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絢爛豪華なことばが縦横無尽にはねまわっている戯曲集。
貧困や政治や性を扱っているのに、ことばが喚起するイメージだけで、舞台が天国にも宇宙にも変わる。
放埒な中にも、シェイクスピアなり聖書なりのモチーフをさりげなく生かしているのがいやらしいほどうまい。
(テグジュペリがなんていうかは知らない)
特にどの戯曲が好きというのはなくて、テーマや言い方は違えど、通底するものは同じに思える。それが何かは言葉にできないけど。
寺山修司はエッセイを1,2冊しか読んだことがないのだけど、その中の言い回しやアイデアがここにも(というか、自分の戯曲をあちらで引用していた)。
色々なところから気に入ったフレーズを蒐めてはコラージュして、繰り返し使う作家だったんだろうな。
寺山の短歌の模倣(というか盗作)なんかは有名な話だけど、国語の資料集に載っちゃってるし。
「去ってゆくものはみんな嘘」と言った天才は、そんなところも嘘だった。
戯曲という目で見ると、実現しづらそうな指定が色々あるのだけど、どこまでリアルに演じたのか気になる。
そういえば2011年に「盲人書簡」を見に行ったことがあるけど、気圧されてよく分からないまま終わってしまった。
また何か見に行きたい。
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言葉の連隊が大挙して押し寄せてくるようなすさまじさ…。言葉の錬金術師ってこういうことか!!!5篇の戯曲が一冊に収められていますが編み方も大変よく、見事に一つの無限ループを描いて宇宙を作ってます。みんな誰かの代理人。私は誰の代理人なんだろう?それを放棄し動物的に生きるということは意外と勇気がいる。遠くに行きたいという僕の願いをかなえてくれるのは汽車ではなく僕の中を流れる赤い血。人生とは自然に反して生きること。見せかけの栄光か本物の自由か。見てしまった歴史と処世。舞台等なくても誰もが芝居をしている。D.C.
で、ここまで言葉責め(なんか違う)しておきながら、“言葉が 死ぬとき めざめる 世界がある”ですって。なんかもういろいろすごすぎ。
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読んでいると実際に脳内に舞台が作り上げられていく。どんどんフィードバックされていきページをめくる手が止まらなかった。表面的にとらえてしまえば厭らしい捻じ曲がった作品かもしれないが、その中に見える願望や欲がとても美しく心に響いてくるものだった。
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戯曲は面白い。小説と異なり物語の情景が、観客席から舞台を観ている視点と状況として目に浮かんでくる。大きな劇場ならば豪華なセットを想像できるし、小さな小屋を想像するならほとんどが見立てとなる。奥行きだけは曖昧にならざるを得ないし、想像と実際では上下は異なるかもしれないが、たぶん想像する動きは違わないだろう。この本には5編の有名な寺山戯曲が収められているが、最も好きなのは「アダムとイヴ、私の犯罪学」だなぁ。
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5篇を収録する戯曲集。篇中の白眉はなんといっても「毛皮のマリー」だろう。この作品は、こうして戯曲として読んでも、想像力が拡がって十分に楽しめるのだが、やはり舞台で見てみたい。寺山自身による演出で、1967年新宿文化劇場で初演されている。その時には都内21件のゲイ・バーが協力したというから、さぞかし賑やかで楽しい舞台だっただろう。また、その後もフランクフルト国際実験演劇祭やニューヨークでも上演されたようだが、舞台の様子は、その都度大いに違っていたようだ。それでこそ寺山劇だと思う。天井桟敷、見たかったなあ。また、姉妹編の「星の王子様」は、宝塚OBやレズビアンバーが応援に駆けつけたらしい。お芝居がライヴに生きていたんだなあと思う。
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寺山修司の世界観に引き込まれた!
