【感想・ネタバレ】ゲーム的リアリズムの誕生 動物化するポストモダン2のレビュー

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Posted by ブクログ

動物化するポストモダンの延長で今それを体現している文学について書いてある本。ライトノベルや今の前衛的な作品のメタさゲーム世代の感覚や感性がよくわかると思う。結構な射程のある本だと思うし随分とスッキリした。

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2017年12月18日

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オタク世界をちょっとかじっただけの自分でしたが、「なるほどなぁ」と楽しく読めました。
舞城王太郎さんを知るきっかけにもなった一冊です。
「九十九十九」の最後の方の見立てのくだりがすごく好きです。


ん、これは「九十九十九」の感想になっている…?



この本のおかげで
→メフィスト賞巡礼
→西尾維


って読書領域が広がりました。
そう考えるとなんとなく懐かしい気分。

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2013年08月31日

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ネタバレ

本書にも言及のある通り、社会と物語との関係について述べたもので、ラノベや美少女ゲームが考察の中心。
キャラクター小説、データベース消費、まんが・アニメ的リアリズム、ゲーム的リアリズム、想像力の二環境化、自然主義的読解、環境分析的読解、コンテンツ志向、コミュニケーション的志向、文体の半透明性。
本書で言及される世界に初めて立ち会う人でも分かるくらい説明が丁寧でありつつ、その主張は斬新。
前半の理論編は個人的にかなり参考になった。
背景知識が豊富な著者なので説得力がある。宇野氏がゼロ想で批判していた点も見直してみたい。

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2013年05月14日

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ネタバレ

前作よりも刺戟的。
なるほどキャラクター小説の読み方とはこうか、とひざを打つことしばし。
もちろん作品の選定に偏りはあるとはいえ。
さすがあずまん。

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2012年11月01日

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「物語」は不定形なものであり、書き方も、読み方も、それが姿を現す場所も、昨今においては、確率論でしかないように僕には思えていたのだけど。

その考えを大きく覆してくれた、『ゴーストの条件〜クラウドを巡礼する想像力〜』(村上裕一)から遡ることで、本書へと辿り着いた。

これはもう、東さんかっけー! という気持ちしかない。

美少女ゲームやキャラクター小説も、実際に自分で触れ、しかもかなり深いところまで入り込んでいるため、統計データで語られるものとは、言葉の熱もまったく違う。

読んでいるこちらのテンションが上がってくるのは、全体を通して、肯定的な目線で先を見据えて書かれているからだろう。

本書で説明される、「自然主義的読解」と「環境主義的読解」については、さまざまな作品を理解し楽しむうえで、たしかに両方が必須になっていると感じる。

そして、純文学だエンターテイメントだ萌えだゲームだと、分別している場合ではないと、より強く思った。

説明もていねいで、具体的な作品の読み解きも熱く、面白すぎて息切れした。

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2011年10月20日

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ネタバレ

「80年代生まれの第三世代オタク」をライトノベルや美少女ゲームあたりから論じていたもの。
今のその辺がはやってる状況だから、必然的にその消費世代への言及が多かったんでしょうか。

ちょうど自分の世代の話(どちらかというと男性向けの話が多めでしたが)で面白かったです。
遥か3の時空跳躍な設定は、男性向けのあたりを参考に作ったのかも知れませんね、と思ったり。

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2013年09月13日

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面白く読めました。環境分析的な読解とは、どういったものか?読むと分かります。
あと、最後の参考文献は、結構読んでいたけど、それを使ってこんな風に本が書けるとは!
自分には、本を書くのは、難しいのかな?とも思いました。

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2021年03月28日

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批評家 東浩紀氏が2007年に発表した著作。大きな物語が終焉を迎え、個々の物語にシフトした現代を呼称するポストモダンをオタク文化から眺める2001年の「動物化するポストモダン」の続編です。今回は、ライトノベルや美少女ゲームをスタートにして、一般文芸へと橋渡ししています。取り扱っている題材から、どうしてもオタク文化論に見えますが、文学論として捉えたほうが良いと思います。

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2020年07月17日

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年明けくらいに本著の前編『動物化するポストモダン』を読みました。そのときに「東氏の著作のつながりが見えてくると面白いのだろうなあ」と記していました(以前のInstagram)。続編である本書はまさにつながりが見えてとても面白かったです。

