『まったく何もしないのは案外難しい。人は何かをしている振りをすることがせいぜいで、何もしないことに最も近いのは歩くことだ』―『第一章 岬をたどりながら』
例えば「Skyscraper」という英単語が「超高層の建物」を指す言葉だと知った時に生じる小さな衝撃は、空という手の届かない絶対的な背景がペイン
...続きを読むティングナイフでさっと削ぎ取れてしまう程の距離にあるカンバスの上に空色の絵具として一瞬にして凝縮されてしまう変容に由来しているように思う。あるいはそれを「地」と「図」の逆転と言ってもよいかも知れない。陰陽の太極図が示す相対するものの置換と言ったら少々大袈裟かも知れないが、レベッカ・ソルニットが大部の著作の中で語る「歩くこと」も、どうやらそんなエッシャーの「昼と夜」の中の雁の飛行にも似たところがあるように思う。それはまるで禅宗の教えるところの「半眼」の状態。いきなり提示される二元論的世界観。
『ここに挙げた書物は、歩くということがいかに捉え難く、注意を向けつづけることが難しい主題かを示している。歩くこととは、いつだって歩くこと以外のことだ。(中略)それでも、歩くことについての随想や旅行文学のすべては、地上を歩く理由について、曲折はあれどもひと続きの二百年間の歴史を語っている』―『第八章 普段着の一〇〇〇マイル』
およそ全ての動物は生涯移動し続ける。その移動はもちろん必要に迫られて行うことの筈。「歩くこと」はそもそも人類にとって生命を維持するために必要であった行動に起源を求めることが出来るに違いない。しかし動かないことで生命維持に必要なエネルギーを最小限に抑える戦略を選択したナマケモノのような動物は極端な例としても、食物確保を狩猟採集から農耕へと転換し定住生活を送るようになった人類に必要な移動は限られるようになる。以来、生活圏を離れる程の移動は徐々に必要に迫られてするものではなくなってゆく。それでも人類は、例えば1991年に標高三千メートル超のアルプスの渓谷で発見された五千年以上前の旅人アイスマンのように、大いなる移動をし続けた。その特異性を、時に客観的な観察対象として、時に主観的な意識の変遷として捉え、膨大な書物の森の中に渉猟する試みが本書「ウォークス 歩くことの精神史」である。
ソルニットは歩行の「必要性」を伴う原初の目的が、移動することそのもの、あるいは移動による心身の変化への希求へと変容していく様を読み解いていく。それは在る意味で歩行を「目だけとなる行為」あるいは「感覚受容のための行為」へと向かわせる。結果、脳に抱えきれないほどに吸収した感覚的情報は発散を求めることになるのは自然の流れだろう。それが時として文学となり、主張となり、主義となり、宗教となる。そして政治的な意図を伴う行為となって発露する。数多くのそんな例を挙げながら、現代の歩行者たるソルニットもまた、本書の随所で政治的な主張を展開することになる。
『ウルフはその道のりをたどりつつ――あるいは想像しつつ――都会を歩くという主題について珠玉のエッセイを綴った。「晴れた夕方の四時から六時くらいに家から足を踏み出すとき、わたしたちは友人が知っている自分を脱ぎ捨てて、茫洋とした匿名のさまよい人の群れに加わる。自分の部屋で独り過ごしたあとでは、その世界がとても心地いい。」』―『第十一章 都市』
本書の後半は、近代化に伴ってもたらされる歩行の趣の変容が人々の精神にどのような影響を及ぼしていったのかについての考察。都市は匿名性を個人に付与する。それは自分自身をどこまでも地へと塗り込める作用であり、ある種の自由、快感すらもたらすことがあるとの分析は説得力がある。しかしその匿名性の効用は本来図として存在する筈の自身の身体を透明化してしまうことにも繋がってしまう。逆説的だが、だからこそ身体性を感じられる歩行に禅の修行のような意味合いを付与しようとするムーブメントも起こるのだろう。それは身体性の再確認に他ならず、不自由さへの回帰でもある。
『ここまでたどってきた日常生活の脱身体化は、自動車の普及と郊外化のなかでマジョリティが経験したことだった。しかし少なくとも十八世紀の後期以降、歩くことはときとしてメインストリームへのレジスタンスだった。その存在が際立つのは時代と歩調が齟齬を来たしてゆくときだった』―『第十六章 歩行の造形』
不自由さとどこまで折り合っていくかということは、翻って見れば自分自身の身体とどう折り合っていくかということに他ならない。それを端的に感じられるのはやはり「歩くこと」なのだなと得心する。