【感想・ネタバレ】キリストの誕生のレビュー

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Posted by ブクログ

『イエスの生涯』の前にこちらを読んでしまったがものすごく興味深く読ませていただいた。

日本人にとって、仏教よりもよほどとっつきにくいのがキリスト教、イスラム教だと思う。キリスト教について知りたいとは思うが、聖書はとても読めないなということできっかけとしてこちらの本を読んだ。

神格化される前の無力な人間であったイエスが、如何にして人類にとってここまでの大きな存在になったのか。人間の弱さ、悩み、もがき足掻く姿が遠藤さんの読みやすく飾らない文章で綴られている。 
原始キリスト教団の群像劇として読んでも面白いです。
この本を読むと“沈黙”という言葉の重みがより解るのだなぁ。

キリスト教ってなんなん?と思っている人にぜひ読んでいただきたい一冊。
自分もイエスの生涯も読まなければ。

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2022年08月01日

Posted by ブクログ

ネタバレ

凄まじい名著。

イエスの死、ヤコブ・パウロ・ペテロの死、ユダヤ戦争の災禍ー。繰り返される「神の沈黙」と「神の不再度降臨」に対する思考と信仰。そしてそれらを途切れさすことのない、イエスの中にあった「何か」(筆者はXという)。

どのようにキリスト教が立ち上がってきたのかを、人間的リアリティを持って味わうことのできる一冊。

キリスト教理解のはじめにこの本を読むと、凄まじくとっつきやすいが、小説家・遠藤の視点がかなり内在化しそうな気もする。

ーーー


- イエスの死後...
- 原始キリスト教団の誕生
- 12使徒たち中心に
- 師の本物の愛と、師への裏切りの痛み
- 「イエスの死の意味は何だったのか?」
- イザヤ書での一致
- 人間の罪をかぶって、イエスは死んだ
- イエスは人間の罪を被って死んだ
- イエスは復活する
- イエスは再臨する
- 神の怒りの犠牲でイエスは死んだ
- 神の怒りに疲れていたユダヤ教徒に染みる
- 指導者ペテロ
- 慎重派。神殿と戒律を遵守。
- イエスは神殿と戒律を遵守せず殺された。
- ただしばしば弾圧。
- 「イエスを用いて布教するな」
- よりイエスのことを考えるように
- 愛の義人からメシアへ思考の変化
- 保守派(ペテロ)と革新派(ステファノ)
- ヘブライ語とギリシャ語(ディアスポラ・外を知りリベラル)
- イエスは神殿・戒律より大事なものを説いていたではないか。
- ステファノの処刑
- 第二の見殺し。革新派グループのイスラエル外への離散
- パウロの会心
- 厳格なユダヤ教徒
- 厳格であるがゆえに、本質をよく考える
- 何故、イエスはここまで人を惹きつけるのか?
- 異邦人にも宣教していく
- 第二の弾圧
- 暴君カリグラ帝によるユダヤ教弾圧
- ユダヤ教徒の「勝利」
- 神・戒律・神殿への正しさへの意識高まる。排外主義的に。
- キリスト教徒への迫害
- by ユダヤ人
- by ユダヤ人を敵に回せない分国王
- さらにイスラエル外にキリスト教が広まる
- ユダヤ人が特に大事にしていたもの
- 安息日
- 割礼
- これらなしでもOKという革新派キリスト教が国外で広まる
- 異邦人問題
- イエスの教えは、異邦人にも必要だ    (順応すべき)
- イエス教えと、ユダヤの戒律、両方守るべき(同化すべき)
- 沈黙の問題にも通じる
- 律法に囚われすぎて逆に罪を犯す人間を許すために、神がイエスを送り、イエスが贖罪した。
- パウロ、アテネ(汎神論的世界)では布教に失敗
- 捕らえられ、ローマへ。
- ヤコブ・パウロ・ペテロの死。そして死の描写の沈黙。神の沈黙。
- キリストの死と同じ。
- 何故、熱烈に神を信じ信仰を広げた彼らは、死ななければいけなかったのか?死の意味は何か?
- 原始キリスト教団が筋肉質になっていく。(脱落するものもいた)
- いざこざ→ユダヤの反乱(ユダヤ戦争)→ローマがエルサレム落とす→原始キリスト教団(保守派)いなくなる。理由は不明。
- ユダヤ教
- サドカイ派の没落(神殿なくなる・司教殺される)。
- 原始キリスト教団の苦しみ
- 神の沈黙(イエス→ヤコブ・パウロ・ペトロ→ユダヤ戦争)
- 神の不再降臨
- 脱落者&逆に信仰のエネルギーにも。
- やましいことをした場合...
- 相手の否定(裏切り)
- 他の世界への逃亡
- イエスの愛の前では、両方不可能だった。
- 神の沈黙に対し、イエスは今もなお人間にその謎と回答の自由を与えている。
- 人間は永遠の同伴者を求めるからである。

