著者の大友良英氏は,即興演奏やノイズミュージックなど,実験的
なジャンルで活躍してきた音楽家で,一般参加型の音楽プロジェク
トや障がいをもつ人々との音楽ワークショップなど,音楽の可能性
を探る試みを国内外で手がけてきた方でもあります。そんな大友さ
んがその名を知られるようになったのは東日本震災の後。
...続きを読む高校時代
を過ごした福島で立ち上げた「プロジェクトFukushima!」が話題と
なり,NHKドラマ「あまちゃん」の音楽を担当したことで,一気に
ブレイクします。
音楽家でありながら,小学校での音楽の授業が大嫌いだったという
大友さん。本書は,そんな大友さんによる,一般の人を相手にした
音楽の授業の記録や音楽仲間との対談,自伝的音楽論で構成されて
います。音楽のあり方がテーマですが,教育のあり方や社会のあり
方まで射程に入った,実に刺激的な議論が展開されています。
本書を読もうと思ったのは,ラジオで大友さんの話を聞いたことが
きっかけでした。その訥々とした語りの中で,大友さんが問うてい
たのは,多様な人々と共に生きるための方法であり,そのための音
楽のあり方でした。そのことに感動し,興味をそそられたのです。
学校で教える音楽は,多様性の対極にあります。バッハやベートー
ベンやモーツァルトは教えられるけれど,三波春夫が教えられるこ
とはない。ロックやポップスを教える先生はいるけれど,それだっ
て「こういう素敵な音楽があって,それを歌ったり演奏しましょう」
という意味では,やっていることは変わらない。大友さんが目指し
ているのは,「そうでないところから始めてみることはできないか」
ということ,最初から決められた音楽,「こういう音楽をやる」と
いう目標があるのではなく,「とりあえず出た音を受け入れてみて,
それで考えて行くみたいな音楽は出来ないか」ということです。
「とりあえず出た音を受け入れる」という観点からは,音痴なんて
概念は存在しなくなります。むしろ,本人ですら予測できない音を
出すという意味では,非常に「かっこいい」ことになる。そうやっ
て既存の概念や常識を一つ一つ外していった先に残る音楽とは何か。
音楽の喜び,人と何か一緒にやることの楽しさとは何か。
大友さんは,音楽そのものよりも,「場」をつくることに興味があ
ると言います。確かに,どんな音も「場」=文脈次第で意味が変わ
るという意味では,音楽の本質は,「場」にあるのかもしれない。
「場」とは,その時々に立ち現れる社会,でもありますから,結局,
大友さんのやろうとしていることは,音を通じて,どんな社会を立
ち上げるかということなんですよね。とりあえず受け入れながら,
共につくりあげていく社会。そんな社会のあり方を大友さんは模索
しているのだと思います。
場づくりに関わっている人,教育に関心のある人には,特に実りの
多い一冊となることでしょう。自由に,軽やかに生きる極意を学ば
せてもらったようにも思います。
とても素敵な一冊ですので,是非,読んでみて下さい。
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▽ 心に残った文章達(本書からの引用文)
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バッハが学校の音楽室に居ても可笑しくないけど,三波春夫だとち
ょっと違和感があるっていう感じ…僕が「音楽」って言葉が全ての
音楽をカバーしていないって言うのは,そういうことなんです。
「音痴」っていう考え方もないです。というか,その言葉,何だか
よくわからない。(…)それは「自分で予測がつかない声」が出る,
ってことじゃないですか。それは楽器として考えたら,すごいです
よね。まるでシンセサイザーみたいな。(…)一音目が「えいっ」
って,どこから出てくるのかわからないというのは,かっこいいな
あと思っちゃいます。私。予測もつかない音が出るって,相当にか
っこいい。(さや)
アンサンブルの面白いところは,これは別に子どもでも大人でも関
係ないけれど,ひとりだと「プ!」っていう音なのに,全員で出す
と「ブァッ!」っという大きなかたまりの音が出る。自分ひとり以
上の何かになるところで,その面白さの感覚が味わえると,もうそ
れだけでずいぶん変わると思うんですよね,一緒にやるっていうこ
との意味が。
ひとりだととてもできないけれど,何人か集まればなんかできる,
