【感想・ネタバレ】性の歴史I 知への意志のレビュー

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Posted by ブクログ

フーコーは、死の直前に「性の歴史」の第2巻と3巻を発表し、最終巻の「肉の告白」の完成を目前にしてそれを果たせずになくなってしまった。その原稿は、「開けてはならない」箱に保存されたのだが、フーコーの死後十分な時間がたったということか、今年、ついに発表された。

ということは、近いうちにその翻訳版がでるに違いないので、そこに向けて、1巻を再読し、長年読もうと思いつつ、読んでなかった「性の歴史」の2〜3巻を読むことにした。

さて、その第1巻「知への意思」は、1976年に発表されていたのだが、翻訳版は1986年とかなり遅れている。

当時、待望の翻訳みたいな感じで、わたしも読んだ。

そのときの印象は、「フーコーとしては、結構、わかりやすいね」というものと、「面白いけど、ここまで言っちゃうと、お先真っ暗で、なんか希望ないな〜」というものだった。

あらためて、読んでみて、30年くらいに前に、なぜ私が「わかりやすい」と思ったのか、全く不明で、かなり難しい。

とくに、「◯◯ということではない」みたいな文章が多くて、◯◯というところは、わたしがきっとそういうことだよね、と思ってしまうことが入っていて、ことごとく私の先読みを否定されていく感じ。

となかなかに手強い本で、理解からはとても遠いのだが、ここにまさに私が最近問題としていたことが、ぎゅっと圧縮されて、書いてあるという感じがした。

つまり、私はなにものであるか、という素朴な実在論的な問いがあって、それは社会の抑圧によって隠されている。が、真実を知れば、人は解放されて、自由になることができるという物語。

だが、そこに気づいて、そこから解放されるというのも、同じディスコースの内側のヴァリエーションに過ぎないわけで、そこに出口なしの悩みがある。

というわけで、第2巻と3巻にこのままのいきおいで、読み進めることにする。

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2018年12月21日

Posted by ブクログ

生権力の概念をコンパクトに展開した章が白眉。史料考証は抑えてあるものの、フーコーの統治性論のエッセンスが示されてある。同氏の70年代後半のコレージュドフランスと合わせて読むことで、綿密な考証と概念枠組みの素描が一体となり、非常に重要な著作群であることが認知されてくる。

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2015年12月26日

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一つの社会における、権力と快楽と知は、いかにして関係するか――。


性とはそもそも、秘すべきものとしてはじめからあったのではなく、たとえばカトリック教会における告白の要請など、「制度」が性について語ることを煽動したことによって、語る=暴くために隠すようになった。
いわば、制度の必要に伴う変化だったのである。

「18世紀以来、性は絶えず全般的な言説的異常興奮とでも呼ぶべきものを惹き起こしてきた。しかも性についてのこれらの言説が増大したのは、権力の外で、あるいは権力に逆らってではなかった。それはまさに権力が行使されている場所で、その行使の手段として、なのであった。」(P.43)


我々の、性にまつわる言説への意識を反転させ、権力の表象へと眼をひらかせる、明晰にして官能的なミシェル・フーコー。
その、なまめまかしく悩ましい文体の快楽!

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2012年03月18日

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めも)

p96 一般的に認められている抑圧という事態や、また、我々が知っていると想定するものを基準に計られた無知から出発するのではなく、知を産出し、言説を増加させ、快楽を誘導し、権力を発生させるこれらの積極的なメカニズムから出発し、これらのメカニズムがどのような条件において出現し、機能するのかを追い、これらのメカニズムとの関係で、それと不可分の禁止や隠蔽の事実が如何に分配させるのかを探求しなければならぬ。一言で言えば、このような知への意志に本来的に内在する権力の戦略というものを定義すること。…

p119  権力という語によってまず理解すべきだと思われるのは、無数の力関係であり、それらが行使される領域に内在的で、かつそれらの組織の構成要素であるようなものだ。絶えざる闘争と衝突によって、それらを変形し、強化し、逆転させる勝負=ゲームである。これらの力関係が互いの中に見出す支えであって、連鎖ないしはシステムを形成するもの、あるいは逆に、そのような力関係を相互に切り離す働きをするずれや矛盾である。更に言うなら、それらの力関係が効力を発揮する戦略であり、その全般的構図ないし制度的結晶が、国家の機関、法の明文化、社会的支配権において実体化されるような戦略である。…権力の遍在だが、しかしそれは権力が己の無敵の統一性の下にすべてを再統合するという特権を有するからではなく、権力があらゆる瞬間に、あらゆる地点で、というかむしろ、一つの点から他の点への関係のあるところならどこにでも発生するからである。権力は至る所にある。すべてを統轄するからではない、至る所から生じるからである。