「前著を前提としているが,単独でも読めるように書かれている」(p.14)本書ですが,可能であれば前著を読んだ後に読むと議論の深まりが感じられるように思います。

前著で提案したポストモダン論を礎に,作品を想像する環境が二環境化していること(「現実」と「データベース」)を指摘し,そしてこの論点が既存の文学批評と対応関係を持つことを論じます(自然主義的リアリズムとまんが・アニメ的リアリズム)。

しかし,既存の文芸批評では評価の低かったメタ物語性(物語の結末が一つに定まらない)をもつゲーム的な小説が,メディアという視点(コンテンツ志向メディアとコミュニケーション志向メディア)を加えることで,新たな文学の可能性=批評を有することが論じられます(ゲーム的リアリズムの誕生)。

物語の読解から物語の構造の読解へ。「自然主義的な素朴な読解と異なり,物語と現実のあいだに環境の効果を挟み込んで作品を読解するような,いささか複雑な方法」(p.157,傍点省略)である環境分析的な読解へ。

文学論でもあり,メディア論でもあり,批評の方法論としても読める貴重な本かと思いました。

ところで,ポストモダン化に伴う作品の変化として以下のことが指摘されていました。

「自然主義の足枷から解放され,面倒な情景描写や人物設定をする必要を感じない若い作家たちは,その多くが,読者への刺激を最大限かつ最速にするため,サブカルチャー的な記号をできるだけ効率よく配置しようと試み始めている。つまりは,分かりやすい展開を備えた印象的なキャラクターと,同じく分かりやすい展開を備えた類型的な物語を組み合わせ,そのうえでいかにディテールを積みあげて読者の心を動かすか,という点に作家の関心が移っている。(p.299)

先日,『ぼくは愛を証明しようと思う。』の読書感想で「物語のプロットはありきたりです」と記しましたが,この指摘を踏まえて考えると違う読解ができるなと思いました。

物語のプロットがありきたりなのも,登場人物がよくある感じ(非モテ男性とマッチョイズムなモテ男性)なのも,ディテール(恋愛工学)による読者へのインパクトに関心があったからなのかな,と。そしてそれが功を奏していて,『ぼくは愛を証明しようと思う。』を読むと,心だけでなく身体も動かす影響力を持っている。そのようにも読解できるなと思いました。

いつの時代の本なのか?という視点で小説を読むのも面白いなと思いました。
 

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2020年05月01日

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大まかに前半が理論的な内容で、ゲーム的リアリズム自然主義的な読解に対する環境分析的な読解等が説明される。後半が環境分析的な読解による具体的な作品批評、という構成。
後半により、かなりクリアに色々理解できた気がする。俺はこの本で主に取り上げられている類の小説、ラノベとか舞城王太郎は殆ど読んでなくて、数少ない接点である例えば西尾維新原作の漫画とかは何となく圧倒される感じだったけども、なんかその圧倒される理由の構造的な部分が理解できた。

この本が書かれた2007年は、ゲーム的リアリズムは虚構の世界に軸足があったように思えるけども、現在(2018年)は現実がかなりゲーム的になってきていて、現実が糞ゲーに思えて、政府を始め社会を動かす人組織仕組み全般をゴミ運営として捉えているのかな、と考えながら読んだりしていた。

そういう流れで、最後の方の、

"私たちは、メタ物語的でゲーム的な世界に生きている。そこで、ゲームの外に出るのではなく(なぜならばゲームの外など存在しないから)、かといってゲームの内に居直るのでもなく(なぜならばそれは絶対的なものではないから)、それがゲームであることを知りつつ、そしてほかの物語の展開があることを知りつつ、しかしその物語の「一瞬」を現実として肯定せよ、これご、筆者が読むかぎりでの、『九十九十九』のひとつの結論である。"

っていうのに何故かとても感動した。

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2018年05月06日

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オタク論でありポストモダン論であり文学論。
ラノベにも美少女ゲームにも触れたことのない人にとっては理解しにくいかもしれない。そういう人でも理解しやすいように本文中で詳しく説明されているが、やっぱり実感としてわかるかどうかは大きな違いだろう。

