【感想・ネタバレ】快楽としての動物保護 『シートン動物記』から『ザ・コーヴ』へのレビュー

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Posted by ブクログ


動物を保護することそれ自体は、素晴らしいことだと思うが、どこか商業的であったり、偏りがあったりする点が否めないのが、現代の動物保護の問題点なのかもしれない。

この本は、そんな「偏りのある動物保護」を「快楽としての」という批判をしていて、シートン動物記から、写真家・星野道夫、そして、一時話題となった『ザ・コーヴ』の3点から考察していく。


一見、あまり関連性のない3つのテーマだが、話が進むにつれて、一つにつながっていく展開が、なかなか面白い。

(P358)『多様性を大切にする発想とは、多様なものの中には自身の嫌いなものも含まれているという事実を認めてそれを引き受けることだ』
本を含むメディアの情報は、全て切り取られた自然であり、自然そのものを体感することは難しくなっている。


「動物を守ろう」という運動は、その動物の、かわいさだとか、人懐っこいところだとか、そうしたアイコニックな部分が強調されるのはある意味では仕方がないのかもしれない。

「全て」を掬い取ることは難しいが、少なくとも一度は目を向けてみる必要性があることを、今後も忘れてはいけないと感じた。

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2022年05月20日

Posted by ブクログ

 比較文学・文化学者の手による、現代動物保護思想への批判の書。取り上げられているのは動物文学者シートン、自然写真家星野道夫、そしてアカデミー賞ドキュメンタリー部門受賞映画「ザ・コーヴ」。なんだか三題噺のようではあるが、本書はこの三者をはじめとする大衆文化内のイメージや表象を題材に、20世紀以降の主に西洋社会における急速な近代化の過程で、「動物愛護」という美しきヴェールを纏いながら確実に浸透してきたある特定の「思想」に照明を当てる試みだ。本作を通じて著者は、複数の文化の自然や動物との連関を丹念に解きほぐし、自然保護や動物愛護運動を形作ってきた表象・イメージの根源を露わにしたうえ、根底にすこぶるややこしいものが存在する可能性を指摘する。扱われる題材はかなり広範囲で、著者の論理の運び方も直線的ではないため読み進めるのに若干骨が折れるが、「動物愛護」の美名に触れると思考停止に陥りがちな我々現代人にとって、十分な知的刺激になり得る本だと思う。当然ながら、捕鯨の是非などという問題には一切触れていない。 
 
 第一章では、かつてアメリカで動物文学の第一人者とされながら非科学的であるとの批判を受け表舞台から姿を消したニュートンと、彼の作品の日本における浸透の立役者となった動物研究者平岩米吉に焦点が当てられる。20世紀初頭のアメリカの都市化・近代化の過程で、自らが引き起こした急激な社会変化に不安を感じた白人支配層の間に、人工環境ではダーウィニズム的な自然淘汰がもはや機能せず、このままでは白人社会は退化していくのではないかという強迫観念が生じた。これが「自然回帰運動」に繋がるのだが、そこでは自然の「ありのまま」の状態が最上位概念とされ、シートンのような動物にまつわる逸話を「合成」して物語を構成する作家は「ネイチャー・フェイカー」であると批判され、次第に忘れ去られていった。
 著者によれば、シートンと平岩には共通する科学観が存在しており、それは科学至上主義に対するある種の不信感だという。2人とも動物に対するアプローチは科学的なものであったが(いくつかエピソードが紹介されているが2人とも驚くほど冷徹に動物、特にその死体を扱っていたことに驚かされる。最近日本で「猫は別に可愛いとは思わない」と言ってのける猫専門の動物行動学者がTVで話題になったことを思い出した)、それはあくまで動物の「真実」を理解するための方便であって目的ではない、動物を伝記的、擬人的に扱うことで得られる真実、すなわち「『彼ら』としての視点」こそが重要だ、と考えていたのだという。そもそも動物を完全に客観的、非擬人的に描写することなどできず、「科学的」アプローチにも何らかの「人間中心主義」が混入することが避けられない。また、都市化による利便を十分に享受し支配者としての地位を確保しながら自然回帰を賛美するというのは明らかに身勝手だろう。著者は、このことを認めないまま科学至上主義、自然回帰を謳う態度こそに欺瞞の匂いを嗅ぎ取っているのだ。