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2020年04月20日

Posted by ブクログ

イエスの死後、原始キリスト教団の歩みを追い、イエスがいかにキリストに高められていったのかを辿る。イエスの架刑、ステファノの受難、ペトロやポーロ、ヤコブの死、ローマ軍によるエルサレムの蹂躙。これら幾多場面において突きつけられた「神の沈黙」、「キリストの不再臨」。わずかの期間に起きたこれら壮絶な出来事を経てもなお絶望しなかった原始キリスト教団の人たちは、愛のみに生きたイエスを忘れることができない。その意味でイエスはキリストとなり彼等ひとりひとりに再臨したのでは、と結んでいる。著者は「人間が続くかぎり、永遠の同伴者が求められる」と記しているが、宗教の本質を端的に指摘しておられると思い、感嘆する。

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2019年07月28日

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映画の「沈黙-サイレンス」を先日観た。
小説の「イエスの生涯」を先日読んだ。
その流れで、本書を手に取ることに。

映画も小説も遠藤氏は、「神の沈黙」という事をテーマにされているんですね。

ステファノの事件
エルサレムの会合
アンティオケの事件

この流れがキリスト(教になる節目)を誕生させる物語などは、初めて知る内容だけに面白かった中、登場人物のポーロが一番気になった。

ビジネス社会でベンチャー企業だと、ある程度の規模から鈍化することがあっても、熱く猛る信念で、常識を超えて突き進んでいく人が、ある意味無茶苦茶に引っ張る瞬間、異常な壁を軽々と越える時がある。
それも名もなき人達だったりする。
いつの時代も、目立つ人だけが歴史や本道を作るわけじゃない。

イエスの使徒たち皆が、分かっていながらも「何か」に縛られている間に、ポーロという人の持つ、清々しい程の行動力という一点突破で、「ナザレのイエスの物語」だったものを、「イエス・キリストの物語」だけ集約し、昇華させた気がした。

実話と想像と混在しているとは思いますが、実に心躍る一冊でした。

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2018年07月18日

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キリスト教がどのようにして誕生したかを,聖書ばかりでなく多くの資料をベースに小説家の視点で考察した名著だ.ステファノ事件,エルサレム会議,アンティオケ事件などが信徒たちに与えた影響,さらにイエスと会ったことのある使徒たちとポーロの議論の中で,神の沈黙,イエスの復活などをどう扱うのか悩む人たち.永遠の問題だが,それなりの解答が与えられたような気がする.

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2017年04月04日

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[その後の話]イエスの死に際して自らの弱さに苛まれたであろう彼の弟子たちは、何故にその後殉教をも恐れぬ熱心な信徒となったのか......。クリスチャンでもある著者が、回答定まらないその問いに答えようと、イエスの死後の弟子たちの歩みを再構成した作品です。著者は、本書と『イエスの生涯』を著したことで、さらなる思考が求められたと語る遠藤周作。


『イエスの生涯』を事前に読んでいたからでしょうか、遠藤氏の考える弟子像というものがすっと頭に入ってきました。その像がいわゆる正統の教義との関係でどう考えられるかまでコメントできる見識がないのですが、遠藤氏自身の自画像が非常に深く弟子像に投影されているように思います。「弱さ」という点が1つのキーポイントになっているのではないでしょうか。


キリスト教の立ち上がりまでの動きが大まかに理解できるのも本書の魅力の1つ。聖書やキリスト教については、それこそ勉強を始めると終わりの見えない世界だと思うのですが、とりあえず概略を把握しておきたいという方には、(遠藤氏の思いが如実に詰まった作品であるということに留意しつつ)非常にオススメできる一冊です。

〜イエスは現実には死んだが、新しい形で彼等の前に現われ、彼等のなかで生きはじめたのだ。それは言いかえれば彼等の裡にイエスが復活したことに他ならない。まこと復活の本質的な意味の一つはこの弟子たちのイエス再発見なのである。〜