本書は2007年に出版されたが、2016年現在、ここで予言されていた新たな文学のあり方が当時よりも顕在化、加速化している気がする。メタ物語的な想像力に支えられた物語、読者を物語の中に参加させる手法は今や定番でありふれたものだし、当時よりもずっと、物語外の世界の権力は物語そのものを押しのけて肥大している。
物語外の世界(読者/消費者/プレイヤー)に重心を置き物語外の物語を膨らませる手法すら、今はデータベース化されている気がする。さらにいえば物語外の物語すらデータベース化されている。
というのは、まず物語は重要ではなく主役はコミュニケーション、あるいは手軽に自分の欲しい感情(泣く/ときめき/きゅんきゅん/義憤/切なさ)であり、物語はそのために偶然に選択された使い捨ての道具であるように思える。そしてコミュニケーションや感情の内容に意味はなく、コミュニケーションをすること自体、感情を発生させること自体に意味があるように思える。だから簡潔に手っ取り早く記号的なコミュニケーションと感情を手にするために、物語外の物語すらシンプルであることが好まれデータベース化された、と考えるからだ。

昨今の氾濫する物語群とその環境を見て、元オタクの元少年の私はそう考える。
でもたぶん、思春期時代の自分がこの文章を見たら憤慨するだろうなと思う。今の私にはもうわからないが、外から見るよりもずっと繊細な時代ではあるから。

でも外から見ると、物語もそれに対する読者の反応も、反応の仕方や文面まで含めて驚くほど画一的なんだもの……。某web漫画アプリとか見ていると、次のきゅんきゅん、その次のきゅんきゅん、また次の使い捨てきゅんきゅんを求めてあくなき徘徊を繰り返す肉食獣みたいに見えて。そして同時にその無限のきゅんきゅんを共有する仲間とのコミュニケーションが至上の喜びに見える。

あと美少女ゲームをやってるオタクが「純愛」と「浮気」の矛盾した欲望をどちらも満たせるっていうのは面白いと思った。確かに個別ストーリーは純愛なのに、プレイヤーはいろんなキャラシナリオ楽しめるから浮気心も満たせるよね。

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2016年02月05日

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最近のアニメは時間ループものが多いなぁと思っていたら、この本で詳しくそのことが解説されていた。

ゲームだけでなく、n次創作の文化にすっかり馴染んでしまった私達にはその世界にリアリティーを見出すのもなるほどなー、と思いました。

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2012年05月23日

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ネタバレ

一章読んでから結構時間が空いてしまってから二章以降を読んだけれど、面白かった。
とはいっても、本文中にあるような、オタクの中心が美少女ゲームからライトノベルへ移行、からさらにいまは深夜アニメへ、になっているのかな、と思った。そういう所も含めて、2012年になってしまって結構変化してきた事態もあるとおもうので、動ポモ3を期待したいのだけれど、最近はもはや筆者にコンテンツ批評に興味が無いようなので、寂しい限り。。。

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2012年03月23日

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ライトノベル→キャラクター小説

自然主義的リアリズム→透明
まんが・アニメ的リアリズム→不透明
ゲーム的リアリズム→半透明

自然主義的読解→物語的主題
環境分析的読解→構造的主題

>日本文学は、一〇〇年前に自然主義を輸入し、六〇年前にそれをマンガに輸出し、三〇年前にその理想をあらためてマンガから逆輸入することで、キャラクター小説を生み出したまんが・アニメ的リアリズムには、その理想が屈折して畳みこまれている。その屈折は、キャラクター小説に、いままでの自然主義的な写生とは異なる、「不透明な」表現を可能にする。つまりは、キャラクター小説には、その歴史的な経緯から、近代文学とは異質な文体の可能性がある。

>私たちは、一回かぎりの生を、それが一回かぎりではなかったかもしれない、という反実仮想を挟みこむことで、はじめて一回かぎりだと認識することができる。

キリヤの状況=「ポストモダン化の進行の中、選択肢の多さに圧倒され、特定の価値を選ぶことがますます難しくなっている、私たち自身の生の条件の隠喩」

『ひぐらしのなく頃に』のご都合主義的な物語の下には、物語外の現実とつながった感情操作のメカニズムがあり、そこに作家の現実感や世界観、あるいは「哲学」を読み取ることができる。/「もっともっと、私たちは幸せになれるから」「望んだ数だけ、幸せになれるから」という言葉に対して、物語のご都合主義とは全く別の水準で、あまりにも非現実的で多幸症的だという疑義を呈する。複眼性を持つ批評。

