ユーザーレビュー 哲学がわかる 哲学の方法 ティモシー・ウィリアムソン / 廣瀬覚 ひじょうにわかりやすい哲学の入門書である。薄いのですぐに読める。科学研究費という訳語を使ったので学部の学生向けでない言葉があるのかと思ったが、それはない。 学生でも読める哲学の本として推薦できるであろう。 Posted by ブクログ 新実存主義 マルクス・ガブリエル / 廣瀬覚 一本の論文に4名による関連論文(反論)を4本足して再版論を付けて1冊の新書になっている。論文がわざわざこんな形で邦訳され,新書化されるってなかなかに凄いことだと思います。 「実存主義」を名乗る理由はいまいちピンとこなかったのだが,言いたいことはだいたい真っ当だと感じた。というか,自然主義というか...続きを読む物質一元論というか還元主義というかすなわちウィルバー的に言えば「フラットランド」がここまで猛威を振るい続けているとは思わなかった。え,まだそこ?というのが正直な感想である。 精神(ガイスト)と意識(コンシャスネス)と心(マインド)とスピリットとソウルあたりの述語を再度整理しないと訳が分からなくなりますね。 Posted by ブクログ 新実存主義 マルクス・ガブリエル / 廣瀬覚 序文含めた全6章のうち、著者(以下MG)が1章を受け持ち自らが提唱する「新実存主義」のエッセンスを解説した後、4人の若き哲学者がこれに対する論評をくわえ、最後にMGが再登場し論駮もしくは補足するという章立て。新書なので分量はないが、世界的ベストセラーとなった一般読者向けの他の著書に較べると遥かに読...続きを読むみ応えがある。しかし決して難解ではなく、僕のような哲学の門外漢でもな何とか読み進められた。当然ながらMG以外の4人の哲学者は全くの初見。 まずマクリュールによる序章からスタート。先鋭的ともいえる反自然主義的・反唯物論的な主張の目立つMGだが、「世界の全ては自然科学で説明できる」とする狭義の自然主義ではなく、心的状態を物理的性質と社会的性質に分離し、物理的心理状態がなぜ生ずるのかを考察する「穏健な自然主義」であればMGも認めるのではないか、と主張する。脳は心的状態の十分条件ではなく必要条件である、とする「条件主義」を提唱するMGもこの主張を認めるにやぶさかではないようで、マイルドな自然主義にも魅力を感じる自分としても一安心。「心=脳」説は行き過ぎた帰納法(過度な一般化であり、現在の科学水準でそれを主張するのは傲慢)だと断ずるあたりには共感。ここはデネットの近著を読んだ時僕も同じように感じた。やはり科学的態度とは、現時点でわからないものは一旦棚上げにしておくような謙虚さを備えて然るべきものだと思う。 第1章はGBの主張の根幹を述べるもの。まず人間の自己感覚のありようを特徴づける「二次元的意味論」から。「心的語彙」即ち心を持つ主体の自己感覚の表現は、自分がその意味を知るところの対象と、その言語が指示する対象との経験的な関係性が不可分一体の形になっている(戸山田和久「哲学入門」で読んだルース・ミリカンの「オシツオサレツ表象」を思い出した。確かそこでは人間の表象が動物のもつそれとは異なり、記述面と指令面に分かれていることを説明するためのアナロジーとして用いられていた。ここでの用法は真逆であり、人間も動物と同じ表象を持つかのように映る。しかし後に述べるように「精神」を導入することで自然種たる動物と人間の同一視を回避している)。これに対し、自然現象の経験によって得られる意味とは後者の確定によるものだ。我々は自分の意識については他者の経験を必要とせず認知できるという特権を有することになる。 この後の、「自然種(人間と独立して存在する事物)」に関する語彙と心的語彙の間のギャップを、自然種と「精神(社会・歴史・政治などの諸制度の説明構造)」の間のギャップとみなすMGのロジックも分りやすい。自然種に対する評価は自然種自体の本質に影響しない。しかし自己表層に対する評価はより社会・歴史・政治などの概念に影響する。この概念を表出する「精神」の働きこそが、人間の歴史すなわち「人間が自らの行為を大きな文脈内で理解しようとする試み」の中で自らの行為がどのように影響するか、そしてさらにその行為が常に変化する自己表象・概念・制度とともに変転することの、説明構造だというのだ。ここまで来ると、著者が自らの立場を新「実存主義」と称する理由も理解しやすくなる。自然と主観を峻別するMGにとっては、その精神=心を自然内に消し去ろうというデネットの試みも、また精神を等閑視して人間を動物と同等に扱うアリストテレス主義も、いずれも看過し難い代物なのだ。 ここで、それなら新実存主義は二元論なのか、という疑問が生ずる。