曲にはならなくても,なにか面白いことはできる,っていうような
ことを,ここではやっているんです。音を出すことで社会をつくっ
ていくような,そんな方法です。今まで,そういう音楽のあり方っ
て,なかったような気がするんですよ。「何かの音楽」のようにな
らないとダメだっていうのが標準だったから。
何かの音楽になることを目指すんじゃなくて,何かわからないけれ
ど自分たちで音楽みたいなものを作って,あるいは,音楽かどうか
も分かんないけど,「なんじゃこれ」みたいなものをつくって,そ
れを面白がったり「それでいい」って言える大人たちがいるってこ
となんだと思います。
サンバを習いに行ってよかったことは,「リズムって,ひとりで作
るものじゃないんだ」ってことに気づくことができたことです。そ
れまではずっと,リズムはひとりでなんとかするものだと思ってい
たけれど,そうではなくて,複数で「引っ張り合うもの」なんだ,
と。これは大発見でした。
みんなでわーっと音を出しているカオスの状態もいい。その居心地
のよさは,まさに竜宮城というか,天国というか,みんなが勝手に
ただ音を出して,楽しそうにしていて,まとまりがあるのか,ない
のかも,わからないけれど,音がやたら生き生きしている状態。僕
にとっては,それはある種の理想郷です。音楽が「音楽としての価
値」を持つ前の状態のようなもの。「音を出す喜び」みたいなもの
だけが,いっぱいに漂っている状態が素敵だなって。豊かさって,
こういうことなんだなって思うんです。
音が「音楽になる」ためには,技術的な理由よりも,音楽が生まれ
る「場」をつくることのほうが重要だと思っているんです。僕が考
えているのは,「指揮者や作曲家が自分の音楽を実現するために多
くの人を使う」みたいなことではなく,その場にいる人たちが,自
分たちの今現在もっている力で音楽を作り出していくような方法で
す。
音楽的な弱者と,楽器の出来る人が両方いるからこそ出来る音楽,
そんな音楽のあり方があってもいいんじゃないかなって思います。
多分,僕は,音楽が単体でなりたつものではなくて,「場」そのも
のを生み出す原動力のようなものであって欲しい,って考えている
のかもしれない。ただいい音楽が演奏されればいいというものでは
なく,いったいその演奏が行われている場ってなんなのか,そのこ
とに強くこだわりたいんだと思います。
それと同時に,文脈は一つじゃないし,歴史の見かたもひとつじゃ
ないってことにも,強くこだわりたい,そう思っています。同じも
のですら「場」が変われば意味が変わるように,人も音楽もひとつ
の価値観に縛られる必要はないし,みんなが同じ方向を向く必要も
ないと。
そのうえでアンサンブルをしていくってのはどういうことなのか。
そうやって音楽を作ると,いったいどんな音が響くのか。どんな
「場」が生まれるのか。そんなことをもっともっと考えた方が,世
の中は面白くなるんじゃないか。
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●[2]編集後記
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友人が北海道でスキーに行ったまま、遭難し、行方不明になってい
ます。ニュースを確認しましたが、既に捜索活動は打ち切られている様子。無
事を祈りたいですが、既に連絡を絶ってから一週間経っているので、難しいのか
もしれません。
彼とはまだ知り合って2年に満たないくらいで、そんなに会っていたわけではあ
りません。でも、何だか特別な存在の人でした。それは、彼のご子息の話を聞
かせてもらったからだと思います。彼のご子息は、病気だか生まれつきだかで
肢体麻痺だったのですが、何年もの間、ご夫婦で毎晩、ご子息の身体をマッサ
ージし続けた結果、奇跡的に回復したのだそうです。
奇跡が起きたことに、彼は心から感謝していました。そして、ご子息の麻痺があ
ったからこそ、家族の絆が特別なものになり、自分も生き方や考え方を変えるこ
とができたと、そのことにも感謝をしていました。
そういう経験をしてきた人だけが持つ心の大きさ、優しさが彼にはありました。
そういう人と出会えたこと、話を聞かせてもらったことを、僕は特別なことに感じ
ていました。
そんな彼がもうこの世にはいないのかもしれない。そのことが信じられません。