 第二章は、自然保護運動から距離を置いたままアラスカを放浪し、ついには非業の死を遂げた写真家星野道夫を題材に、自然保護運動の起源が語られる。起点となるのはしかし星野ではなく、自然を撮影した写真をコンピューター処理することを肯定したベストセラー写真家、アート・ウルフ。彼の写真は、フロンティアが消失した20世紀アメリカにおいて、真の自然すなわち「ウィルダネス」を取り戻すべくハンティングの代替としてフォトグラフィーが普及する文脈において、自然保護意識を啓蒙するものとして支持を集めた。動物を食うために狩猟するのではなく撮影して楽しむという行為は、ここでも退行を恐れる白人層に、己を未開人種から区別する「進化」の格好の表象としてアピールした。そのような社会的文脈に戦後のビートニク思想が加わり、日本人に自然と合一した表象が被せられたが、その一人である星野にも、本人の預かり知らぬところでエコロジストとしてのイメージが付着していく。
 しかし、星野自身は自然保護活動とは距離を置いていたというのが事実だという。当時のアラスカでは開発に伴う議論、すなわち「資源活用か景観保護か」が盛んに行われていたが、著者はこれをアングロサクソン側の都合により捏造された虚偽の対立軸であり、何ら先住民の視点に立ったものではなかったという。17世紀に生じた、自然は理想的な姿に自律回復するというデカルト的な「機械としての自然」観が20世紀の開発を巡る論争の中に再導入された結果、西洋中心的な「エコ」イメージが優先され先住民の都合は完全に置き去りにされていた。星野もこのことを鋭敏に感じ取り、先住民の真の価値観や彼らと自然の関係性を追求していたというのだ。星野は、エコ思想に沿ったウルフ的な「見られる自然」を追求するフォトグラフィーよりも、そこからはみ出ていこうとする「見られることのない自然」、すなわち不在や死を内包するより根源的な自然を見たいと考えていた。エコとは関係なく生活する先住民に、星野は誰かに見られ評価されなくても価値のある実在的・超越論的なもの、都市生活者が決して理解し得ない「何か」を、自分でも分からないままに見出していたのだ。

 そしていよいよ第三章では本書が書かれる契機となったであろう「ザ・コーヴ」が扱われるのだが、そこに至るまでには長い前置が必要となる。まず前史時代よりクジラやイルカの生存環境が人間のそれから乖離していたため、相互の関わりが濃密なものではなく、長らく人間はそれらを主に想像の領域で扱ってきたことが語られる。これはそれらが「存在の大いなる連鎖」すなわち西洋に古くから存在する、神ならぬ全てのものは神に最も近い人間を頂点とし、最も低俗で不完全な創造物を底辺とする階梯状のヒエラルキーをなしているとする観念の中での位置付けが曖昧であったことを意味する。明らかな人間との近縁性を示し人間の野蛮な動物性を連想させずにはおかない類人猿たちとは異なり、「知性をも」ち不完全性へのグラデュエーション外部に存するクジラやイルカは、人間が自らをも野蛮な不完全性から自由であることを確認し得る象徴として機能したというのだ。そして同時に、動物に対する未開社会の即物的な欲求を再教育すべきだという変革への強い信念が生じ、これが「エコ・テロリスト」たちの過激な活動の根底にあると指摘している。
 このように、本書では西洋白人社会の宿痾を指すものとして「退行への恐怖」というモチーフが繰り返し用いられる。熱力学第二法則にあるように、低エントロピー状態からはエネルギーが取り出せるが、徐々に世界はカオスに落ち込み、エネルギー(経済成長)の源泉である落差(フロンティア)はいずれ無くなる。このことに怯える西洋社会が、「落差はまだある」と強弁すべく持ち出した新たなテーゼが動物愛護や自然保護だった、ということを著者は言いたいのだと思う。