どうぞ素敵なクリスマスをお過ごしください☆5つ

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2015年12月23日

Posted by ブクログ

イエスの十字架の死後、12弟子を中心とする原始キリスト教団の使徒たちの心の中に再臨し、神秘的な救いを与えたイエスの復活、そしてキリストの誕生は、弱虫だった弟子たちを殉教をもいとわない強い信仰者に生まれ変わらせた。「汝の敵を愛せよ」、愛の人だったキリスト、2000年前のエルサレム、そして2000年の時空を越えて、今もなお現代世界に生き続けるキリスト教の教えに想いを馳せる。

キリスト教がこれら敬虔なユダヤ教徒の中から生まれ、キリスト教が何故、ユダヤ人を越え、多く異邦人たちの世界的な宗教になったのか?その理由がよくわかる。

イエスが死んでしまったために、原始キリスト教団はその神学的解釈を巡り、その当時から多くの悩みを突きつけられていた。「神は何故、沈黙し給うのか?」「主イエスは何故、十字架で死ななければならなかったのか?」

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2013年09月15日

Posted by ブクログ

イエスの生涯に続いて刊行されました。
イエスからキリストという存在へ変わっていく弟子たちの心理などを本当に質の高い内容で描かれています。「僕は大説家ではなく小説家なんですよ」とエッセイで何度も著者は口にしていました。
それを決して忘れずに読んでいたものの、遠藤氏の文章はどうしても僕に夢をみさせてしまう。読者も多く、たくさんのレビューがあり、十人十色に評価をなさっていることでしょう。宗教と歴史と信仰の危ういバランスを絶妙にとりながら見事な結びまで持っていくその技量を楽しむ一冊として読んでもいいと思います。
キリスト教に関わっている方なら、是非そこに自分の思いも加えてみてください。

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2012年10月26日

Posted by ブクログ

カテゴリ分け困った…。
最初フィクションにしたけど違うよね、たぶん。
遠藤周作を初めて読んだ本。
当時キリスト教に興味があって聖書読み始めたころ。
この本を読み終わって近くの教会(聖公会)に通い始めました。
自分が日本の作家読む気がしないのはやっぱ宗教的視点が欠けてるというか、べつに一神教じゃなくてもいいんだけど、何だろう、人間関係のゴタゴタとか恋愛だけじゃない、それを超えた視点とか、価値観とか世界観とかが自分にはどうしても必要だからです。
自分は幼稚園から中学までクラスのスケープゴートでいじめられたので、男性が怖くて(クラスの男子に殴られたりしていた)恋愛出来なかったし、友達も少ない(ゼロではないが)。
まさに聖書でイエスが言ったように(健康な人に医者は要らない、いるのは病人だ)、ある意味病人だったワケで。
読んでよかったと思います。
文字通り命を救われたかも。
おかげで今は生きててよかったと思ってるし、出来るだけ長生きして人生楽しみたいです。

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2012年06月25日

Posted by ブクログ

『イエスの生涯』と合わせて読むとより深くキリストを理解できると思う。

なぜ神はキリストを見はなしたのか、弟子はなぜキリストを裏切ったのか、ユダヤの王はなぜキリストを恐れたのか。
全ての謎はこの小説に繋がると思います。

それでもなお、その姿を隠すことなく人に晒したイエスの心。
真実を通すには、時として醜く孤独で、耐えようのない漆実を味わうのだと。
それを受け入れられる自分を持てるのかが、問われている。
自分と向き合う勇気を持てるのかが、強く心に残る一冊です。

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2011年09月09日

Posted by ブクログ

死後、キリストとなったイエス。弟子たちや信仰の問題。聖書に書かれなかった使徒たちの最期の秘密。
ポーロの布教活動と協会同士の対立。
イエス「復活」とキリストの「誕生」

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2010年08月13日

Posted by ブクログ

☆☆☆ 2022年7月 ☆☆☆

P287 原始キリスト教のみじかい歴史を調べる時、私がぶつかるのは、いかにそれを否定しようと試みても否定できぬイエスのふしぎさと、ふしぎなイエスの存在である。なぜこんな無力だった男が皆から忘れ去られなかったのか。なぜこんな犬のように殺された男が人々の信仰の対象となり、人々の生き方を変えることができたのか。

『イエスの生涯』『キリストの誕生』の2冊で筆者が読者に語りたいのはまさにこの点である。『キリストの誕生』では弱虫で臆病だった弟子たちが原始キリスト教の創始者となり、キリスト教が広まっていく頃の事が語られる。
ペテロやポーロ(パウロ)といった弟子たちの物語。

