2019年?冊目。(最近レビュー執筆怠り数え忘れた...)
『憎しみに抗って──不純なものへの賛歌』から注目していたジャーナリスト、カロリン・エムケの新刊(原書の出版は2013年で、『憎しみに抗って』よりも前)。
年末年始、他に読みたい本がたくさんあるけれど、これは連休中にもう一度読み返さなけれ
...続きを読むばいけない...今年の自分にとって、本当に大事なテーマで、消化して整理するにはまだまだ時間がかかる。現段階の雑感だけでも言葉にしておきたい。
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「言葉にし得ない体験」をめぐる考察。
極度の暴力や不正に遭った人が失った言葉に対して、どんな言葉も及ばず「それ」としか形容できなくなってしまった体験に対して、著者は「それでも言葉にできる可能性」を信じている。
だけどこの本は、「言葉にし得ない本人」にではなく、「言葉にし得ない本人の周囲の人々」に向けられて書かれている。もっと言えば、後者の人々が持つべき責務のようなものが語られている。
「それは言葉にしがたいよね」と、簡単に語れない本人の沈黙に迎合し、変えることも理解することも諦める周囲の人たちの姿勢は、ときに、本人が語り得る可能性を閉ざしてしまうかもしれない。
語りを無理強いすることはもちろん避けつつも、本人の沈黙に耳を傾けて、その沈黙の背景に思いを寄せ、扉が開くかもしれない兆候を信じて待つ...そういう姿勢を、周囲の人間が持つ必要性を感じた。
暴力や不正に限らず、「例外的極限状況」を体験した人たちが、なんとかして「それ」を語ろうと口を開くとき、多くの場合、その言葉は混乱している。
時系列がおかしいかもしれない。何度も同じ話が繰り返されるかもしれない。一見関係のないような言葉が出てくるかもしれない。
著者はその混乱に、「可能性」を見出しているように思えた。まだその本人が「壊れていない」可能性を。言葉を取り戻せる可能性を。
なぜならその混乱は、その言い澱みは、その脈絡のなさは、壊れた世界に片足を踏み込んでしまいながらも、もう片方の足は壊れる以前の世界に残っていて、そのズレの狭間で、元の世界の片鱗を取り戻そうとしている証であるから。言い換えれば、その人はまだ、壊れる前の世界を完全には失っていない証であるから。
混乱が、なかなか手が届かないながらもなんとか元の世界にあるものを取り戻そうとする足掻きの現れ、つまり本人が「まだ壊れていない」証なのだとしても、多くの場合、その混乱に潜む可能性は見過ごされるように感じる。語る本人にではなく、語られ、聞く側の人間によって。
語る本人がはまっているズレ、支離滅裂さ、言葉選びの不安定さは、「語りの不可能性」として捉えられてしまう。その混乱はときに、「語る側の力量不足」としてさえ捉えられてしまう。
語る側が混乱を整理する義務を負うばかりでいいのか。語られる側こそが、語りのなかにある混乱に耐え、曖昧さのなかに留まり、早く整理して理解してしまいたい欲求に抗う努力をする必要があるのではないか。
そうでなければ、語られる側に対する語る側からの信頼は生まれず、語られる側にすらなることなく、語りそのものが起きなくなってしまう。
ここ数年、ずっと「ネガティブ・ケイパビリティ(性急な答えに飛びつかず、曖昧さや不可解さの中にとどまれる力)」の重要性をあちこちで感じてきた。語られる側が持つべき「語りの混乱への受容力」は、まさにネガティブ・ケイパビリティの一つだと思う。
来年、本格的に追いかけたいテーマ。
この著者は、ジャーナリストというよりも思想家のような印象が強い。読み手を恍惚とさせる筆の運びは、アーティストですらあると感じる。政治的・地政学的なメカニズム以上に、人間心理のメカニズムに迫る人であるとも。とにかく、今とても気になる人。