【感想・ネタバレ】「A」 マスコミが報道しなかったオウムの素顔のレビュー

\ レビュー投稿でポイントプレゼント / ※購入済みの作品が対象となります
レビューを書く

感情タグBEST3

Posted by ブクログ

オウム真理教のドキュメンタリー映画『A』の監督、森達也氏が作品上映までの道程を記した本書。ドキュメンタリー畑を歩んできた氏の文章はやはりドキュメンタリー的である。点の集合で絵柄が浮かび上がる点描画のように、遠目に見ると一つの像が現れるモザイクのように、本筋には無関係のような描写を書き込むことで、本筋の輪郭を浮き彫りにする。
オウム真理教にレッテルを貼らず、内部から見た外部を描くことで、オウム真理教の真実を描こうという試みは、ゆっくりと森氏に迷いをもたらす。それは、
①真実は一つではなく無数にある
②信じない者が信じる者に肉薄できない
③ドキュメンタリーに中立はありえない
という三重苦となり、難産の末に『A』を完成させる。『A』は社会の歪みを描いたドキュメンタリーであった。
本書のテーマを一言で言えば「無自覚の自覚」であろう。思考停止を自覚的に選んだ信徒と思考停止に無自覚な多くの人々。思考停止を自覚的に選んだ信徒は自覚的であるだけまだいい。無自覚に思考停止に陥った人は無自覚ゆえに、そして思考停止ゆえにそれに気づくことはない。そこには無自覚をどう自覚するかという難問が横たわっている。

0
2023年05月31日

Posted by ブクログ

オウムのドキュメンタリー映画「A」の撮影について、森監督自身が振り返っている本。

オウムサリン事件で、マスコミはろくな取材もせずに、あらかじめ用意されたストーリーに沿って、視聴者が望む形のレポートを量産する。

オウム内部では、外部世界と隔絶し、外のことを考えずに純粋培養的に生活をしている。
この外の世界と中の世界のはざまでもがいている荒木さんを取材することで、オウムの生活から外を見ることで新たな視点を得ようとする。

オウム、マスコミともに自らの主義主張で相手の立場での視点を失っている。その主義、ストーリーに乗れないものは排除される。

森監督の企画も、テレビ局の考える「企画」としてわかりやすく狙いを語る安易な制作に乗れないために、排除され、フリーでの撮影に追い込まれる。
マスコミの客観性とは本来何なのか、矛盾がたくさんある。

ドキュメンタリーとは、だれかが感じ取った事実なので、主観でしかありえない。その覚悟を持ったうえで、最初からストーリーを付けずに、ただオウムを取材する。

その中で「結局何もわからない」ということでしかない。

これだけの解明されていない謎、カオスに満ちた状況に対して、ただただ対峙するという作品を仕上げるということが、なかなかないことなのだなと改めて思う。

0
2021年09月25日

Posted by ブクログ

以前から気になっていたが、なかなか手を伸ばせずにいた。
それが、このタイミングで購入。
品川のくまざわ書店で、森達也関連の本が3冊もあったのだ。

読んでみて、もっと早く読めばよかったと思ったほど。

マスコミの機能不全を指摘したいがためではなく、
日本全体が陥ってしまった「思考停止」という言葉に気がつくために。

オウム真理教は、明らかに私達の社会から生まれたもので、
理解できないかもしれないが、そこで思考停止するのではなく、
そこから問いを立てることが、知性のするべきことなはずである。

それを怠ってきた日本社会の20年近くの欠落はあまりにも大きい。

1995年以前の日本社会とその言論がどのようなものであったか、当時高校生だった僕には知る由もない。
しかし、断言できるが、この年がターニングポイントだったのだ。

飛躍するが、だからこそ村上春樹は、オウムと阪神大震災の2つにこだわっているのだと思う。
(同じく、オウムを描いた作家として、村上を挙げないわけにはいかない)
その村上がバルセロナの文学祭で、原発について「ノーと言い続けるべきだった」と発言したと言う。
間違いなく、彼は原発や津波をテーマに作品を書くはずである
村上春樹だったら、どのような作品を書くのだろうか?

