彼の想像力が好きだ。
驢馬は驢馬のことを言っているのか、飼育されているのは誰なのか、その寓意性とでも呼ぶべきものが、好きだ。
この物語は、小説を書くことについて語っているのだと思う。
双子が驢馬に跨って親子を助けに来るだろう、という想像。想像は創造され、まず驢馬がU夫妻の元へやって来る。やがて双子が
...続きを読む誕生し、旅に出る。
書き始めたのは良いけれど、時にどこへ向かっているのか分からなくなることもある。それでも目指すべき結末へ向かって進んでゆく。後戻りは出来ない。
親子は外の世界へ出たいと望みながらも、監禁生活に甘んじているようにも見える。配下たちが食事を持って来る隙を狙って逃げ出すことは出来ないのか。四人がかりで壁を黒く塗りつぶす作業をしていた時には、逃げ出すチャンスもあったように思える。でも、ただ二人は絶望する。地図の作成から絶望、そして囲碁の世界への陶酔。
作者が道に迷っている時でも、双子たちの旅は続く。なぜなら、誕生した時点で、作者とは別の人格として意思を持ち始めるからだ。
そして一通の手紙が、交わるはずのない世界を交わらせる。まるで一冊の本が、現実の世界と物語の世界を交わらせるかのように。
双子たちは親子のいるペンション、つまり旅の終着点、結末であるはずの場所へたどり着く。しかし結末は結末とならず、むしろ始まりとなる。なぜ終われないのか。その答えが親子の現在の状況を示す、この一文なのだと思う。「最後の一局を目指して打ち始めたはずなのに、終わりなく打ち続けられたら、という思いが高まり、親子は名勝負の連続、その幸福に溺れていった。」
終わらせたくない物語、というものがある。意志を持ち始めた登場人物たちは物語の中で確かに息づき、物語の時間の中を生きる。その物語に寄り添っている時、私達もまたその物語の時間を生きる。時間に限りがあるように、またページに限りがあるように、いつかその物語は結末を迎えるはずなのだ。しかし登場人物たちが確かな存在として生きていればいるほど、その物語の時間から抜け出せなくなる。それは、物語としては幸福なことである。幸福でありながら、同時にそれは現実を捨てることをも意味し、失われていく記憶は、そのことを示しているのではないだろうか。
しかしこの小説は、別の観点からも読めると思う。その重層性は、とても美しい。