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2022年07月23日

Posted by ブクログ

愛を語り、愛に生き、十字架にかけられて死んでいったイエス。そしてそのイエスを見棄てた弟子達。しかし弟子達は己の弱さ、卑怯さ、罪悪感の中で改めてイエスが遺した言葉と向き合い、信念の使徒と目覚めてゆく。本書は新約聖書や伝承を引用しながら、小説家としての豊かな想像力を駆使してイエス亡き後のキリスト教団、キリスト教の伝導、指導者であったペトロやポーロ達の足跡、またエルサレムの壮大な歴史までも繙いた一冊。あくまでも遠藤周作の想像や推測にすぎないけれど、どのようにキリスト教が発展していったのかを丁寧に描いており、とても勉強になりました。聖書には矛盾や語られてないことが多く、その解釈によって色々な見方ができますが、遠藤周作が著した「キリストの誕生」は個人的には筋の通った解釈だと感じました。これからもキリスト教関連の本は読んでいきたいです。解説が高橋たか子なのも良いです。

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2022年07月09日

Posted by ブクログ

--概要--
・「イエスが死後どのようにキリスト(救世主)として認められていったか」というテーマ。『イエスの生涯』に続く著書とのこと(私はこちらは未読)。
・巻末の高橋たか子氏の解説にあるように、「イエスという人が実際にいた、そして十字架上で死んだ、ということがあった、それを素材として創作された話が新約聖書なのだという見方」で書かれている。ペトロ、ヤコブ等の弟子や宣教師ポーロなどの視点で、彼らがどのような体験・思いから書簡(=今日の新約聖書)を書いたのかが様々な資料の研究の上に述べられている。
・イエスの死、迫害、分派、弟子や伝道師の殉教、ユダヤ戦争での多くの信徒の死といった苦境の中で、「神がなぜ沈黙しているのか」「キリストはなぜ再臨しないのか」という解き難い謎が浮かび上がった。脱落する者もいたが、残った信徒たちはこれらの謎から信仰の意味を掴もうと悩み、もがき、苦しみ、それらの苦しみが信仰のエネルギイにもなっていった。

--感想--
・「Aという説がある。しかし、Bかもしれない。いずれにせよ、確かなのはC。」というような論調が多く、少し読みにくさを感じた(後半では慣れた)。
・私自身は聖書の記述を事実と捉える立場のクリスチャンであるが、その分聖書の記述を「そういうもの」と固定的に捉えてしまい、各書簡の著者が神とどのように向き合っていたかをあまり意識できていなかったと、この本から気付かされた。その観点を持って改めて聖書に向き合ってみたい。
・信徒を苦しめた「謎」については現在も同じことが言えると思う。戦争や犯罪、また自然的な災害や事故などについて「神がいるならば、なぜこのようなことが起こるのか」と言われたら答えられない自分がいる。次のフレーズに共感したため、諦めずに考えていきたい。
「ひとつの宗教はそれが組織化されるだけでなく、神についての謎をすべて解くような神学が作られた途端、つまり外形にも内面にもこの人生と世界について疑問と謎がなくなった瞬間、衰弱と腐敗の坂道を転がっていくのである。」(p.264)

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2019年12月29日

Posted by ブクログ

とても面白く、聖書の理解が深まりました。筆者は常に第三者の視点を保ち、新約聖書の内容的誇張や欠落を数多の学説に基づいた知識で埋める一方、資料の乏しい部分については大胆に想像力を働かせて、イエスの死後、残された弟子たちがどのように葛藤し、生き抜いていったかを描き出していきます。正統的神学からは外れるような言葉遣いにドキッとしますが、それは事実を元にした小説を読むようなもの。特に本作で扱う使徒行伝は、歴史・文化的背景や人物のバックグラウンドが分からないと理解が難しいので、参考になります。

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2016年03月19日

Posted by ブクログ

「イエスの生涯」よりも難しい…。

う〜ん、難しい…というよりも、
弟子達や弟子の布教によって信徒になった人達によって
イエスをキリストとして高めるまでの過程やその心情が、
キリスト教徒でもなければ、
他の宗教に強い信仰があるわけでもない私には理解しづらい。
でもわかりたいと思ってしまう。なんだかちょっと羨ましい。

イエス死後、弟子達の自問自答や自責の念を考えると切なく感じる。
悩み続けるその姿に、同じ人間としての悲しみや弱さを見ることができ、
遠い昔に生きた人達を少し身近に感じられた。
弱さがあったからこそ強い信仰につながった、というのは納得。
イエスの復活についての考えも、なるほど〜と思った。