91 我々は性に真理を語ることを求める(が、しかし、性がまさに秘密であり、それ自身からも逃れ去るものである以上、ついに照らし出された真理を、その真理のついに解読された真理を、我々自身で語る権利は取っておく)。そしてまた、我々は性に、我々が直接的意識において所有していると思っている我々自身についてのあの真実=真理の底に深く埋もれた真理というものをこそ語れと要求するのである。我々は性に向かって、性の真理を、性がそれについて我々に語ったところを解読することによって語ってやる。性の方は性の方で我々に対して、我々についての真理を、それについて我々の手に捉えられないものを明らかにすることによって語ってくれるのだ。まさにこのゲームによって、数世紀この方、徐々に、主体についての知が形成されてきた。主体の形態についての知というよりはむしろ、主体を分割するものについての知だ。主体を決定するものに関する知でもあろうが、とりわけ、主体を主体そのものに対して捉えがたくしているものに関する知である。このことは予想外のことに見えるかもしれないが、…告白という、西洋世界においてあれほど決定的に重要であったあの<権力である知>の形態が、どのように作用の場をずらされ、またそれ自体変形されてきたかを考えるならば、ほとんど驚くには足らないはずのことだ。ますますその輪を狭めていく円環に沿って、主体の学の企てが、性の問題の周囲を回転し始めたのだ。…しかしながらそれは、性そのものの帰属する何らかの自然的特性というものによるのではなく、この言説に本来的に内在する権力の策略によってなのだ。

95 …しかし、出発点の前提として私ができる限り長く保有しておきたいと思うものは、権力と知との、真理と快楽とのこれらの装置、抑圧とはかくも異なるあれらの装置は、必ずしも二次的で、派生的なものではないということであり、また、抑圧はいずれにせよ根底をなすものでも、勝負に勝つものでもない、ということだ。従って問題は、これらの装置をまともに受け取り、分析の方向を逆転させることなのだ。一般的に認められている抑圧という事態や、また、我々が知っていると想定するものを基準に計られた無知から出発するのではなく、知を産出し、言説を増加させ、快楽を誘導し、権力を発生させるこれらの積極的なメカニズムから出発し、これらのメカニズムがどのような条件において出現し、機能するのかを追い、これらのメカニズムとの関係で、それと不可分の禁止や隠蔽の事実が以下に分配されるのかを探求しなければならぬ。一言で言えば、このような知への意志に内在する権力の戦略というものを定義すること。性的欲望という具体的なケースについて、知への意志の「経済学〔生産・分配・管理の学〕」を成立させることなのである。

(115 結局のところ、時代と目標が異なっても、権力の表象は相変わらず王政のイメージに取り憑かれたままでいる。政治の思考と分析においては、人は相変わらず王の首を切り落としてはいないのだ。)
(118 …、法なしで性を、王なしで権力を考えることだ。)
→119

122 権力の関係は、意図的であると同時に、非-主観的であること。事実としてそれが理解可能なのは、それを「説明して」くれるような別の決定機関の、因果関係における作用であるからでなく、それが隅から隅まで計算に貫かれているからである。一連の目標と目的なしに行使される権力はない。しかしそれは、権力が個人である主体=主観の選択あるいは決定に由来することを意味しない。権力の合理性を司る司令部のようなものを求めるのはやめよう。…権力の合理性とは、権力の局地的破廉恥といってもよいような、それが書き込まれる特定のレベルで屡々極めてあからさまなものとなる戦術の合理性であり、その戦術とは、互いに連鎖をなし、呼び合い、増大しあい、己の支えと条件とを他所に見出しつつ、最終的には全体的装置を描き出すところのものだ。そこでは、論理はなお完全に明晰であり、目標もはっきり読み取れるが、しかしそれにもかかわらず、それを構想した人物はいず、それを言葉に表した者もほとんどいない、ということが生じるのだ。