0
2020年04月03日

Posted by ブクログ

ネタバレ

ー彼らが今もオウムに留まり続ける理由、そのメカニズムは、オウムの内ではなく、オウムの外、すなわち僕らの社会の中にある。

ー真実は一つしかないと、いつから僕たちは思い込むようになったのだろう。

オウム事件関係の死刑執行があってから、村上春樹のアンダーグラウンドを読んで、被害者の言い分は理解できるけど、加害者の言い分になんかしっくりこないところがあった。そこで止まってた時間を動かしてくれた出会いには本当に感謝。オウム側にはオウム側の考えがあって、そこからみたら、私の考えの方が理解しがたいのかも。

森達也に共感できるのは、ただ、純粋に、自分が納得できるような真実が欲しいということ。マスコミが捏造したのでもない、信徒が尊師を信仰しながら言ったのでもない、でも、どちらも、事実で真実を含むことは重々承知で、その上で自分が納得できる根拠のある「真実」が欲しい。傲慢な知的欲求が止まらない。

オウム側から見たら、世間はなんて残酷か。オウムの被害なんてないと感じているから、そう言えるのかもしれない。知れば知るほど、あの時代にオウム側に歩み寄れた森達也ってすげーなって思う。そして、なんであれ、麻原の精神鑑定が行われなかったこと。世間の評価、常識、制度、なにもかも今とは違っていたんだなぁと思う。でも、もし、今同じことが起こったら???時代は変わりゆくけど、人は変わったように見えるけど、根本的にはきっと何も変わってない。同じことが繰り返されて、きっと、平和なんていつまでも訪れないのだ。こういう社会だから、いっそ清算してしまおうなんて思想も、厭世的な私は場合によっちゃ支持するのかもしれない。何か信じるものがないと、人は不安定なのだ。絶対的な神がいて、思考停止できるなら、そんなに楽なことはないでしょう。

ー世界はもっと豊かだし、人はもっと優しい

いろんな側面を見た作者がこう言ってくれるのは、せめてもの救い。考え続けたい。

0
2019年02月22日

Posted by ブクログ

今頃この本を読むのは周回遅れもいいところだろうが、読んでよかった本だ。最後のドイツの老婆のエピソードが記憶に残る。

0
2012年04月25日

Posted by ブクログ

ネタバレ

私たちの中に確かにあるオウムへの「得体の知れない恐ろしさ」。
当時のマスコミはオウムのカルト的側面のみを強調し、オウムを「麻原彰晃」とほぼ同義で扱っていた。
信者だって一人ひとり異なる人格をもっているはずなのに「オウム」と一括りにされて画一的にしか報道されない。著者はその報道に感じる欠落感を求めてドキュメンタリーを撮り始める。

広報の荒木をピンホールとして「オウムの中から見た外の社会」を照射しようと試みるが、結局オウムについては「何もわからないことがわかりました」。

非常に示唆に富んだ題材であり、また個人的にこういった「人を信じ込ませてしまう」ものに興味を持っているので、大変面白かった。オウムだって政府だってマスメディアだって、根源的には同じものが流れていると思う。そのことを、著者は撮影を通して自身の立ち位置に戸惑いながら描き出してくれた。

ベルリンの映画祭で、「本当にドキュメンタリーなのか(台本なしの、リアルな日本なのか)」という観客の問いに対しての答えの中に以下のくだりがあった。
「ほとんどの日本人に共通するメンタリティがあります。共同体に帰属することで、思考や他者に対しての想像力を停止してしまうことです。その危険さを僕は描いたつもりです。」

今の日本の現状に照らしてみると空恐ろしくなる。

0
2011年04月08日

Posted by ブクログ

これを見たのは、もう何年も前。映像も見たが、この日から世の中が変わって見えた気がします。僕の価値観にまで影響を及ぼした。

0
2011年03月03日

Posted by ブクログ

大学の外国文学のテーマが「『死』について」だったのだがその講義の中で森さんの作品に出会い、卒論にも色濃く反映されました。
ちょっぴりズレてる僕には、森さんの視点と重なる部分がかなりありました。

0
2010年04月10日

Posted by ブクログ

村上春樹の『アンダーグラウンド』を再読
→某雑誌の最新号で森達也のインタビュー記事を読む
→「そいえばこの人は『A』っていうオウムの映画撮っていたなぁ」
→某お気に入りの古本屋で本書の発見
というつながりで読んでみました。


