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8歳年下の彼氏と暮らす充留は、ある日、大学時代からの友人夫婦の「離婚式」に招かれる。昔の仲間が集まるそのパーティで、充留は好きだった男と再会するが、彼は人妻になった麻美とつきあいはじめ…。出会って15年、10代から30代へと年齢を重ねた仲間たち。友情、憧れ、叶わなかった想い――再会をきっかけによみがえるあの頃の記憶と、現在の狭間で揺れる姿を描く、大人の青春小説。
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Posted by ブクログ
学生からの付き合いを、こんなに緻密に続けていくのは難しいように思う。そこがお話な訳か。 こんな長くて緻密な関係でも心の中で思っている事は全て話す訳ではなく、そこに多少のズレや誤解があって…じゃ自分はどうするか?という事で 女性軍はそれぞれの道を歩き出したように感じる。 対して男性軍。なんだかヤバい...続きを読む人たちばかりだと思ってしまった。
若い頃、三十代、四十代になったら ちゃんとした「大人」になってるわだろうなと 漠然と思ってた… でも、現実には全然ちゃんとした大人にもなってなく 昔と何ら変わらないまま この小説の人達もカッコいい大人になりきれず、 いたずらに年を重ねていく、決着のつけられない人々。 そんな人たちと、心の痛みを分け...続きを読む合うたねの場、 そんな小説だ(香山リカの解説より) 本文から抜粋 私たちはみな、自分がこうしたい、と相手にこうしてほしい、を混同させながら生きてるんだ。 それが関係というものなんだ。
角田光代さんの書く言葉からはいつもいろんなことを気付かせられる。 当たり前だと信じているが、本当はそうではないことを心の底では知っている。無意識に目を逸らしてきたことを、登場人物の心の動きに乗せてさりげなく問いただしてくれる。そして、多くの作家が書くきれいな部分だけではない、「本当の気持ち、本当に言...続きを読むいたかったこと」をおしえてくれる。 だから、角田さんの本を読むときはいつも覚悟がいる。一生懸命に何重にも取り繕ってきた自分の感情や人格の本当のところを見透かされているようで、こわい。自分が本当は何を考え、どんな人間であるのか、あるいは何者でもないのではないかということに気付いてしまうのが、こわいのだ。そして、私が角田さんの小説を読むことをやめられないのも、この「気付き」がたくさんあるから。 「三月の招待状」はまさしく私の中で「気付き小説」だった。 登場するのは大学時代をともに過ごした三十歳をとうにこえた男女。 仕事もあり、恋人もいる、端から見れば「成功」している女性なのに、未だに大学時代の恋が片隅にちらついている充留。大学時代から付き合ったり別れたりしたのちに結婚し、結局付き合っていたときと同じような原因で離婚してしまう裕美子。そしてその別れた夫、正道。大学時代に成功を遂げ、周囲からも一目置かれる存在であったが、栄光が過去になってしまった今になっても自分の立ち位置など考えずに自由に生きている宇田男。学生時代はみんなの中にいながらも、ださいと思われないよう必死だった、今では幸せな家庭を築く専業主婦の麻美。 登場する5人が5人とも、それぞれに今を生きているけれど、どこかで過去に縛られて生きている。それぞれが今の自分を認めているふりをしている。けれど、それはただ「認めようと努力している」姿なのだ。この「必死で認めようとしているだけ」という事実を、角田さんはごく自然に露呈してしまう。そして、読者も自分が無意識のうちに過去に縛られて生きているという事実に気付いてしまうのだ。 私は決して特別な人間ではない。けれど、心のどこかで「自分は特別だ」と信じている部分は少なからずあるだろう。しかし、私は、私たちは、本当は何者でもないのだ。だから、過去なんていうちっぽけなものにすがりながら、何者でもない自分に必死で色をつけ、特別なものにしようとするのである。それが自分の意識のもとにはないと思っていても。 ただ、過去に縛られて生きるのも自分であるが、その過去が形成したのが今の自分であることを忘れてはならない。過去は今の自分を作り上げたもの。その過去には感謝しながらも、過ぎ去りしものにいつまでもとらわれることなく、前に進んでいくことこそが何者でもない私たちのすべきことではないだろうか。 変化を怖れず、過去の自分もこれからの自分も本当の自分として受け容れられる人間になりたいと思えた作品だった。
面白かった 15年別れたりより戻したりの裕美子と正道カップルの離婚式からはじまりその学生時代の仲良しグループ一人一人に各章ごとに主人公が代わり焦点が当たっていく 36になる男女の心境がリアルでよかった
かなり好き。 どこにでもありそうな話。 筆者は誰よりの人生を生きてきたんだろう〜 私は裕美子よりかなって思った。正道となんだかんだくっついて欲しい気もあるし、新たな幸せな人生を歩んでいって欲しい気もある。 共感系!