他の著書にもあるサイクリングのアナロジーが出てくるが、要は自転車がサイクリングにとって必要条件でしかないように、脳も心的語彙の構成にとっては十分条件ではなく必要条件に過ぎない、というのが彼の主張。この必要条件と十分条件の分析が「心脳問題の条件モデル」であり、精神による行為の説明という十分条件を満たすことで、必要条件である自然種や脳にアクセスが可能となる。個々の意味の場における認知条件を満たせば、その場における非心的実在にもアクセスできるのであり、したがってデカルト的二元論とは異なるというのだ。ここでも核となっているのは<実在>と<その実在についての知識>を峻別するカテゴライゼーションであり、ハードな自然主義者や唯物論者が認容できない部分なのだと思う。 続く第2章はテイラーによる「二元的意味論」の再検証。こちらのほうがMG自身の解説よりも分りやすい。自然種は<現れ>と<実在>が独立しており、その本質は知識によって影響されない。これに対し、人間の経験すなわち心的語彙は、<現れ>そのものが<実在>であり、その本質は人間の理解により変化する。この<理解>による経験の修飾をニューロン発火に還元するためは、個々の現象とニューロンの変化の突合したり、経験者内部に働く力学を全て参照せねばならず、途方もない作業を要するため不可能だとする(これに対しては唯物論者から、近い将来AIによるデータクランチが可能だとする反論が予想される。ただその場合も、データそのものが心的語彙とどのように対応しているかの検証を要し、無限後退の問題は回避できないように思う)。むしろこの自身を理解しようとする試みこそが人間の本質であり、裏を返せばこの過程を経ないアプリオリな本性などない。新たなカテゴリを創造し、常に自己発見を繰り返してきたのがこの世界の成り立ちなのであり、それは人間の理解によって収縮も拡大もする可変的なものなのだ。MGもテイラーのこの解釈に依存はないようだ。 第3章はブノアによるGBの「位置付け問題」に対する批判。GBが精神を自然種に含めない理由として、物質的に還元できないのみならず<指し示し>の対象ですらないこと、さらに心の文法が自然の文法と異なるカテゴリーに属することを挙げているが、これが心的なものを否定形で措定する「否定の哲学」に陥る危険はないか、というのが彼の懸念のようだ。ただ、ブノア自身GBに対するシンパシーを表明していることもあり、正直なところ僕にはGBの主張との隔たりがどこにあるのか分りにくかった。第5章のGBによる反論によれば、ブノアは心と自然の違いをカテゴリーに求めており、そこでは前者は<規範>との適合状態、後者は実際のあり様によって評価されるという違いがある。ここまではGBも同意するが、あくまでも心も<規範性のもとで>実在することには違いがないとしている。細かい語用論が議論の対象となっているように思えた。 第4章はケルンによるGBの人間概念批判。彼女によれば、GBの議論からは人間が動物に含まれるという結論が導き出せないという。4人の哲学者の中では最もGBとの主張の隔たりが大きいようだ。GBも彼女の見解が概念分析に偏り過ぎており、宛(あたか)も単なる概念を経験的事実のように語っていると批判している。ただ、ケルンが引用するアリストテレスの「人間的生」の<知性(生命形相を概念化すること)により自らの生命形相を具現化する>というあり様は、GBの実存とかなり近い印象を受けた(終章でGBも新実存主義は畢竟アリストテレス主義者であるとコメントしている)。この第4章の議論が本書では最も難解だと思われ、僕にはよく消化できなかった。 ところで終章、GBは科学的事実の意義について、精神の動物的/人間的境界を教えてくれるものだとし、この境界線を科学の進歩にしたがって更新していくことだとしている。僕もこれこそがマイルドな自然主義と新実存主義がコンフリクトすることなく共存できる地平だと思うし、ここが本書で最も共感できた部分だった。 Posted by ブクログ 新実存主義 マルクス・ガブリエル / 廣瀬覚 『なぜ世界は存在しないのか』、『私は脳ではない』とセットにして読みたい本。 簡単に理解できる本ではない。 Posted by ブクログ 新実存主義 マルクス・ガブリエル / 廣瀬覚 ガブリエルの新実存主義をめぐる哲学的な対話。 最後のケルンの議論は腑に落ちなかったが、ガブリエルの反論で明瞭になった。おかしい議論はおかしいと言えるのが知性だ。 全体的に、心、精神の問題を扱っている。「語彙」に注目するガブリエルの視点が興味深かった。 また、ハラリなどが主張するニューロン主義や意...続きを読む思の欺瞞性への批判も痛快。確かな人間性を取り戻す重要な取り組みだ。 Posted by ブクログ 廣瀬覚のレビューをもっと見る