自分はこの『A』という映画見ていないし、オウム事件の際のマスコミとかはまだそんなに気にするほどの年齢ではなかったので何とも言えないけ
ど、最近新聞を読んだり時々テレビを見る中で感じていた「マスコミに対する不信感」がこの本を読んで少し「理解できた」気がした。
そして、初めて村上春樹が『アンダーグラウンド』の「出口のない悪夢」で
述べていた怖さとかが「理解できた」気がした。
「分かる」というわけではないし、あくまで「気がする」だけだけれど…。


  「誰がそう言っているんですか?」「メディアがそう言ってます」
  「完全に客観的なドキュメンタリーなんて存在しない」
  「テレビを見ている人はそんな情報をほしがっちゃいないんだよ」
   ・・・…本を読んでいて線を引きたくなる箇所がいくつもあった。


作品のすごさとか、森達也という人のスタンスをこれだけで判断することは
できないけれど、今、この時期に読んでよかったと思える本でした。
時間が出来たら映画も見てみたい。

  
  
  

0
2009年11月01日

Posted by ブクログ

「思考停止」この本を読んでいる最中、この言葉が何度も頭をよぎった。
マスコミ関係者、テレビを見ていた視聴者、全てが思考停止していた中で渦中の団体の人間が一番考えていた、という皮肉。
その団体がやったことだけみれば、もう紛れもない極悪の団体だけど、事件の全容を見ると正しいのはどっち?という感じがする。
オウム事件だけじゃなくて、今の不祥事や偽装の報道にも、同じような思考停止の構造があるんだろう。

0
2009年10月04日

Posted by ブクログ

 DVD作品『A』の撮影日誌であります。DVDと補い合うようなカタチで楽しめる作品です。裏話や、映像では語られない森氏の心中を知ることが出来る。本だけ読んでも十分内容を理解できます。

0
2009年10月04日

Posted by ブクログ

この映画が実際に問題になるときにはよく知りませんでした。オウムに対しても特に何もないですが、オウムから社会を見るという視座は非常に考えさせられます。私もそのように常識とは違う逆の視点を持てるようにしたいです。

0
2009年10月04日

Posted by ブクログ

「完全客観的な事実なんて、ない。事実をうつすだけのドキュメンタリーなんて、存在しない。」というメッセージがひしひしと伝わってきた。ドキュメンタリーやマスコミの世界だけではなくて、すべての事がひとの視点というフィルターを通して屈曲しているのだなぁと、なんだか胸が詰まりそうになった。

でも、途中からは純粋な映画メイキングストーリーとして楽しむ要素もあり、ノンフィクションなのかと錯覚してしまうくらいな部分も。ドラマを見たかのような。

何が正しくて、なにが誤ってるのか、結局それは人次第で、その人のなかで出来上がっている事実が正しいということなのか。深い!

0
2016年07月10日

Posted by ブクログ

戦争が起きるのとまさに同じ仕組なのだと思う。
マスコミは~とか、一般市民は~などと偉そうに言うつもりもないけど、本当に人間は愚かだ。

0
2014年10月29日

Posted by ブクログ

A,A2とみて最後にAの文庫を読んだ。
ある意味で映画と補完関係にあって、非常に理解が進んだ。
結局オウムを見る事はその外側にあった我々社会を見ることになり、
報道によって起こされた社会現象の数々の本当のところを暴露する。

0
2012年02月19日

Posted by ブクログ

最後のベルリン映画祭でのエピソードに思わず涙してしまいました。
山手線車内にて。
オウムというものを通して森さんが描く日本は、特異な環境なのでしょうか。
少なくとも、この著書を読み終わり感じたことは、そこにいた人々も「普通の」日本人だったのではないかとの思いです。
オウムの教団に属して、地下鉄にサリンを蒔いたとされる人々は死刑に処されるのは時間の問題かもしれません。