どす黒くもキラキラしててエロティックなキャラクターたちは皆感情剥き出しで、そこが人間らしくて魅力的だった
綺麗事で塗り固められた教科書の何百倍も、想像力をかきたてられる
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・毛皮のマリー La Marie-Vison
2009年 美輪明宏 さん主演「毛皮のマリー 」。
マリー「あたしは、その中でできるだけいい役を演じたいの。芝居の装置は世の中全部」
このセリフが聴きたくて帰国した。
何年も待ちわびた演目で今でも目の中に浮かぶ。
下男
「ああ、うまいこと自分自身に化けたもんだな。これはあたしにそっくりだ。
しかも、誰にも見せたことのないほんもののあたしにそっくり。」
久々に本を開き頭の中で再生していると
2006年の舞台 でご一緒させていただいた武田光太郎さん のマリーがこう言う。
マリー
「世間の人はあたしのことを、自然じゃないって仰るようね。
作りもので、神さまの意思にさからっているって。」
化粧をしたり洋服で着飾ったり、優しい嘘をついたりすること―
演劇や芝居となにが違う?
舞台装置や台本がないだけ
↓2006-04-04の記事↓
・毛皮のマリー La Marie-Vison
マリー
「人生は、どうせ一幕のお芝居なんだから。
あたしは、その中でできるだけいい役を演じたいの。
芝居の装置は世の中全部」
・星の王子さま
観客1 「みんな芝居ですよ。おれたちはさ、劇場がないだけでさ、同じことですよ。 」
------ 何年も前に読んだ本を読む。
妙に林檎が食べたくなり、丸ごと齧っては読んだ。
美輪明宏 さんが演じたマリーがやはり一番好き。
当時読んだのとはまた一味違う。
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どれもこれも名作。劇みてみたい。
台詞とナレーターで、こんなにも情景を思い浮かばせるってすごいことだと思います。
小説とも本当の劇とも違った、不思議な味のある作品。素敵。
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定期的に読みたくなる寺山作品。厭世的で幻想的な空気が漂い、そんな世界観が好きです。戯曲なのでテンポ良くリズミカルな文体。かつて『毛皮のマリー』を美輪明宏&及川光博で観ました。美輪さんのマリーを再度観たいですが叶わないかな?
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1976年に角川文庫から発売された寺山修司戯曲集。
内容紹介には、初期戯曲集とありますが、演劇実験室天井桟敷の初期の2編の台本と、天井桟敷以前の戯曲3編が収録されています。
自分、寺山氏の演劇作品は全く観賞したことがないんですが、寺山修司監督映画『書を捨てよ町へ出よう』と『田園に死す』は、なぜか好き。
この作品集に収めれた5編に、それぞれこの2作品に通じるものがあり、ちょっと嬉しくなりました。
丸山明宏、春川ますみ、といった役者が演じることを想定したキャラクターが面白い。登場人物が会話するセリフとひたすら壁に落書きされた文を読み上げるセリフとが重なるという手法が面白い。役者が登場人物としてではなく役者として言葉を発し始めるという手法が面白い。
各作品、そうした面白さはありますが、文章だけでは、感動はほとんど無かったですね。実際に演劇を観たら、感動かもしれないですけど。
唯一、巻頭に収録された「さらば、映画よ」には、しびれましたね。
登場人物が、終わり近くで観客に向かってアジテートするのは、寺山修司監督映画『書を捨てよ町へ出よう』と同様。感動、というか、単純にカッケー!ってなりますね。
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戯曲も寺山修二も初体験。想像していたより、エンタメ色のある楽しい戯曲だった。
「毛皮のマリーになんて、なるんじゃなかった!」醜女のマリーを演じてみたい。