批評的=臨界的(critical)。特定のジャンルにおいて、その可能性を臨界まで引き出そうと試みたがゆえに、逆にジャンルの条件や限界を無意識のうちに顕在化させてしまう、そのようなアクロバティックな創造的行為一般を指す形容詞。

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2012年03月06日

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先日の芥川賞選考における、石原都知事の「自分の人生を反映したリアリティーがない」との指摘に対する返答である。石原都知事の指摘はある意味でもっともであり、しかしある意味では的外れである。動物化するポストモダンと本著を通読し、その意味が理解できた。そしてそこから今まで考えられることのなかった「寓話的で幻想的でメタ物語的なポストモダンの実存文学」の系譜に目を向けることができる。

大きな物語の消尽のあと、もはや自分が動物=キャラクターでしかないことを知りながらも、それでも人間=プレイヤーでありたいと願ってしまう私たち自身(東浩紀)の、実存に関わる一読のみならず、人生において何度も読み返したい一冊。

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2012年02月04日

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西尾維新や舞城王太郎などの講談社ノベルス作家、馴染み深いハルヒシリーズをとりあげ、それらの作風と絡めながらいわゆるポストモダンの現代社会を批評している。そういうことだったのかと思えるような面白い分析、前作の動物化するポストモダンよりもとっつきやすいかもしれない。

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2011年04月29日

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 大きな物語の終焉と小さな物語の氾濫、増殖がポストモダンの特徴であると著者は指摘する。前近代においては、人々は神話や民話を通して現実を、近代では写実的現実を表現した自然主義的文学から現実を、知ろうとしたのに対して、ポストモダンではキャラクター小説にみられるデータベースを前提として成立した新しい現実を求めることになっている。理想の時代・虚構の時代が過ぎ去り、いまや、身体性を伴った快感原則の追求が希求され社会について人々は考えなくなる時代を「動物の時代」としたのだった。
 このような時代にあって、まんが・アニメ的リアリズムの台頭ののち、ゲーム的リアリズムが誕生することになった。これは時代環境に導かれた必然であるともいえる現象であったのだ。マンガ、アニメは記号的表現でありながら、あるいは記号的表現であるがゆえに、身体性をいかに持たせることができるかというのが課題であった。すなわち、死にゆく身体をどうやって「現実」として表現できるかということである。他方ゲーム的リアリズム的作品は、キャラクターがたった一つの物語を生きるのはなく、別の物語の中でも生きることが可能であるかのように錯覚されることができる。通常ゲーム的というのは、死の一回性が意識されない。なんどでもリセットが可能でだからである。しかし、リセット可能であるという環境にあるからこそ、受け手は、いつかなんらかの物語を選択し同時に喪失を受け入れなければならないというメッセージを意識することが逆説的に可能になる。もしゲーム的リアリズムに文学的可能性が開かれるとしたら、こうした方向であろうと著者は予想している。

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2011年07月24日

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 ポストモダン下では大きな物語は衰退し、データベース消費に基づいた小さな物語が多発し、また消費者はそれを受け入れている。ラノベや小説、ゲームの中に存在する一貫した部分を著者は見出しているし、実際説得力がある。作品を作る側はもちろんひとりひとり違うし、個性が出てくるのは当然なんだけど、実はそのひとつひとつも大きな枠組みの中で見ればどれも一貫してゲーム的リアリズム性を持っている。環境分析的な視点はなるほどなーと思いました。

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2011年02月12日

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常に多様な物語の可能性を開いてしまうメタ物語的想像力の侵入により、「たった一つの終わり」を語ることが難しくなった時代におけるリアリズムとは一体どのようなものか。
その可能性の一端を垣間見せてくれる一冊。