決して、日本という社会がその事件が起こった背景に深く掘りこまないままに。

それでよいのか、森達也監督の映画を見て、今一度考えたいと思います。

0
2011年11月29日

Posted by ブクログ

★分かりの良い物語に回収させない★映像も含めずっと気にはなっていたが、ようやく本を読む。麻原が捕まった後に荒木・広報副部長を主役に据えた取材とは知らなかった。その前からずっとオウムを追っていたからこそ、これだけ評価されたのだと思い込んでいた。人が「もう終わった」と思ったあとからでも、成果を上げる余地はあることを改めて知った。しかし本の趣旨が撮影記録である以上、先に映像を見るべきだったか。「A2」「A3」も手元に準備したが、映像の後に回そう。
 完全なオウムバッシングの中で取材内容がテレビで放送される可能性がなくなり、大手メディアの限界という別の側面が作品に加わった。結果としてそれでも(費用の負担を乗り越えてでも)取材を貫いた強さが、森達也の名を高めたのだと分かった。しかしオウムとは何だったのか、現在にどうつながるのか、16年たっても全く分からないのが余計に怖くもある。
 結論を出さない、という意味で「中途半端」な森の態度。みな本来は理解も共感もできるが、社会の流れのなかでそうした立場を貫き通せない。その凄さをどう説明するか、宮台真司の解説は社会学者として分かりやすかった。「体験」と、それを日常生活を支える意味論に回収する「体験加工」を森は分離する。体験加工は無意識になされ、分かりのよい物語としてしまうものだが、思考停止ではなくあえてそこに一から歩とどまる難しさを森は取り続ける。フジテレビでかつて放送された「職業欄はエスパー」をyoutubeで見たときも、同じ思いが流れているのがよく分かった。あえて一歩止まって考える、その重要性を認識した。
 しびれた表現をひとつ。オウム幹部が不当逮捕された際の映像を、その証拠として頼まれてオウム側の弁護士に渡したときのこと。ドキュメンタリーとしては通常の一線を越えている。「皆が何らかの形で一線を超えている。ただ一人僕だけが、超えたのかどうか感触に自信がなく、そもそも何を超えればよいのか未だに明確に掴めずに、相変わらず湿っぽい溜息をつくばかりだ」。なぜだか、朝吹真理子の「流跡」に出てきた表現(正確は忘れたが、ある一線を超えたのは分かるが何から変わったかが分からない、といった内容)を思い出した。

0
2011年06月12日

Posted by ブクログ

地下鉄サリンから15年以上がたったこと、麻原氏に死刑判決が確定したことなどに関して、感慨深いです。この書のように、事件現場の息吹をそのまま感じさせる文章は貴重です。オーム真理教について、冷静に考えることができるためには、時間が必要でした。オームが言っていた「解脱」ということは、言葉を変えてほとんどの宗教団体が求めていたものと同じだと感じています。犯罪に向かったことは、たぶん麻原の資質によることが大きかったでしょうが、彼の宗教的な考えと方法を含めたきちんとした考察を求めたいと思います。この本は、ドキュメンタリーの手法の教科書として、メディア【テレビ】論としてすばらしい。大きな事件には、すぐに安易な物語にすがりつこうとするのは、何も変わっていない。著者と同じく向きあおうとするには、原発のなかにカメラを持ち込む人が出ることのように思うが、どうなのだろう。

0
2011年05月13日

Posted by ブクログ

映画を観てから読もうと思って、積読くこと約1年。
大型連休にようやく読み終わりました。

内容は基本的に映画の流れを踏襲しているので、副読本として読むと便利。
異なる点は、表現者・制作者である森達也自身が、映画よりも登場人物として前面に出てくるところ。
特にテレビの制作会社との契約解除から、意固地になりながらも、どこかテーマ性に魅かれ、
淡々と撮影を続けるあたりなどは、もうひとつのドキュメンタリーを見ているようでした。

興味深いのは、社会学者・宮台真司による巻末の解説付録。
以下、簡単に要約する。

***

現代社会システムのなかで、私たちいろいろなことを「体験」する。
その体験に解釈を与える作為を「体験加工」というそうだ。

世間ではこの体験加工の早い、即断即決型の人のことが「聡い」と思われている。
そうした視点からは森達也の「体験加工」は驚くほど遅く見える。
しかしこれは、体験加工を留保する、というあえてする不作為と宮台は論じる。

オウムがサリンをまいた、たくさんの死者が出た、という体験の一方で、
オウムは敵だ・社会は味方だと体験加工する前の、留保によって見えてくるものがある、という。

たとえば、かつて、現在では精神病に分類される振る舞いにも、
共同体のなかで、「狐憑き」や「シャーマン」の役割が与えられた。
しかし現在では、まず犯罪者同様に隔離され、治療対象と化される。