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他の方のレビューを読んで、「さらば、映画よ」がサイコパスにて引用されていたことを知った。現代、なにもかも代理人に任せているという感覚は新しいけれど、なるほどと思った。
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寺山修司さんの戯曲。
≪サイコパス・PSYCHO-PASS≫の引用から興味を持って。
≪さらば、映画よ≫
「映画なら上手も下手もないですよ」
「映画もつまんない。ハンフリー・ボガートが死んでしまったもの」
「そうね、俳優がほんとに死んじゃっちゃいけないなあ。俳優は映画の中で死ぬべきですよ。ストーリーの中で死ねばいいんだ。そしてまたべつの映画の中で生きかえる。歴史の反復性……輪廻。それなのにハンフリー・ボガートは映画の外で死んでしまった。何てわがままな人だろう」
「『誰も私に話しかけてくれない』って遺書を残して死んだソビエットの養老院の老人の記事を読んで、母は薄笑いをうかべて『自分で自分に話しかければいいのに』って言ってました。むろん、私もそう思っていた……」
「『吃り対人赤面恐怖は治る』って研究所へ入ってたでしょ?」
「ああ、あそこ。あそこにだって、『他人』なんかいやしませんでしたよ。あそこはまるで納豆の糸のひきあいみたいなもんだ……『万有引力とは引きあう孤独の力である』ですよ。あそこにいるのは、みんな私だ。他人なんかいやしないんだ」
「どこへ行っても私がいる。どこへ行っても他人がいない。畜生。ハンフリー・ボガートめは、うまいことしやがった。あの人は映画の中でも死ぬことが出来た。映画の外でも死ぬことが出来た。地球を二つに割って、その片方に腰かけて、もう一つの片割れがスクリーンの中をゆっくりと浮游するのを見ながら自分で自分の他人になることが出来たんだ……。だが、私は私自身の他人にはなれない。私にはスクリーンがない。私が映画の中で死ねると思いますか?」
「何もかも……何もかも、ありとあらゆる問題は、すべて『代理人』のせいなんです」
(いささか白んで)「だれです? その『代理人』ってのは?」
「それを……(と考えて)私も知りたいんです」
「だが、ある日私はふと考えた。どいつもこいつも『代理人』の世の中だ……私もきっと誰かの『代理人』なのではないだろうか? だとすると、
私は一体、誰の代理人なんだろう。
どこかの町の片隅に、私を『代理人』にえらんださみしい中年男がいて、私は、その男のさみしさを、代りに味わっているのじゃないだろうか?」
≪アダムとイヴ、私の犯罪学≫
「ああ!と俺は思った……俺は自分の幸運を食っちまったんだ。それからというもの、俺は林檎を食わない……林檎なんか見るのも嫌だ。本当のことを言うと、林檎がこわくなってしまったのさ」
≪毛皮のマリー≫
「どうして、殺したの?」
「これ以上長生きさせると翅がボロボロになって、きたなくなるだけだから」
「ジーン・ハーロウの映画、観たことある? ジーン・ハーロウはとてもいい女でしたよ。百万人に愛されて、映画の中でも何度も死んだ、そう、何度も死んだ。おまけに映画の外までも酔っぱらって、自動車事故で死にました。死に方はぜんぶまちまちで、それぞれべつの名前がついていた――すてきね、何度も死ねる人は、何度も生きられるんですもの」
「詩人は、ことばで人を酔わせる酒みたいなもんです。ときには、ことばで人を傷つけたりすることもできる。ようくみがいたことばで、相手の心臓をぐさり、とやる」
「場合によっては、ことばで人を殺すことだってできますが、」
「雨だけは、だめです。あいつばかりにゃ、ことばは勝てぬ」
≪血は立ったまま眠っている≫
≪星の王子さま≫
かの有名なサン=テグジュペリの≪星の王子さま≫について、つとつとと。
≪毛皮のマリー≫は、美輪明宏さんが、舞台で演じたこともあるから、知っている人は、知っているでしょう……。
以前、寺山修司のなんだのといった、ちいちゃな個展みたいなものがね、ありましてね、ポスターだの、なんだのが、ざあと置いてあったのです。
わたしは、≪カリガリ博士≫の文字に惹かれて、見に行ったわけですが……
あのとき、わたしは、≪毛皮のマリー≫の存在も、知っていた……
このたび、アニメ≪サイコパス・PSYCHO-PASS≫で寺山修司をまた見ることになった……