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2010年10月31日

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前半ではラノベを社会学的・文学的見地から紐解いていく。後半はゲーム的リアリズムというアプローチから展開される個別の作品論。個人的には本書の主題だと思われるゲーム的リアリズムの話題に入る前のポストモダン論のほうがとても興味深く読めた。ゲーム的世界観から現実を描く手法なんかはオタクやってれば体感的に気付いてることだしね。前半部分はラノベ的なものを好きな人・懐疑的な人、書いている人・書きたい人は、若干難しいかもしれないけどぜひ読んでほしい。

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2010年07月13日

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最新の文芸を過去の延長線上のもの、継承されたもの、社会の影響を受けたものとして捉える視点は傾聴に値する。やや、自身の少年期の芸術にノスタルジアを感じているような書き方は抵抗があり萎えるかもしれない(私はかなーり萎えた)。
その欠点を補ってでも、天平から平安、鎌倉へと文化が解体したように大正、昭和、平成への解体を捉えることは私には快楽だ。
実際に今の若い世代が直面しているコミュニケーションの(欠如/過充足の)問題とも兼ね合うのだから(後の著書の「リアルのゆくえ」に続く)。

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2010年06月08日

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「動物化するポストモダン」の続編にあたる本書は、さらにライトノベル、そして美少女ゲームにまで範囲を広げ、オタク文化を考察している。
しかしこれまでサブカルチャーとされてきたアニメやゲームの世界が、最早マスカルチャーになったと言っていい状況は、どのように分析をするのかさらなる続編が期待される。

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2020年11月10日

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「物語は何処に行ったのか?」

ライトノベルや美少女ゲームを通じてオタクとこの社会との関係性を見ていく。

大きな物語が力を失うなかで、文学の一つの可能性としてのライトノベル。コミュニケーションの効率化としてのキャラクターを使った伝達。

第一章は 理論 第二章は 作品論

ライトノベル→キャラクター小説

ライトノベルというものが市場の中でも大きなインパクトを持ち出してきている昨今、文学というものを考える上でも無視できない。また普通の文学小説とライトノベルの境界にあるような小説も最近では見られる。

そういったものを考えていくうえで一つ参考になる論考であろう。

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2018年10月09日

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インパク知5・5
かかった時間180分くらい

『動物化するポストモダン』の続編。前著?がオタク文化の分析を通じてなされた社会批評だとすると、本作はオタク文化の分析を通じてなされた文学(可能性)批評だという。

大きな物語を喪失した私たちは、等価値的な、すなわち多様性が認められるかわりにとことん無価値的にも思える生を生きている。「ゲーム的小説」は、そんな時代を反映する、リセット可能で攻略対象化されたいくつもの現実と向き合う(または向き合わない)プレイヤー的登場人物と、リセット可能で攻略対象化されたいくつもの虚構と向き合う(または向き合わない)読書の関係が重ね合わされて描かれている「文学」だというのが、筆者の主張である。

東浩紀については、たしか2013年出版の『セカイからもっと近くに』から読み始めていま3作目だが、『動物化』で行った社会批評をもとに、オタク文化(とくにセカイ系)の文学解釈に至るための、本作は過渡期なんだなあということがわかった。作品として洗練されまくっているわけではない(自分自身も集中して読み切れなかった面もある)が、おもしろくは読めた。

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2018年07月24日

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とびとびで読んだのと、僕自身がラノベや美少女ゲームに興味がないため、ちょっと理解しづらかった。今度、清涼院流水や西尾維新あたり読んでみよう。あと、舞城王太郎か。

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2013年02月11日

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取り上げられる作品は新しくなったがベースの理論は変わらないか。
ビジュアルノベル、清涼院までは買えるが、どうしても舞城をそこまで評価できない(単に、描写が不快だからなのだが)。
本作から4年たった今、筆者の目はもうこの分野には無いのかもしれない。

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2012年02月21日

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ネタバレ

筒井さんに出された宿題「ポストモダンの文学」、これに対して「ポストモダンでは文学は求められなくなる」と悩み始めてから約10年。ようやく出せた解答が本書である。最初にいつもの東さんだ。ブログ論壇の展開で「劣化東」と言われる人々(僕も含む)が増える中、ポストモダン批評とサブカルチャーを繋げ広めたオリジネイターだからこそ、ブログ論壇を読みあさる僕にとっては新鮮味がなかった(笑)。なので粗読(拾い読み)。清涼院流水、西尾維新など敬遠していた作家の読み方がようやくわかった。物語内に収拾されない『メタ』が大事なのだ。