***

本文を読んで思うところはたくさんあったけれど、この解説がとりわけ興味深かった。
眼前の狂人の振る舞いに安易に解釈を与えない、体験加工しない社会の豊かさが見え隠れする。
だが、とはいえ、オウムは、という解釈もまた、人間らしい営みとも思う。

0
2011年05月07日

Posted by ブクログ

村上春樹の、被害者側の話、オウム側の話をそれぞれ読んだあとは、オウムのドキュメンタリーをできるだけ客観的に撮ったという森達也の本に流れ着きました。オウム側もこちら側も、1つの価値観に思考を停止させて追随してしまう状態は同じ。戦時中は言うまでもなく、今でも会社という組織の中では、そのような状態に陥っているかもしれないし、さらに言えばこの社会が持つ価値観、いわゆる世間体に思考停止して追随しているだけとも言える。森達也はいつものごとく結論を出さないまま、なんというかダラダラしているけれど、そのダラダラ感って大事なときもある。簡単にすぐに善悪の判断をしてしまって悪だと判断したものを攻撃(例えばオウムがサリンを撒く行為、またはマスコミが信者を攻撃する行為)する恐怖を、森達也は教えてくれる。この『A』は、まだ2、3と続刊されているので、機会があれば読む。

0
2011年09月02日

Posted by ブクログ

ドキュメンタリーディレクター森達也がオウム真理教にまつわるドキュメンンタリー映画『A』を¥の取材を始めてから公開にたどり着くまでの撮影ノートを纏めたもの。オウム真理教とそれを取り巻くマスコミ及び一般社会という両極端で思考停止してしまったかのような狭間において、両者の通訳役とも言える立場になった荒木浩氏と、それを取り続ける森達也本人と。「ドキュメンタリーは最終的に主観で創られるのだらか公正中立などありえない」と判っていながら両者の距離のとり方に揺れ動く森さん本人が主人公のようなレポート。森さんが揺れやすい性格なのはある程度判っていたけれど、それが一番表に出ている作品かも知れない。

0
2011年08月19日

Posted by ブクログ

「たくさんの人を殺した悪い人たちよ」
娘さんのこの一言が頭から離れないのは、自分の感覚にはまるからか。
思うことを、考えることをことばにしようとすると全然まとまらない。そんなことがよくある。実際ことばになって外に出せても、なんか誰かが言ってたことのように思える。どんどん自分が見つからなくなってぐちゃぐちゃになる。
だけど、森さんの本を読むたび、わからないなりに、ぐちゃぐちゃなりに、でも考えることは止めないでおこうと思う。ただ自分のことばをさがすことだけは面倒くさがらずに、頑張ろうって思う。
『A』の被写体はオウムだけど、でもたぶん、そこに映ってるのは人間そのものの姿なんだろうな。映画は受験が終わったら絶対観よう。

0
2010年11月02日

Posted by ブクログ

オウム真理教に対して、その信者の一人の荒木浩に対して親近感が湧いた。なるべく、見ないようにしていたものを、しっかりと内からみることの大切さを知った。ドキュメンタリーの映像もぜひ見てみたい。

0
2010年04月29日

Posted by ブクログ

オウムのドキュメンタリー映画があると聞いて、どこかで気になっていたけれど、見る機会が持てずにいた。その映画、『A』の舞台裏を監督自身が語ったこの本も、しばらく前に買っていたのだが、忙しさに紛れて本棚に放り込んだままだった。今、読む気になったのは、ある意味、『1Q84』で何となくオウムのことを思い出したから。そういう意味ではやはり、『1Q84』でいろいろ考えたということなのだろう。1995年という年は大変な年で、年明けから阪神淡路大震災、そして3月には地下鉄サリン事件があって、どうもあの頃から日本の安全神話ががらがらと崩れた感がある。それはともかく、オウム自体にはずーっと「わからない」感がつきまとって、「極悪非道でとんでもない! 許せない!!」と言えなかった。彼らが起こしたと言われている事件はもちろんひどいものなのだけれど、ひとことで言って、すごくちぐはぐな感じがしたのだ。教祖に強いカリスマ性があるとは私には思えなかったし、科学技術に関しても報道されている範囲では稚拙なもののように感じられたし、選挙のときの教祖を称える歌などは苦笑してしまうようなものだったし、それらをつなぎ合わせてどうして冷徹な殺人集団になってしまうのか、実感としてまったくわからなかった。そんな当時の気分を思い出した。今、この本を読み終わってもわからない。多分、映画を見てもわからないのだろう。膨大な時間を撮影に費やし、経済的にも精神的にも追い詰められかけながら、『A』、そして続編の『A2』を完成させた森監督。この本に書ききれない部分も多くあったことだろう。一歩間違うと反社会的と糾弾されそうなドキュメンタリーを完成させた根底には、「わからないと感じることについて安易に納得しない」姿勢がある。「共同体的な思考停止」という点でマスコミとオウムが合わせ鏡だという主張に完全に同調するかと聞かれると考えてしまうが、オウムのことに限らず、私は私の「わからなさ」や「違和感」をも少し大事にしていこうと思った。