当時の政治や宗教などについて
もう少し知ってから読み直してみたい。

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2015年03月09日

Posted by ブクログ

前著の変奏。興味深いが感銘は受けなかった。人間の完成でも、教祖でもなく、信仰の対象になったイエス。泥臭い弟子たち。時の流れの数奇さ。

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2014年12月15日

Posted by ブクログ

聖書だけでは理解出来ないイエスが処刑された後の使徒たちの考え方や性格がとても分かりやすく説明されていた。賛否両論ある内容だとは思うが。遠藤氏はキリスト教徒のはずだがどこか覚めた視線をお持ちなので、非キリスト教徒が読んでもとっつきやすかった。

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2013年12月01日

Posted by ブクログ

原始キリスト教団とユダヤ教の関係、なぜイエスは神格化されたか。日本人には馴染みのない部分が丁寧に書き込まれているのでわかりやすかった。永遠の同伴者、孤独。

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2013年03月22日

Posted by ブクログ

キリストの誕生、つまり十字架上で死んだイエスが復活して人々のなかで永遠に生きていく経過が語られている。力作だ。キリスト教が短期間で広く普及されるに至った謎を追及している。そして、小説家ならではの表現力でもって、イエスの死後に布教に尽力したヤコブ、ペトロ、ポーロなど登場人物が人間臭く描かれている。それにしても、なんでユダヤの人々はこれほどまでに虐げられるのか?

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2011年11月20日

Posted by ブクログ

「イエスの生涯」の続編。
イエスの死からユダヤ戦争辺りまでの原始キリスト教団における使徒(主にパウロとペテロ)の心理を中心に描く。

盲目的なキリスト賛美でなく、冷静に、人としてのキリスト教団を描いているので、非キリスト教徒の人間にもあまり抵抗なく読み進められる。

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2010年08月11日

Posted by ブクログ

読み終えました。
キリスト教団が初期からそんなにバラバラだったなんて・・・・。
驚きました。
信仰に対するすさまじいエネルギィが伝わってくるようです。

ユダヤ教とキリスト教の違いもよくわかります。

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2009年10月04日

Posted by ブクログ

ネタバレ

 イエスの生涯の続編とでも言おうか、キリストの誕生という本書。単純に、何が違うのかと思ったが、読み進めるに従い、きちんと、イエスとキリストを使い分けて題名にしていたことに気付いた。

 いわずもがなだが、イエスは個人のことで、キリストは救世主という意味で使っている。本書は、イエスが十字架にかかって後、キリスト教が起こるまで、どのような騒乱などがあったか、ということだ。単純に、イエスが死んで直ぐにキリスト教が起こったわけではなく、既存宗教であるユダヤ教との確執など、大きな動乱があったことは思い浮かぶ。

 さて、イエスは死の直前、「主よ、主よ、なんぞ、我を見棄て給うや」という言葉を叫んでいるが、特に、ここの部分は、イエスといえども神に絶望したのか、と早合点してしまいがちだ。しかし、この解釈は、当時のユダヤ人の習慣を知らないために生まれたものであると著者は言う。この言葉は、詩篇二十二篇の「主よ、主よ、なんぞ、我を見棄て給うや」の悲しみの訴えであるが、詩篇を読んだ人は、この悲しみの訴えがやがて「我は汝のみ名を告げ、人々のなかで汝をほめたたえん」の神の賛歌に転調していくことを知っている。この言葉は、決して絶望の言葉ではなく、神を讃美する歌の冒頭部なのだ。事実、ルカの福音書によると、イエスがこの言葉の後しばらくして、「主よ、わが魂をみ手に委ねたてまつる」という詩篇三十一篇の祈りを口にして息を引き取るが、それはイエスが「主よ、主よ、なんぞ、我を見棄て給うや」から始まり、
われ わが魂をみ手に委ねたてまつる
主よ まことの神よ
汝は我をあがなわれたり
の三十一篇の祈りまでを苦しい息の中で祈っていたことをはっきり示しているのだ。つまり、十字架上で人々に語りかける力を失ってからもイエスは朦朧とした意識のなかで詩篇の1つ1つの祈りを唱えていたのであろう。