123 権力のある所には抵抗があること、そして、それにもかかわらず、というかむしろまさにその故に、抵抗は権力に対して外側に位するものでは決してないということ。人は必然的に権力の「中」にいて、権力から「逃れる」ことはなく、権力に対する絶対的外部というものはない、何故なら人は否応なしに法に従属させられているから、と言うべきであろうか。それとも、歴史は理性の詐術であり、権力のほうは歴史の詐術だが、これはいつも勝負に勝つものだと。それは権力の関係の持つ厳密に関係的な性格を無視するものだ。権力の関係は、無数の多様な抵抗点との関係においてしか存在し得ない。後者は、権力の関係において、勝負の相手の、標的の、支えの、捕獲のための突出部の役割を演じる。これらの抵抗点は、権力の網の目の中には至る所に現前している。権力に対して、偉大な《拒絶》の場が一つ…あるわけではない。そうではなくて、複数の抵抗があって、それらがすべて特殊事件なのである。…本質的に、抵抗は権力の関係の戦略的場においてしか存在し得ない。しかしそれは、抵抗が単なる反動力、窪んだ印にすぎず、本質的な支配に対して、常に受動的で、際限のない挫折へと定められた裏側を構成するのだ、ということを意味しはしない。抵抗は、幾つかの異質な原理に属するのではない。しかしそれにもかかわらず、必然的に失敗する囮あるいは約束というのとは違う。それは権力の関係におけるもう一方の項であり、そこに排除不可能な相手として書き込まれている。それ故、抵抗のほうもまた、不規則な仕方で配分されている。抵抗の点、その節目、その中心は、時間と空間の中に、程度の差はあれ、強度をもって散らばらされており、時として、集団あるいは個人を決定的な形で調教し、身体のある部分、生のある瞬間、行動のある形に火をつけるのだ。重大な根底的拒絶であり、大々的な二項対立的分割であろうか。屡々そうである。しかし、最も頻繁に出会うのは、可動的かつ過渡的な抵抗点であり、それは社会の内部に、移動する断層を作り出し、個人の中に、その身体とその魂の内部に、それ以上は切りつめることのできない領域を定める。権力の関係の網の目が、機関と制度を貫く厚い織物を最終的に形成しつつ、しかも厳密にそれらの中に局限されることはないのと同じようにして、群をなす抵抗点の出現も社会的成層と個人的な単位とを貫通するのである。…



126 セクシュアリテというある種の領域があって、それは理屈の上では科学的で公平かつ自由な知識に属するが、しかしそれに対して権力の要請 ――経済的乃至はイデオロギー的な要請――が、禁止のメカニズムを作動させるのだ、などとは考えないこと。性的欲望(セクシュアリテ)が認識の領域として成立したのは、それを可能な対象として制定した権力の関係を出発点としてである。また、逆に、権力がそれを標的として見做すことができたのは、まさに、知の技術や言説の手続きが性的欲望にそのような価値を与えることができたからに他ならない。知の技術と権力の戦略の間には、いかなる外在性の関係もない、…

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2010年07月14日

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 フーコー。最高。性の歴史第一巻。感動した。こんな天才になりたい。また、邦訳が最高。できればフーコー全部この人に翻訳してもらいたいと思った。でも二巻から違うんだよね。。こんなに美しい本を初めて読んだような気がする。2008.4.30-3(4d).

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2009年10月07日

Posted by ブクログ

性の歴史Ⅳの『肉の告白』が出版されたこともあり、性の歴史を改めて読むことにした。先日亡くなった渡辺守章先生の訳書でもあり、その点でも感慨深い。
渡辺守章先生も訳者あとがきで言及されているように、フーコーが明らかにしようとしている性をめぐる言説が、ドゥルーズ=ガタリの『アンチ・オイディプス』を意識していることが伺えるし、リゾームのような形態をとっているのだということも理解できる。
このフーコーの言説をどのように現代社会に活かすのか、アクチュアリティを持たせるのかは現代を生きる我々の課題なのだと思う。

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2022年01月02日

Posted by ブクログ

そういえばフーコーを読んでいなかったということに(今更)気づき、慌てて読んでみた次第。

権力というのは最近の関心ごとの一つなのだけど、それを描写する際に性に着目したのはかなり慧眼だったのではないのかという印象を読んでいてもった。性と現代の宗教を権力という観点から比較してみたい。

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2013年01月07日

Posted by ブクログ

【2011年_11冊目】

生きることって,性に関することなのか.よりよく生きたい=よりよく性活動をしたい.自由じゃない性活動とともによりよく生きることは本当に不可能なのか.児童買春を人権侵害だと言ってるのも,作られた見方?当たり前だと思ってたけど,そういうこと?フーコーさん.もう頭ボヤボヤ.

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2011年11月17日

Posted by ブクログ

いや知恵熱しか出なかった。
最後の一文でさらに「う〜ん」となってしまった。
フーコーの入門書読んで再読します。

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2022年02月10日

Posted by ブクログ

大学の授業テキスト。今後フーコー以上の思想家が出てくることはない、という点で読むべきだと思うけど、難しいです。

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2009年10月04日

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