これは、児童向けの童話として書かれたものですが、現代においては、むしろ大人が読むべき一冊となっているように思われます。
それは、相当な年配者が、懐かしく読むのではなく、壮年期の闊達に日々を生きているはずの年代が読むべきだろうと思います。
はたして、「自分たちはどこに生きているのか」「誰と生きているの
...続きを読むか」、そもそも「何をしているのか」気付くために。
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現代日本人は、何かにとり憑かれたように、考えることも、確認することもなく、まっしぐらに走っている。
それは、走ることを半ば強要されているからでも有り、そのことに或いは気付きながらも、批判することなく従っている結果のように思えます。
何に向かって走っているのか、その先に何が有るのか、そしてどうなるのか。
立ち止まって、自らの足下を見て、確かめる時ではないでしょうか。
何が正しいとか、如何すべきとか、それは自分が見て・聞いて・考えて決めることであって、周りを見渡して答えらしきものを求めることではないでしょう。
今、起こっていることの果たしてどれくらいが見えているのだろう。
これから起こるであろう事がどれくらい予測できているのだろう。
そして、自分はいったい何を選ぶのだろう。
戦争の時代を生きた人々の姿をここに見た時に、はたして私ならどのように生きたであろうかと問うてみる。
そこに、自分の姿が見えるでしょうか?
この物語の主人公は、自らと仲間達、そして国家が行った過ちを目の当たりにし、多くに気付いたのでしょう。
気付いたから彼はそのための行動を行った。
果たして、私たちは、今現在について、起こっていることを目の当たりに見ているだろうか、気付いているだろうか。
そして、何かに気付いた時、私たちはどうするのだろう?
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本書の著者”竹山道雄”氏の名前を、意外なところで見た。
NHKの製作したドラマ「東京裁判」だった。
戦後の日本が戦勝国によって裁かれた裁判だが、このドラマでは、その裁判の内容と共に、そこに集まった各国を代表する判事たちの姿が描かれていた。
そして、その判事の一人、オランダのレーリック判事と竹山の交流が描かれていた。(ちなみに竹山道雄役は映画監督の塚本晋也さんだった。)
この時は、あまり大きな意味を感じなかった、というより「何故?」っと言う感想だった。(本書を読んでいなかったし、映画も見てなかったから)
この二人の交流の逸話は事実らしい。
そして、竹山はまさしくここに登場するにふさわしい日本人の一人だったといえる。
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竹山が本書『ビルマの竪琴』を書いた理由については、本書の巻末に「ビルマの竪琴ができるまで」「あとがき」に記されている。
自らは、戦地へ行ったことはないものの、多くの教え子を戦地へ送る側としてこの戦争にかかわってきていた。そして送り出した教え子達が戦地に散っていったと言う経験をしている。
戦地の経験もなく、戦後、その戦場の情報も少ない中で、それでも書こうとしたのがこの物語だった。
それにしても、その発表の場所が児童向けの雑誌というのがピンと来ない。
それについて、戦後の雰囲気がそうさせた状況が書かれていた。戦争に負けた日本人は、もう戦争について聴きたくなかったのだろう。そういうことには反発が有った。たとえ、それが戦没者への鎮魂の物語だったとしても、受け入れられなかった。そういう風潮に対して、忘れてはいけない出来事を記すようにこの小説が書かれ、それは曇りのない心で手に取って読まれる児童書と言うことになったのだろう。
今、この小説について、「大人向けの小説として書かれていれば」と残念に思うものも多く有るだろうけど、そこは著者も含め、その時代の成せるわざという事になる。これは、児童書で完結して良かったのだと思う。
一方で、後に市川崑監督によって映画化されたそれは、大人をも感動させる大作となっているのだから、物語の面白さは奥が深い。
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東京裁判の判事と竹山の交流の意味は、竹山の社会に対する姿勢に有ったのだと思う。
本書の巻末の解説に、戦前の竹山の発言について有る。
昭和十五年四月の雑誌『思想』に「独逸、新しき中世?」と題した文章を書いていて、これはナチズムと全体主義をはっきりと批難したものであったという。
戦前の日本において、公然とナチスを批難するというのも、欧州への留学経験や、そこで得た見聞・知見、それらを元にした世の中の見方が成せることだろう。
一方で、戦後、負けてしまった日本について、既にそれらを認めることはもちろん、その戦没者達を思う気持ちすら失ってしまった頃、本作を発表することで死んでいった者たちを弔うという、極々まっとうな姿勢を示したのも著者の冷静で揺るぎの無い視点なればこそと思う。
そんな著者であればこそ、東京裁判において、「人は戦争を裁けるのか」という大命題と向き合っていた判事と交流できたのだろう。
広い視点に立ち、今、自分が目の前にしているものとどう向き合うのかを考え続けた竹山道雄という人の大きさを感じる逸話だったと思う。
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印象的な一節
ビルマ人と日本人の違いを話しあっている場面でした。
ビルマでは、一生に一度僧侶になって修業をします。
一方の日本人(ここに居るのは出征してきた軍人達)は、軍服を着て教練を受けています。
その違いを見て、どうなのだろうという議論です。
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「一生に1度かならず軍服をつけるのと、袈裟をきるのと、どちらの方がいいのか?どちらがすすんでいるのか?国民として、人間として、どちらが上なのか?
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まず、この両者のちがいは次のようなことだと思われました。
若いころに軍服をきてくらすような国では、その国民はよく働いて能率が上る人間になるでしょう。はたらくためにはこちらでなくてはだめです。
袈裟はしずかにお祈りをしてくらしているためのもので、これでは戦争はもとより、すべて勢いよく仕事をすることはできません。若いころに袈裟をきてくらせば、その人は自然はとも人間ともとけあって生きるようなおだやかな心となり、いかなる生涯をも自分の力できりひらいて戦っていこうという気はなくなるのでしょう。
・・・
人間の生きていき方がちがうのだ、ということになりました。
一方は、人間がどこまでも自力をたのんで、すべてを支配していこうとするのです。一方は、人間が我をすてて、人間以上のひろいふかい天地の中にとけこうもうとするのです。」
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児童書の中の一場面で、こんな会話がサラッと登場してくる。
これを読みきることが出来る子供たちって…
とにかく、こんなにも深い物語を子供だけに読ませておくのはもったいない(笑)。
読みごたえの有る良い本でした。