大学時代のなかよしグループが30代になって離婚や同棲や不倫や失踪などの日々を過ごしながら学生当時を振り返る青春ノスタルジー小説。作者が最も得意とするジャンルでは?あからさまな品のなさが心地いい。
私も彼らと同じように未だに大学時代を懐古している人間なので、人ごとと思えず一気に読みきりました。 何も変わらないことは、良いことでもあり良くないことでもあり、でも悪いことではないんだろうなとぼんやり思えました。 男女の友情がいつしか男女の友情でなくなったのちは、長い時間を経てこれくらいの人間同士の交...続きを読むわり方になっていくのかな。
わたしも「大学時代に決着」できてないタチだから、自分に重なるところがいっぱい。 神田川沿いを酔っ払って肩組んで歩いたり、高田馬場のロータリーで校歌歌ったりが「ちょっと前」に思えちゃう。一緒にいた子たちと再会すると、すぐ「わちゃわちゃ」し始める。 遥香に言わせれば「おばちゃん」だし、成長してないの...続きを読むかもしれないけど、たぶんこのまま変わらないんだろうな。 いつか「しょぼくれた夫婦」に私もなるのかな?
『地方の女子校を出て入学した大学では、みんなやけに華やかに見えた。クラスメイトの女子たちは、自分の知らないことでのみ構成されているように見えた』 40人なりのクラスに強制的に振り分けられ毎日を一緒に過ごす高校時代までとは異なり、大学生活の始まりの不安感は大きなものがあると思います。知る人が一人もい...続きを読むない巨大なキャンパスの中の孤独感。しかし一方で、制服もなく、校則に縛られることもなく、時間割さえ自分で自由に組み立てていける大学生活は、ある意味で人生で最も自由で華やいだ時間ともいえます。そんな時代を悔いなきように過ごすために繋がりを求めるのは自然な感情の動きだと思います。しかし一方で自信に満ち溢れた人たちの中で気後れする感情も生じます。でもそんな中に『この人たちといっしょにいれば安心だ』という出会いが必ず訪れます。そんな『出会って心底ほっとする』という友だちとの出会い、そして一緒に過ごす日々。でもそんな日々に終わりを告げる卒業という二文字の区切り。その区切りを越えても関係が続くかどうかは人それぞれです。でもその区切りの後に広がるのは大人の世界。そんな区切りを越えた後も『私はいつ大人になるんだろう』と思い、かつての友人たちに『馬鹿にされない大人になりたい』と思う女性がいました。この作品はそんな女性が大人な一歩を踏み出していく物語です。 『薄いみず色の封筒を開け、カードを取り出してしげしげと眺め、「うげ」』と顔をしかめたのは蒲生充留。『大学卒業後、就職せず』に、もの書きとなり『女性雑誌で連載を持つ』ようになり『映画でも本でも人物でも、乱暴な言葉で、オーバーにこき下ろす』という毒舌が専門の充留。それに『なになに』と同居人の北川重春が振り返ります。『離婚パーティだって。どうしてわざわざこういうことをしないと気がすまないのかねえ』という招待状の『差出人は澤乃井夫婦』という二人は『澤乃井正道と坂下裕美子。大学の同級生で、そのころから交際していた』ものの『別れてはヨリを戻し』を繰り返し『三年前、あきらめたように結婚した』という二人。『「離婚式」と書いてある』のを見て『ばっかじゃなかろうか』と充留はつぶやくも『なんだかんだ文句を言っても私は出席するんだろう』と思いながら『だれがくるんだろう』と考える充留。『麻美はもちろんくるだろう』、そして『宇田男は?佐山宇田男はくるだろうか』と考えます。『居場所がわからないことだけは確実だ』と思う充留。そして、4月になり『離婚パーティ』を明日に控える坂下裕美子は『夫婦でいるのは今夜が最後なのに、いったい何時に帰ってくるつもりなんだろう』と正道が帰ってこないことで落ち着きません。『気がついたら泣いていた』という裕美子ですが、一方で『明日のパーティを、裕美子は楽しみにしている』という前向きな心持ち。『明日から続く正道抜きの日々を、等しく楽しみにしている。さぞやせいせいするだろうと思って』います。そして帰ってきた正道は『なんだかんだいって、おれ、きみといっしょにいてすごく楽しかった』と穏やかな最後の夜。そして『三十人どころか、五十人近くいる』離婚式が始まりました。『学生時代の友人たちは同窓会のようにもりあがり』というその場。『宇田男がきてた』と充留は裕美子に問います。『だって呼んだもん』とあっさり答える裕美子。『でも宇田男って行方不明だったでしょ?どこに招待状出したの?』と驚く充留に『行方不明なんてわけないじゃん。宇田男は下北に住んでるよ』と答えます。『仕事なくなって流行にのってバックパッカーもどきやって、それでお金なくなって…東京に帰ってきた』と宇田男の近況について説明を受けた充留は『バックパッカー?やっぱ宇田男ってふつうじゃないね』と、とても気になる様子。 そんな中、裕美子は挨拶に立ちます。『今私が二十歳だったら、このひとと別れることはかなしくて、この会場を爆破したかもしれない』と笑いを誘った後、『でも私は今三十四歳です、今、なんだかうれしくてたまりません。この人と別れることがうれしいのではなくて、この先の予測がつかないことがうれしいんです』と堂々と話す裕美子。そんな充留、裕美子を含むかつての友人たちの強い繋がりを感じるそれからの一年が描かれていきます。 