 生前のイエスは、ユダヤ教徒としても恥ずかしからぬ日常生活を守ったが、心のこもらぬ宗教規範や、義務だけのための宗教生活を重視しなかった。イエスはそうした形骸化したものよりも、人間の哀しみと愛だけに最も価値を置いた。「人が安息日のためにあるのではない。安息日は人のためにあるのだ」という言葉や「人の作った神殿の代わりに、私は三日のうちに別の神殿を建てるだろう」という発言は、彼がユダヤ教徒が何よりも大事にした律法やエルサレム神殿を人間の哀しみや愛よりも問題にしなかったことを示している。にもかかわらず、初期の使徒たちは、イエスを次第に人間以上のキリストとして崇めながらも、相変わらず、律法や神殿を重視する生活を続けていた。イエスの従兄弟ヤコブは敬虔なユダヤ教徒だったからこれらの二つを冒瀆するなど夢にも考えなかったろうし、慎重なペトロは、イエスの精神をしっていながら、表向き神殿と律法を尊重する態度を見せた。そこにステファノを中心とする「ギリシャ語を話すユダヤ人たち」がこうした使徒たちに不満を持ったとしても不思議ではない。ステファノたちはイエスをユダヤ教のすばらしい改革者だと考えていた。イエスはエルサレム神殿も律法も愛よりは低いことを人生をかけて教えたからだ。そのイエスの改革の精神は使徒たちに受け継がれていない。更にこの「ギリシャ語を話すユダヤ人たち」はかつて異邦人、つまり、ユダヤ教ではない外国人とも多く接触していたから使徒たちのように閉鎖的ではなかった。しかし使徒達はユダヤ教の枠の中で異邦人を仲間に使用とは夢にも考えなかった。ステファノたちはこのへんに不満を持ったのだろう。ステファノはこれらの使徒達と袂を分かち、独自にイエスの教えを伝え、広めていこうとするが、当然にして迫害に遭う。迫害の代表的な者はソウロという者だ。キリストの教えに同調する信徒たちは逃亡し、ステファノは石打ち刑にあう。しかし、信徒はこの迫害や逃亡によって、くじけるどころか、逆にその信念を強固にしていった。迫害によって、かえってイエスをキリストと頼む気持ちとイエスの再臨を信じる心は深くなっていた。

 ソウロは、信徒が迫害の苦しみに耐えてまで、なぜイエスの再臨を待っているのか、なぜ、彼らは神殿を否定しながら生き生きとした信仰をもっているのか、考えさせられたのは当然であろう。ソウロから見ると、彼らはイエスと呼ぶくだらぬ男をキリストと仰ぎ、その再臨を信じているのだ。

 我々日本人には理解しがたいが、当時、ユダヤ人の六百十三の律法のなかで最もきびしく守らねばならないのが、割礼と安息日の二つであった。割礼をユダヤ人たちはたんなる民族的風習とは決して考えていなかった。それは彼らの祖先に神が教えた神聖な契約の徴だった。割礼を行うのは神に選ばれた証明であり、神の民となった記号でもあったのだ。
 神はアブラハムに言われた。「男子は皆、割礼を受けねばならぬ。これは私とお前たち、及び後の子孫との契約であって、お前たちが守るべきことなのである」(創世記 十七の9~10)
「割礼を受けぬ男子、すなわち前の皮を切らぬ者は私との契約を破るゆえ、民のうちから断たれるだろう」(創世記 十七の十四)
 この神の契約の徴をユダヤ人たちは行う。だが、異邦人たちは行わない。異邦人とはユダヤ人にとって割礼-神との契約をむすんでいない人間達のことなのだ。

 割礼と共に彼らが重視したのは安息日の厳守である。安息日とは週に一度、我々の暦の金曜の夕方から始まり、土曜の夕方に終わる。この間は今日でもエルサレムの店は閉じ、ホテルでさえ飲酒、喫煙は旅行者に許されぬ時もある。イエスの時代は更に厳格であり、エッセネ派では安息日に信者が排泄することも許されなかった。ラビ(教師)たちはさまざまの不可解な禁止事項を作ったが、たとえばその中にはランプを消すこと、綱を結び解くこと、二つの文字を書くことも許さぬというような常識を超えた項目さえある。我々には滑稽で不可解なこれらの禁止事項は、しかし安息日の神聖をあくまで貫こうとする信念から生まれたと考えれば、理解することができる。割礼も安息日もその根底には選ばれた民がユダヤ教の純粋を徹底的に保持しようとする意志のあらわれなのだ。それは観念などではない、血肉化された彼らの歴史であり、現実であった。割礼を行わざる異邦人を仲間にすること、それは、ユダヤ人たちにとって歴史を冒瀆することであり、神の神聖を犯すことであり、自分たちを裏切る行為だった。彼らはユダヤ教の会堂に異邦人が話を聞きに来ることは拒まなかったが、自分たちの共同体に入れることは拒んだ。もしそれに加わる意志があれば、割礼と安息日の義務を厳しく要求した。