嗚呼、なんの因果か……
サン=テグジュペリも、そう……
≪星の王子さま≫を知らない人は、殆ど、いない……
わたしは、箱根にある、≪星の王子さまミュージアム≫にも行ったことがある……
重すぎて持っていけない……
嗚呼、嗚呼、巡り巡ってふたたび……
同性愛が、そこかしこ。
≪サイコパス・PSYCHO-PASS≫の槙島聖護は、そうさね……
ひとりぼっちの、淋しい……
全編通して……
…………。
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サーカスと舞台の融合、当時でいう「見世物小屋」の確立を計った作者による戯曲。ストーリー展開よりも、マリーのキャラクターにドキドキさせられる。性別の差も超え、強い光であろうとする存在は、悲劇こそ喜劇であると説明した、親と子の正直なる戯れ。
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初期戯曲集。
「さらば、映画よ」「アダムとイヴ、私の犯罪学」「毛皮のマリー」「血は立ったまま眠っている」「星の王子さま」を収録。
(空を見あげて)この上に空があるんです。
屋根の上に星が出ているんです。
たとえ見えなくても
星は光っているんです。
でも、あの星も
お芝居なの?
—「星の王子さま」より—
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森田剛くんの舞台に行く前に読んでおこう、と思って購入したんだけど、「毛皮のマリー」を読み終わった時点で、これはこのままにしておいて、舞台を観終わってから読もうかな、と気持ちが変化。
不思議なこの世界がどんな感じに表現されるのか楽しみにしておこう。
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友人の紹介で戯曲集(いわゆる劇の台本)に初挑戦。
妖艶かつ淫靡な寺山ワールドが余すところなく詰め込まれた名作。
美しい表現とは対照的に醸し出される淫らな空間。
何かに酔っぱらったような感覚に襲われる表題作「毛皮のマリー」。
一方で、戯曲ならではの音楽じみた文学的表現を用いて、人の心の闇をえぐりだす技術も素晴らしい。
安保闘争を描いた「血は立ったまま眠っている」、愚かな人間家庭の堕落ぶりを神格化して描いた「アダムとイヴ、私の犯罪学」はその最たるもの。
サン・テグジュペリの名作星の王子様を独自の視点で描く「星の王子様」も魅力的だ。
戯曲集は読んだことない人も、一度は読むべき。
舞台が見たくなる。
引用:親愛なる後輩 古野
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戯曲、という特殊性から
目の前に舞台を想像しながら読みました。
人間の汚い部分を引っ張り出した内容で
胸がザワザワするような感覚。
日常では決して表に出さない闇を
目前に見させられているような気持ち悪さ。
でも人間臭さがまた面白さであり、
良いスパイスになっています。
テンポも良く、語感を充分に楽しめました。
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マリーさんより、星の王子様が面白かったな。芸術系の学生と話しているとこの手の感覚を受けるときがあるし、私自身も、なんていうかそういうドツボにはまってんじゃないかと。ゾッ!私は誰の代理人なんだ!って話も、アフォリズム集で読んだことあったけど、こんな流れだったのね。同じく、ゾッとするね。
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物語をつくる人の中には、ふたつの人間がいる。
ひとつのテーマを繰り替えし使うひと。
おんなじテーマは二度とつかわないひと。
寺山氏は、繰り返しつかう人であり、また、昔自分がつくったお約束をちょっとずつ替えていきながら、同じテーマを「完成」に近づけていくような人なのかもしれない、と思った。
いわゆるオカマのような人が登場する作品だが、風呂でわき毛を剃るシーンから始まり、それがとにかく衝撃。想像してしまう自分に、またその想像力に自己嫌悪してしまう。