0
2011年07月15日

Posted by ブクログ

<―オウムの中から見ると、外の世界はどう映るのだろう?一九九五年。熱狂的なオウム報道に感じる欠落感の由来を求めて、森達也はオウム真理教のドキュメンタリーを撮り始める。オウムと世間という二つの乖離した社会の狭間であがく広報担当の荒木浩。彼をピンホールとして照射した世界は、かつて見たことのない、生々しい敵意と偏見を剥き出しにしていた―!メディアが流す現実感のない二次情報、正義感の麻痺、蔓延する世論を鋭く批判した問題作!ベルリン映画祭、山形国際ドキュメンタリー映画祭をはじめ、香港、カナダと各国映画祭で絶賛された「A」のすべてを描く。>
松本死刑囚は死刑を待つ状態にあり、オウム事件は過去のことになりつつある。しかし「なぜオウムはサリンを撒いたか」という問への明確な答えはでないままだ・・森氏は膨大な時間と労力をかけてこの問に向かい合った。この本を読むことで私達は情報と考えるチャンスを得ることが出来る。私にとって大きかったのは「オウムがわからないままな理由」がわかったことだ。この問題はまだ終わってはいないのだから終わらせてはいけないのだ、と感じた。

0
2009年10月22日

Posted by ブクログ

理解しかねることに対して、変にわかったふりをしたり、勝手に想像したりしない、森達也の姿勢に激しくひかれる。

0
2011年08月06日

Posted by ブクログ

(*01)
もちろん映画と合わせて読む事をおすすめする。映画か本書かは先後は問わずにどちらもそれぞれに楽しめ、あるいは大いに笑える内容になっている。
オウム心理教や荒木氏について、2016年のテロの現在を見れば、90年代のここに書き取られた様々な出来事を違和感もなく消化できるのではないだろうか。
ロリストの側にある誠実さや切実さ(*02)は、常に無理解や曲解や誤解とともにあり続ける事が、本書からも分かる。その点で、カルト宗教とマスコミの間をさまよっている著者の動向は注目できる。

(*02)
テロリストばかりが誠実とは言えないが、彼女ら彼らの誠実はやはりわたしたちよりも切実なものと言える。荒木氏の言動やオウム真理教の内部にあった人々の生活からはそれらがひしひしと伝わってくる。
ちなみに著者あるいはこのカメラマンは、ここにある誠実に、ともすると絆されてしまうのではという期待がこのドキュメントを面白くするのに一役買っている。
撮影するのでなければ、ここにある誠実を笑い飛ばす勇気がなければ、またそれも、マジョリティ/マイノリティそれぞれにある無理解な信心に陥る可能性がある。

0
2016年02月16日

Posted by ブクログ

オウムの話。
と書くと語弊があるけど、オウム報道がピークの時期、オウム側から世間を見るという手法で、結局映画になったドキュメンタリーの制作記録。
面白いとか面白くないとかそういう事ではなく、ふむふむ。
という事。

0
2012年05月05日

Posted by ブクログ

「A」という劇場公開された映画を撮った人で、監督、とはいえ、この本の文章もなかなかわかりやすく読ませる、多才な人だ。浅原が逮捕された後、残されたオウムの人達に密着取材してカメラを回しつづけた、そのルポルタージュ。オウムも、テレビで言われつづけている印象とは全く違っている。

0
2009年10月04日

Posted by ブクログ

ある男が敵対する無意識と無意識の間に翻弄されながら、ドキュメンタリーに、逃げることなく対峙する日々が綴られた本。

0
2009年10月04日

「ノンフィクション」ランキング