急逝した目黒さんを偲んで、手にとった一冊。考えてみたら、北上次郎名義の文章はたくさん(まったくたくさん)目にしてきたけれど、単著のものはあまり読んでいなかったような気がする。今は大人になった息子さんたちを思いながら、家族を切り口にした小説評を綴った本書。しみじみと良かった。小説を読むというのは、単に
...続きを読むプロットを追うことではなくて、細部に現れる人の姿を味わうことなのだと、あらためて教えてくれる。目黒さんは、そういう読み方をずっと身を持って示してくれた。深くこうべを垂れて感謝します。
本書には、目黒さんの息子さんたちへの思いがあふれていて、それが読みどころだ。同じく成人した子どもを持つ身としては、うんうんそうだよねと共感する箇所満載。特に心に残ったくだりをいくつか。
「子が親を必要としているときは、親もまた子を必要としているのである。」
まったくそうだ。けっして一方的に庇護してるんじゃないよね。そのうち「もういらない」と言われるんだけど、親の方はなかなか気持ちが切り替わらなくて、それを思い知るのだった。
「あれが最後だったのだ、と突然気がつくのである。」
確かに、「初めて」のことはそうわかるけれど、「最後」はしばらくたってからしか気がつかないことも多い。家族で遊びに行ったのは、手をつないでやったのは、いつが最後だったのだろう。
「まだ子が幼くて、両親ともに若く、みんなが幸せだった至福の団欒は、哀しいことに一時のものだったのである。」「子が大きくなれば家を出ていくのは当たり前で、そうして団欒は失われていく。家族はけっして永遠ではない。しかし、一瞬だけのものであるから愛しいのだ。」
このことは、目黒さんの盟友シーナ隊長もよく書いているが、こういう言葉にどれだけ慰められてきたことか。こどもが自分のもとを離れていくのは寂しい、でも、それは当然のことで、ちゃんと育った証なのだ、家族の記憶は失われないのだと、いつも自分に言い聞かせている。
(息子さん二人が天真爛漫に笑っている写真を見つけて)「この二枚の写真を見ていたら、なんだか哀しくなってきた。おそらく息子らは、幼いときにカメラに向かって笑ったことを忘れているに違いない。」「哀しい気分になるのは、大人になるとそう簡単には笑顔を見せなくなるからだ。今は成長した息子たちも、幼いときのように笑ってばかりはいられない。」「息子たちも、あの笑顔をどこかで持ち続けている。幼年期の至福が必ずどこかに残っている。いや、親としてはそう信じたい、という話にすぎないのかもしれないが。」
ええ、そう信じたいですとも。
(下の息子さんが就職した時に)「君がめざした業界ではないかもしれないが、しかし与えられた場で頑張ればいい。自分の気に入った服を探すのもいいけれど、いま着ている服を好きになること、そして自由に着こなすことも大切なのではないか。父はそう考えているのである。」
とてもいい言葉だ。「自由に着こなす」が特に。しかし、これを目黒さんが言うところになんとも言えない味わいがある。「どこにもない服」を作っちゃった人だから。
(重松清「ポニーテール」について)「このフミとアキも、その日々の中で見せた笑顔をやがては失っていく。しかし二人のお父さんとお母さんはけっしてその笑顔を忘れない。それが彼らの生きる力でもあるからだ。それに、その笑顔を失ったことを悲しむことはない。幼子の笑顔がまぶしいのは、それが本質的に永遠ではないからだ。うたかたのように消えてしまうものだからだ。彼らの笑顔はそういう一過性のものにほかならない。だからこそ胸が痛くなるように切なく、愛しいのである。」
人のすることはすべて儚いけれど、子どもにはそれが凝縮されているのかもしれない。