翼沙の言葉のおおよそは空気で膨らんでいた。誰にも受け取られなかった言葉はヒーターの風に押し上げられて、広告のくぼみにひっかかって帰ってこなかった。(P.13)
これからはあの絵本の二人組みたいに、もっと仲良くなってどこにでも行けて何にでもなれるかもしれないんだ、と胸を弾ませて始まった交際は、桜が芽吹
...続きを読むくころに始まって、濁った水たまりに花びらが沈むのと同時に終わった。(P.27)
そういえば話す途中に顔のパーツが、あちこちに分裂したり、かと思いきや急に中心に集まって、目の中で温泉卵の臭いが発酵し出すところは、見覚えがある、恋をしている人の様子だった。(P.29)
どうせ今日も帰る頃には話の大半を忘れている。忘れてしまうような時間が過ぎていく。覚えていられないくらい楽しく過ごしていらならよかったのに。まどかはうみちゃんのことをほとんど知らず、ただうみちゃんを形作る輪郭の、じっさいどうだか分からないおぼろげな線をたよりに付き合っているだけだった。(P.32)
いっそ犬になりたかった。オスとメスの判別もつかない落書きみたいな絵柄の、本当に犬なのかも判断できない毛むくじゃらの生物として人々の間を行き交って暮らしたかった。(P.40-41)
祖母の光線を浴びたそばから、まどかは自分から身体が離れていくような気がした。ピーラーで皮剥いたみたいに皮膚が剥がれ、肉がふわふわにほどけて、血管と神経の糸が広がって風に飛ばされて行ってしまう。吹きさらしになった大腿骨には片栗粉のダマに似た冷たくて透明なものが山ほどまとわりついて、そこから胴体へと色んなリボンが巻き付いて、祖母に流れる血を絶やさぬための、女の子型工場が組みあがる。煙突からはあたためたミルクのにおいが立ちのぼった。まどかの身体は、まどかとは関係なく大切にされる何かになった。(P.42-43)
押し付けない、詮索しない、寄り添う、尊重する、そういう決まりごとが翼沙を操縦してして、生身の翼沙はどこにもいなかった。翼沙から出た言葉は何一つ無く、全てを置き去りにして、マニュアルを順守するプログラムだけが動いていた。(P.61)
痩せることは生理を止めるための手段であって目的ではなかったのに、拒食症の女の子と見なされたので、拒食症の女の子用の言葉だけが与えられた。
まどかは当事者性なんて一つも持っていなかった。身体的特徴と食生活以外に、その属性の枠組みの中にいる人とまどかが共有できることはほとんどなく、世の中が想像する属性のイメージとも適合しないのに、まどかへ向けられる態度は、その属性の対応として推奨されるものばかりだった。翼沙とも。今まで、ただの友だちとして、押し付けたり、詮索したり、寄り添わなかったり、放棄したり、そんなことを繰り返すたびに距離を測って、お互いに近づいたり離れたりしながら関係性をつなげてきたはずなのに。かけがえのない他人ほしさにうみちゃんと付き合ってみただけだった、それでLGBTの人で固定されてしまった。同性との恋愛関係を望む人になってしまった。
保健室の先生の後ろの壁に貼られた、日に焼けて赤色が薄くなった人権週間のポスター。多様性を認めてみんなで助け合いましょう。地球の上で手をつないで綺麗な円を描いて等間隔に点在する人たちの絵。決まった場所で手をつないだまま一歩も動かない人たち。
まどかもこの中の一人になった。踏み出したら輪っかの形が崩れてしまうから、この属性から出てはいけない。やさしく手をつないでくれた人をがっかりさせないように、黙って笑顔で収まっている。
本当はどんな属性にもふさわしくないのに。(P.60-67)
自分の言葉で人の心を揺らしてしまうのか怖くて、自分の言葉の責任を担保してくれる何かが欲しくて、他人のお墨付きの言葉を借りたくて仕方がなかった。多くの人に使われてきた言葉を使用すれば、まどかがオジロとの今後の関係を安全に保っていられることは間違いなかった。(P.103)
生理が嫌で必死にその止め方を調べて痩せようとしてた主人公と中学生の私が重なった。私は、痩せたい気持ちもあったが、生理を止めたくて痩せたのもあった。拒食症の女の子として見られ、距離を置かれるような対応をされ、行き場のない苦しみを抱えていた当時の自分のようだと思った。主人公は男になりたい訳では無いし、女性と付き合っているものの、女性が好きな訳では無い。現在ある、「枠」のどこにもカテゴライズされない自分は何者なのだろう…。自分は自分として生きられたらどんなに楽なのだろうか。「かけがえのない他人」が欲しいのに、好きになろうとすると恋愛的な見方をされてしまう。ぐりとぐら、がまくんとかえるくんのような二人組という表現がどのような関係なのかを的確に表しているような気がして納得できる。
なんか、この世界に上手く溶け込めている感じがしなくて違和感があって、でも、違う自分を私は他の人とは違うんだって言える自信もなく、淡々と日々を生きている主人公。きっと世界がモノクロームのように見えているんだろうな。そんな救われない日々にうみちゃんのまどかだけに向けられた少しの優しさを含んだ言葉が染みる。きっと、同情とか違和感のある優しさより、そのままその人から出された言葉が主人公は欲しかったんだと思う。SNSなどで、簡単に文字で会話を出来てしまい、本物の言葉が分からなく、不安になるけれど、こんな風にその人に、その人が求めている言葉をあげられる人間になりたい。