59歳の若さで亡くなつた海老沢泰久氏。今年は生誕70年といふことです。この人の文章はいいんですよ。
何を選んでも良いが、広岡達朗や堀内恒夫などは既に取り上げてゐるので、これまた傑作の誉れ高い『美味礼讃』の登場であります。
『美味礼讃』といへば、ブリア・サヴァランの書物を思ひ浮かべますが、本書は「辻
...続きを読む調理師専門学校」の創始者である辻静雄の評伝小説であります。わたくしも彼の著書を昔いくつか読んだことがありますが、まあフランスとフランス料理に詳しいをぢさん、くらゐの認識でありました。
しかし辻静雄がかうなるまでには、かなりの偶然といふか、運命のいたづらに左右されてゐるやうです。大学の仏文科を出たは良いが(仏文科なんてツブシのきかぬ学科をわざわざ.....)、就職試験に悉く落ちて、最終的に大阪読売が拾つてくれたとのこと。大阪読売は当時、東京から進出したばかりで、人材が不足していた事情があり、何とか引つ掛かつたのでした。
ある日、交換留学で来日してゐたアメリカの女子高生を、天王寺割烹学校へ連れてゆく仕事がありました。それが縁でその学校の校長・辻徳一の娘と知り合ひ、後に結婚する事になります。即ち、辻静雄はフランス料理の専門家でも何でもなかつたのであります。結婚後、彼は辻徳一の後継者となるべく、大阪読売の記者を辞めるのでした。
辻静雄は調理師学校に将来ありと睨み、辻徳一の協力を得て「辻調理師学校」を開校します。同時に、生涯の右腕となる山岡亨を事務長として迎へます。この人物がまた中中のもので、彼なくしてはその後の辻静雄の成功はなかつたかも知れません。
当時の料理界といふのは、後輩に料理を教へる習慣がなかつた。どつかれながら先輩の技を盗むものだつたさうです。学校で体系的に教へるなんて考へられなかつたと。それは料理人本人の自信の無さが原因なのでせう。
更に問題は、フランス料理の学校を作つても、教へる人がゐなかつた。当時はフランスまで勉強に行つたシェフでも、ろくな知識がなく好い加減な料理をフランス料理でございと披露してゐたのでした。
それなら、辻静雄本人が渡仏して、本物を勉強するしかない。義父・辻徳一の金銭的援助の元、夫婦でフランス料理行脚を始めます。フランスでは様々な知己を得て、その後のビジネスに大いに役立つことになります。
同業のやつかみからくる種々の妨害や、目をかけてゐた料理人の裏切りなど、逆境もありました。しかし辻静雄はそのたびにそれらを跳ね除けて、料理の総合カレッジを完成させてしまふのです。もはや追随できる勢力はなくなりました。
それでもこの人は、自分が成功者とは思へないのでした.....
一読して、なぜ海老沢泰久が辻静雄といふ人物に興味を持ち、評伝を執筆しやうとしたのかがわかる気がいたします。しかし海老沢泰久さんは押しつけがましい文章を書きません。一見事実をそのまま、のほほんと書いてゐるやうで、実は高度な文章作法が駆使されてゐます。
気取つた、分かりにくい癖に内容の薄い文章を好む人にとつては物足りない文章かと思ひますが、実は達意の文章とはかういふものを呼ぶのだらうとボクは思ふのです。