 安息日と割礼の重要性。これを無視して我々は聖書をそのまま読むことは出来ない。あるいは、使徒行伝を軽々しく読むことも出来ない。たとえばイエスが「人は安息日のためにあるに非ず、安息日こそ人のためにあるなり」と発言したとき、それはたんに人間性の重視などという単純な問題ではなく、ユダヤ教が守った神聖に対して、愛の神聖さで挑んだ危険きわまる発言だったのだ。同時にまた、初期のキリスト教徒が異邦人に布教を試みるとき、いかに烈しい抵抗とためらいが教団の中でもあったかを考えねばならぬ。後世、キリスト教は、異民族に布教する時、その異民族の信仰と対立せねばならなかったが、イエスの死後十四年、原始キリスト教団がその母体であるユダヤ教を超えるためには、この割礼の障壁を破らねばならなかった。

 ただ一つの神以外のいかなうものをも信仰することを厳しく禁じたこのユダヤで、一人の男が神格化されることはほとんど不可能に近い。モーゼやダビデも神格化されなかった。なぜ、イエスだけがキリストに高められたのか。それを高めたのは弟子達と原始キリスト教団との信仰である。彼らの意志によってイエスは人間を超えた存在に神格化されていった。イエスは人の子といわれ、神の子となり、メシヤと呼ばれ、キリストになった。

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2018年09月18日

Posted by ブクログ

見捨てたイエスが処刑されるも弟子達を許してくれとかいってるし、すごく悪いことをしたなぁと。これはきちんと考えなきゃいけないぞと弟子達は恥じ、悔しく思った。誤解していた師を再発見したことで、イエスは人の中に復活した。こうして徹底的に考えたものがのちのキリスト教の母体となる。けどユダヤ教の枠を出ず、そのためか異教であるとはみなされずに容認されていた。けどちょっとずつユダヤ教に疲れた人たちにキリストが広まっていったので、あるとき弾圧されたもんだから逆にエネルギーが強まり、キリスト布教活動が本格化する。けどその後グループに亀裂が入る。異邦人相手に布教してもいいんじゃないかという派閥と、異邦人はやめようぜという慎重派。推進派のステファノが神殿よりも愛でしょっていったイエスに倣って、ユダヤ教が崇拝する神殿否定を行なったためにボコボコに殺される。殺しに参加したのがのちに出てくるボーロ。離散派とエルサレム残留派に完全に分かれていくが、離散派はどんどんユダヤ教以外の異邦人に浸透していく。その離散派にことごとく影響を受けたのがボーロ。彼はステファノ殺しに参加したが、それら はユダヤ教が重んじる律法主義に限界を感じでいたから、それを戒めるためにステファノに石打を食らわせたのだった。イエスか律法かと問われたかれはついに改宗し、異邦人布教活動の急先鋒となる。

その頃エルサレムでは事件が。暴君カリグラが即位し、自分を神として礼拝しろと言ってきた。もちろん反対したユダヤ人がカリグラの銅像を壊したところ、カリグラは軍隊を派遣しユダヤ人殲滅に動き始めた。世の終わりに近い終末観の中で、キリスト教は多くの改宗者を獲得していく。キリスは見捨てないと。カリグラ暗殺など諸所ありユダヤ教は難を逃れる。

なぜ、エルサレムの慎重派やユダヤ教が異邦人嫌うかというと、ユダヤ人は律法に定められている割礼と休息日を守っているから。それによって神に選ばれたものだと信じているから。それをしない異邦人は受け入れられない。それでも異邦人布教を続ける離散派にとのあいだに、とうとう会議が開かれることになった。これがエルサレム会議。離散派急先鋒のボーロは、かつてユダヤ教信者であったゆえにユダヤ教の律法の限界を考え抜いた末に感じていた。律法の限界とはつまり「私の欲している善はしないで、欲していない悪を行なっているのだ」とのこと。キリスト以前のイエスに焦点をあてていたエルサレム慎重派(弟子派)と、イエスではなくキリストとしての復活に興味があるボーロ。ボーロは律法の限界から人間を解放してくれ、神は人間とを和解するものとしてキリストを地上に送った。罪もない彼を人間の身代わりとし、人間の全ての罪を彼に負わせ、死を与えることで、救いの道を開かせた。ユダヤ教の枠を超えて布教しようとしたのだ。かたや弟子派も、そもそもユダヤ教から改宗したものも多い。それはそもそもユダヤ教は異民族に国土を蹂躙されてきた歴史があり、そのため常に異邦人を意識しなければならず、改宗したのもキリストこそがそのユダヤ人の苦しみを理解してくと信じだからであった。会議の結果、妥協点として異邦人達がいくつかの条件付きなら教団に入れようと決着した。