あらすじには『大人の青春小説』と書かれるこの作品。そもそも『大人の青春小説』とは何なのか?という気もしますが、この作品では、充留、裕美子、麻美という女性三人と正道、宇田男という男性二人、かつて大学時代に同じ時を過ごしたこの五人が十五年の時を経ても親しく関わり合いを続けている様子が描かれていきます。何かあるとすぐに連絡を取り合っては集まり相談をする間柄。しかも正道と裕美子は離婚式を挙げても関係性に全く変化がないのみならず、とても親密です。そんな彼らの関係性をどう見るかは読者の人間関係の考え方に大きく左右されるところがあるように思います。少なくとも私にはちょっと考えられない世界。そんな私の視点と同じように彼らを見る登場人物が正道の新しい彼女・遥香でした。25歳でダンサーの遥香。その遥香の視点で彼らがどのように見えるのか、ここで角田さんは面白い表現を用います。『なんというかわちゃわちゃと、さぞやわちゃわちゃとした関係なのだろう』というその絶妙な擬態語が表現する楽しそうでいて、何かねっとりとまとまりつく気持ち悪さを感じさせる独特な関係性。そして遥香は彼らのことを『おそらく、だれかに嫌われたこともなく育ったのだろう』と想像します。『人との距離を縮めることをなんとも思っていないのだろう』という彼らの感覚を想像する遥香。『彼らにとって好きはどこまでも肯定で、嫌いは無関心、それだけなのに違いない』という断定。それは付き合っている正道にも向けられていきます。『結婚していたときも今のようであったのならば、彼らが別れたことになんの意味があるんだろう』という素直な感覚。『嫉妬ではなく、まして裕美子への敗北感でもなく、遥香の内に自然にわき上がってきた単なる疑問』というこの感覚は一読者である私の気持ちを代弁しているかのようにも感じました。このあたりは先に書いたように読者の人間関係に対する考え方次第だと思いますので、もちろん正解はありませんが、少なくとも私には充留たち五人の誰にも感情移入ができないという読書だったことは間違いありません。『大人の青春小説』というよりは、『大人になれない痛い人たちの小説』、そんな印象も抱きました。 では、この作品がそんな『痛い人たちの小説』だったとして、そんな小説で三十代後半へと進む主人公たちは、内輪で繰り広げられる小さなドタバタ劇を通じて何を学んだのでしょうか。三つの印象的な言葉が綴られていましたので取り上げたいと思います。一つ目。正道と別れてもなかなか前に進めない裕美子は『人はみんな、自分で在り続けることしかできないんじゃないか』と考えます。それは『手に入れられなかったものは手に入れられなかったまま、手に入れてしまったものは手に入れてしまったままでいるしかない』という視点。正道と別れることで全く新たな人生を歩めると根拠なく信じていた裕美子だからこそ思い至った考え方だと思います。二つ目。大学時代のことをふと振り返る充留は『いつだって自分たちの近くで、映写機がまわっているようなきがしていた』と、もの書きらしく『映写機』という表現を登場させ『その映写機のなかでは、他の人々はみなちょい役で、自分たちが主役なのだった。映写機はずっとまわり続けていくと思っていた』という考え方を提示します。自分たちが輝いていた青春時代、過去の栄光をノスタルジックに振り返るかのような絶妙な表現を用いる一方で現実を見据えていきます。三つ目。そんな充留は物語の最後に一大決心をします。前に進むことを決めた充留。そんな充留は『大人になるということは、ひょっとしたらこんなことなのかもしれない。弾ける明かりと喧騒に背を向けて、自分の家に帰るようなこと』と思い至ります。一大決心が充留を大人にし、友人たちをも冷静に見れるようになっていく。そんな充留は、過去の様々な思いも同時に清算し、大人な感覚を体得していきます。わちゃわちゃした時代との別れ、そして大人な世界へと歩みを進める充留。物語の結末に至り、ようやく充留に感情移入できる余地が生まれた気がしました。 実のところ、この作品は読むのを途中で挫折した経緯があります。私の短い読書経験の中で、初めて、そして唯一の挫折でした。感情移入を拒む登場人物しか出てこない物語は、寄る術のない、感情の持って行き場のない不安定な気持ちに苛まれ続ける読書とならざるをえません。今回、再挑戦により読み切ったこの作品。読み終わって感じるのは、大人になりきれない登場人物たちが抱く苦悩と葛藤でした。過ごした青春時代の輝き具合によって、過ぎた春に思う感情には当然差が生まれると思います。でも、それがどんなものであれ、人はその時代を後にし、大人の階段を上り続けざるをえません。もちろん『わちゃわちゃ』とした感覚が間違いとは言いません。しかし、そんな喧騒を冷静に見れる感覚を持つこと、淋しいけれど、それが大人になるということなんだろうなと思います。 大人になりきれない大人たちのわちゃわちゃした物語。大人になる、成長するとはどういうことなんだろうとふと考えた、そんな作品でした。
何かと満足しない、人のことは色々言えるけど、自分のことはよく分からない。そういうモヤモヤが続くのは、結構共感できる。
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