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2011年11月04日

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ネタバレ

 著者の前著『動物化するポストモダン』はオタクの動向だけでなく日本社会全般に当てはまる「『大きな物語』の衰退→物語消費からデータベース消費」という流れに言及したが、当書はオタクの消費活動及び、消費の対象となる作品(「ひぐらしのなく頃に」など)の構造について焦点を当ている。

 リオタールの言う「大きな物語」とは高度経済成長期の日本で「仕事を頑張れば明日は今日より良い暮らしができる」というように国民全体に広く受け容れられたスローガン、価値観のこと。ポストモダンはそのような大きな物語が衰退して、拡散的な小さな物語が生まれ、社会やライフスタイルの多様化が尊ばれる時代である。

 前著の内容と被りますが、ポストモダンの徹底化により台頭したのが「萌え」と「データベース消費」である。漫画やライトノベル、ゲーム、アニメのキャラクターは「眼鏡っ子」、「ツンデレ」、「先輩」、「妹」といった「萌え要素」という単位まで分解され、その萌え要素を集めたデータベースそのものが消費の対象となっている現象を「データベース消費」と表現する。

 ちなみにこうした傾向はキャラクターの自律化や二次創作の増加といった現象を招く。たとえば、作品ごとにキャラクター設定の一貫性に欠け、作者自ら「シリーズものではない」と公言する「東方Project」には二次創作で作られた設定が次の原作に反映されるなど、こうした動きが顕著に表れている 。

 データベース消費が作品内に強く現れることで、ゲーム的リアリズム(ゲームのような現実)が誕生すると言う。それは、

「ポストモダンの拡散した物語消費と、その拡散が生み出した構造のメタ物語性に支えられている。その表現は、まんが・アニメ的リアリズムの構成要素(キャラクター)が生みだすものでありながら、物語を複数化し、死をリセット可能なものにしてしまうため、まんが・アニメ的リアリズムの中心的な課題、すなわち『キャラクターに血を流させることの意味』を解体してしまう。(P.142)」

と説明されます。その「ゲーム的リアリズム」が生んだのが「ONE」、「ひぐらしのなく頃に」、「九十九十九」といった作品だとされる。

 ただ、「大きな物語の衰退→現実認識の多様化」の流れを唯々諾々と受け容れるだけでは「人それぞれでいいじゃん」という単なる相対主義で思考停止してしまう。

 自分の取り巻く環境を能動的に変えようとするのではなく、受動的に変化に適応しようとする点で、この唯々諾々と受け容れる姿勢は「動物的」である。ただただ美少女に「ブヒる」ことで消費する「萌え豚」という言葉が人口に膾炙するようになったことと無関係ではあるまい。

 最初に読んだのは4年前だが、この本が『涼宮ハルヒの憂鬱』を読むきっかけになって、そこからいろいろな漫画やライトノベルに触れるようになったことを考えると、不思議な因縁を感る。

 そして、4年前に読んだときに内容をほとんど把握できなかったのに、今はできることが感慨深い。今となっては言いたいことも結構あるが。

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2011年06月18日

Posted by ブクログ

前半は大塚英志さんの話をもとに、小説について。
後半は「物語と現実のあいだに環境の効果を挟み込んで作品を読解する」環境分析的な読解でいくつかの作品について。

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2010年06月28日

Posted by ブクログ

本書に限らないことだけれど、本書を読んで改めて感じたのは、批評ってのは結局「後追い」でしかないのかなぁ、ってことで、いろいろ啓蒙ぶった言説を開陳していらっしゃるけれどそのほとんどが既に感覚として共有され尽くしていることで、本書はその共有感覚を明文化して追認する意味しか認められない気がする。もっともそれを認めた上で頭の中を整理する分には有用だけれど、批評家がそうやって一生懸命現状を明文化して見せている間にも舞城王太郎のような器用な書き手は次の新しい一手を繰り出しているのだろう。

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2010年06月07日

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