その後外で布教を続けたボーロも弟子派のいるエルサレムも滅亡するが、外に布教活動を続けた結果、西アジアやギリシャ、ローマ帝国の各地へ広がっていき、信仰は守られ続けていると。

成り立ち、仕組みが手に取るようにわかった。神の沈黙への課題はそれぞれどう昇華しているのかわからん。昨日飲んだ中山さんがクリスチャンだったのは驚いたけど酒の席とはいえこの手の話はご法度なので、わきまえて調べていきたい。

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2017年12月27日

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イエスの死後,「キリスト」が誕生するまで。そんなの考えたこともなかったけど,とても勉強になった。弟子たちってすごいなあ。

そしてここでもやはり「神の沈黙」がテーマとなっていた。
んんん・・・。

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2016年05月19日

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『イエスの誕生』の続編です。イエスの死後のキリスト教団を率いたペテロやパウロたちの姿を描きます。

著者がとくにこだわっているのは、イエスが十字架にかけられて死んだ後も、ふたたび人間的な弱さに躓くことになる弟子たちの姿です。ステファノのラディカルな主張についていくことができず保身に走ったペテロが、やがてユダヤ人以外に信者を求めるパウロに対して、またしても同じ弱さを露呈することになる姿を描きます。

そのパウロについては、キリスト教がユダヤ民族の枠を超え出ていくきっかけを作った人物として評価されながらも、彼の説く復活信仰の普遍性が、その後ギリシアや日本のような汎神論的な信仰の根づいている地域において引き起こす問題が示唆されています。

もう一つ、著者が熱心に解き明かそうとしているのは、「沈黙の神」と呼ばれている問題です。パウロが悲惨な死を遂げることになり、イェルサレムがローマ人たちの侵攻になすすべなく敗退していったとき、キリスト教徒は「なぜ神は沈黙したままなのか」という問いに直面することになったといいます。そしてこの問題に向きあうことが、キリスト教の信仰にとって課せられた大きな問題だと、著者は述べています。

使徒たちの人間的なの弱さに迫っていく著者のまなざしに感銘を受けました。

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2017年12月03日

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 『沈黙』、『海と毒薬』、『イエスの生涯』、『白い人・黄色い人』に続いて、「遠藤周作文学館に行く前に遠藤周作を読みましょうシリーズ」の第5弾。『イエスの生涯』の続編としても位置付けられる作品で、イエスの死後、イエスがキリストとして信仰の対象となる過程、原始キリスト教が成立していく過程を、弟子たちの視点で描いたもの。
 率直に言って、おれは『イエスの生涯』よりは、興味が持てた部分が少なかった。たぶん弟子たち、というのはイエス自身よりもさらに馴染みがおれにとっては薄いからだと思う。それでも、ペトロとポーロという対照的な2人の生きざまがありありと浮かんでくる筆致が面白い。ペテロがポーロやユダヤ教と駆け引きをする部分には緊迫感があるし、70年のエルサレム攻囲戦の様子は臨場感がある。ステファノという弟子についても知らなかった。
 キリスト教の歴史について、知らなかった多くのことが、歴史小説を読むように知ることができたことは良かった。(11/12/--)

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2011年12月15日

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イエスの死、使徒たちの死、そしてエルサレムの陥落。葛藤と絶望に満ちた原始キリスト教団の姿と、解けない「謎」を提示して、遠藤周作の語りは終わる。もしかしたらエルサレム陥落後、なぜ神は救いに来てくださらないのか、という疑問が蔓延したからこそ、その答えとして、原始キリスト教においてグノーシス主義が一定の勢力を持ったのかもなぁ。という仮説。

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2011年07月05日

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この作品も、読んだのはハードカヴァーで二十歳のころ。

タイトルのとおり、イエスの死後、弟子たちによって<誕生させられたキリスト>の背景。
すなわち、新約聖書の「使徒行伝」をベースに、キリスト教成立の物語である。

田川氏もコチラはそれなりに評価している。

(この項、書きかけ)

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2009年10月04日

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アンドリュー・ロイド・ウェバーの「JCS」にはまって読んでみました。

キリストの今までのイメージが変わりました。

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2009年10月04日

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