日本古来の文化かのように語られている女ことば。その「伝統」はどのように作られていったのか、言語学者が具体例を挙げて解明していく。
女性らしい言葉遣いを指南する本自体は鎌倉時代からあり、儒教の思想を下敷きにしたものだったという。はじめは「女は余計なことを話すな」とはっきり男尊女卑を打ちだしていたの
...続きを読むが、徐々に「男性から求められる女性になりたくば、しとやかな言葉遣いを」という言説に変化していったという。とはいえ、それは輿入れに人生がかかっている貴族や武家の女性たちの規範であり、近世以前は階級と地域の違いに依拠する言葉遣いの差のほうが男女間のそれよりもずっと大きかったのである。
しかし明治期に入り、言文一致運動と共に女性が男性と同じく教育を受ける学生になったときに転換点が訪れる。同時発生した「書生ことば」と「女子学生ことば」を取り巻く言説の差異を、本書は丁寧に追っていく。女子学生の言葉遣いは当然書生(男子学生)を真似たものも多かったが、「てよ」「だわ」「なの」などの語尾は女子のコミュニティから自然発生してきた。21世紀の日本人がまさに女性らしい言葉遣い=「女ことば」と見なしているこれらの語尾の流行は、当時新聞で「女子学生の言葉遣いが乱れている」と嘆かれていたという。
"乱れている"が"新しい"女性の話し方は、当時の翻訳者によって西洋の女性の話し言葉を訳す際に流用された。そして現在に至るまで、最も典型的な女ことばを話すのは翻訳小説のなかの女性たちである。また、良家の出身である女子学生が恋愛に溺れ、没落するという筋の小説が流行した。そのなかにはポルノグラフィーも含まれ、男性にとって好ましいフィクション内で女性が喋る「女学生ことば」(≠女子学生ことば)が作りあげられていく。
その後は戦争によって家父長制が強化され、男女の役割が明確に分別されていくなかで、子どもを産み育てる女性は「真に日本人らしい」言葉遣いをすべきだとされていく。そこで女性にふさわしい話し言葉として選ばれたのは女学生ことばだった。「女ことば」の規範は大東亜共和圏構想によって東アジアの人びとへも押しつけられていく。かつて西洋人女性の話し方を翻訳するのにふさわしいと考えられていた口調が、「美しい日本語」として植民地教育に用いられたという皮肉。
しかしその構造に鈍感な人ばかりだったわけではなく、戦後すぐに女性の話し方を社会的にコントロールしようとすることは男女平等に反しており、女性を縛っているという批判が学者からでていたというのは驚きだった。しかしそれは「女ことばは女性本来の優しい気質から生まれた伝統である」という印象以上の何物でもない言説にやりこめられてしまい、現在まで「女ことばの伝統」は語られ続けている。
本書によって明らかになるのは、「女ことば」は人工言語だということだ。女性同士のコミュニティで生まれ、使われている言葉遣いはある。だが、そこから他者にとって好ましいものだけを抜きだし理想化した時点で、ことばは話者の手を離れている。同じことは「国語」としての標準語にも言える。方言があり、階級差もあるなかで「東京の学問をやっている中流以上の男性のことば」が「標準語」に選ばれた。その過程で周縁としての「女ことば」が確立されたのである。
映画や小説の翻訳で多用される女ことばに長らく違和感を抱いていた私の疑問に答えてくれる、そのものずばりの一冊だった。この本を読まずに女ことば問題を語っていた過去の自分を怠慢だと感じるくらい。やはり翻訳物の女ことばは、キャラクターとして強調したいのでないかぎり、前時代的な社会規範の再生産になってしまうのではないかと改めて思う。