演出している 著者の意図が 見えてくる
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語り部の物語を何故真実ではないと言える?100年近く前、宇宙が膨張している証拠が見つけられていなければ、ビッグバンは真実ではなかった。
そういうことだよ。
……そういうことではないか。
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「緑の家」と比べて、ゆったりした印象に思えたが、通読するとやはり面白い。私小説的な著者の独白と、マチゲンガ族の語り部の独白となる章が交互に進行してゆくが、終章近くになってそれが重なってゆくところで、驚かせられる。日本では立松和平「ウンタマギルー」などが影響を受けていたのかもしれないが、どうだろう。
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現代は西欧的なモノの見方を根底に判断するのが当たり前のように受け入れているが、認識したモノに対する解釈の与えかたや考え方の体系は文化や文明に因って様々で、優劣をつけるべきでもないのだということを再認識させてくれる。
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相性なのか、
ぐんぐんと物語に引き込まれることはなかった。
「語り部」の役割を知りたくて読み始めた、
目的的な自分の態度も大きく作用しているのだろうけれど。
○
人間は、いきなり地上に落とされ、
そこで生存する方法を知らされるまもなく、
生きることを強制された、動物である。
どのような民族であれ、
あるひとつの生活を形成していった背景にはいくつもの失敗があり、
痛みがある。
ある民族の有す生活習慣とは、
そんな共同体が歴史的に積み上げてきた血であり、記憶であり
自然との共生を宿命づけられた人間が模索してきた
暫定的な生の解だと言える。
語り部とは、そのような共同体の記憶が培ってきた「生きる方法」の先鋭を知るもの、
つまり「智慧ある者」である。
西洋で言えば、「キリスト」にあたるのであろう。
現代の、例えば資本主義にひた走る中で、
「物語り」が果たすべき役割とは何であろうか。
そしてそれを担うべきは誰だろうか。
この世界には確かに宇宙が導いていくような「イマージュ」が存在する。
そのイマージュを実現させる過程として、
インターネットや資本主義の発達があったとするのならば、
人類史というものは全く間違った方向にはいっていない。
誰もしることのない「神の声」へと人類が近づいていくことは、
例えば一人の人間が禅的な境地へと着地することの困難を考えてみただけでも、非常に骨の折れる仕事なのだ。
○
自分の感情を抑えられないと、自然界に何か破局をもたらすのだ
しかし、これがあるべき姿だから、それを尊重しなければならない。森と調和して何百年も暮らしてこれたのは、そうしてきたからだ。彼らの信念を理解できないとか、ある種の習慣に良心の痛みを感じるからといって、彼らを滅ぼす権利はない
残酷さの別の側面。生き延びていくために払わなければならない代価
語り部は、現在の便りだけを持ってくるのではないという気がする。昔のことも話す。たぶん、共同体の記憶でもある。
彼は目に浮かんでくるものを話す。変わっている、脈絡なしに、現代詩みたいなものだよ
ある人にとってほんとうに大切なことは神秘に包まれていますよ
語り部が話すように話すことは、その文化のもっとも深奥のものを感じ、生きることであり、その底部にあるものを捉え、歴史と神話の神髄をきわめて、先祖からのタブーや言い伝えや、味覚や、恐怖の感覚を自分のものとすることだからだ
Posted by ブクログ
顔半分にアザのある大学の同級生がどうやら未開部族の「語り部」になったらしいことに「語り手」が気づき、その後、「語り手」と「語り部」の物語りが交互に展開されてゆく。自然と文明だけでなく、西洋と第三世界、ユダヤとイスラムの対立を描いていて、「語る」という行為の本源というよりはむしろ人間の同一性そのものを問題にしている気がする。欧米の60年代(政治の季節)を第三者的視点から捉え直し、フィード・バックした小説。
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好きなモチーフ満載なんだけど、思ったほどハマらなかった…。一瞬、盛り上がるポイントはあったんだけどな〜。やはり語り部の部分が最初、タスリンチって何?とかいろいろ考えちゃったらハテナだらけになってしまった。ま、そのハテナが徐々に気にならなくなっていくのが醍醐味でもあるんだが。
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何か物足りなさを感じた。
『緑の家』のような複雑に絡む物語と同じ手法を取っているのだけど、登場人物が少ないので平易に理解することができる。
しかしながら物足りなさも感じた。
そこまで面白い話ではなかったというか。
自分の読解不足かもしれないが、語り部がそこまで重要な人物であるのかがどうも掴み切れなかったので。
秘密の存在ならば他民族が語り部になりえるのだろうか、という疑問ばかりが残ってしまった。
青春小説として自分は読んだというのが正直なところ。
ジャンルは違えどもクラカワー『荒野へ』にも似た読後感があった。
青春・自我・文明の間で煩悶する青年像は優秀な人材にのみ許された特権だと思う。
ただそれも古臭い感は否めないのだけど。
またこの作品の場合、きっちりと現代文明を描写していることから、その対比としてのマジックリアリズムが鮮明になっており、そういった意味で非常に分かり易くなっている。
バルガス=リョサはこの作品に随分執心しているようだけど、そこまでのものかなと個人的には思ってしまった。
その辺を踏まえて読むとまた違った味わいが出るのかもしれない。