 本書に通底する西洋白人社会に対する冷たい眼差しは、もちろん一義的には単一的な価値を絶対視するドグマへの批判ゆえのものであろう。しかし別の読み方もできるのでは。私見ながら日本人は、奴隷制度などの明示的な差別を受けた黒人などの他の有色人種と比べ、西洋社会が作り上げた「大いなる連鎖」の中では相対的に曖昧な位置付けにあると自認してしまっているように思う。階梯内に位置付けられてしまうこと自体の意味に無自覚なまま…。本書を読みながら、ぼんやりとそんなことを考えた。

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2021年01月28日

Posted by ブクログ

個人的には中盤から終盤にかけてがハイライトだったと思います。
so whatが見えづらい展開にもどかしさを感じることも多々ありましたが、全体として読む労力に見合うリターンを得られました。

「階層」「文化」「メディア」「知性」論を展開して近代的動物保護思想への鋭い指摘を構築していく過程に、印象深い記述が多かったように思います。
例えば、写真は鑑賞者に対して希少動物の「不在」を伝えるには不適なメディアであることが言及されています。それを踏まえると、本書が紹介する動物保護をめぐる衝突のいくつかは、当事者間の事実認識の相違がもたらすミスコミュニケーションに起因するのではないかと考えられます。
特に動物保護活動には恣意性が介入しやすいため、何をどの手段で伝えるかにはもっと注意が払われるべきだと理解しました。

読者の考えを促すような示唆が多く残されているのに、それらが構成上わかりづらくなっているのが残念な点でした。
どうせ論文を再編成するのなら、ファクトの部分よりも著者の分析や示唆にもっとスポットを当てて欲しかったです。
それだけ有意義な指摘が多かったことは確かでした。

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2022年06月26日

Posted by ブクログ

動物保護,環境保護に熱くなる人を見たときの違和感を言語化してくれている.その背景には白人至上主義的な思想が根底にあるのでは(もちろんそれだけではないが)と読み取る.

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動物の保護、愛護にまつわる文学→写真→動画のメディアの変遷。
そしてそこには西洋の人種主義、優生思想や異文化の浄化が見え隠れする。

スナップショットを見て自然や動物を解った気になる浅はかさ。
アラスカという経験しないとわからない、経験してもなお分からないことがある世界。星野道夫。
わからないを認め、受け入れる。

反捕鯨活動、北米でドキュメンタリーが放送。→一大総合娯楽に。

メディアホエール
実態とは乖離した人の想像上のクジラ、イルカ

キリスト教、神に似た生き物として人間を作り、その人間が他の生物を支配する。
「保護しろ!」もエゴの押し付け 動物の保護を訴える俺気持ちいい〜!なだけ。→自分ではない"虐待する誰か"を見つけ攻撃したいと言う目標

猿は人種的野蛮感を感じさせるがイルカにはそんなイメージがない、知性的、友好的、平和的

エコテロリスト「メディアとは、事実を伝達するためではなく、自分たちの言い分を効果的に伝えるための手段にすぎない」

シーシェパードのような環境保護団体は大衆に救済物語という娯楽を提供する。変わりもしない世界を変えるという疑似成功体験、欲望を満たす商品。→この手の話そこらじゅうにあるよな。

動物を「なぜ」保護するのか。単純だけど未だ答えが見えない問い。その結果として見えてきた人間のエゴ、理想と現実の矛盾した活動

多様性を認めると言うことはその多様なものの中に自分の嫌いなものがあってもそれを受け入れること

筆者の博士論文がもとなのかこれ。。。すごい。。

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2020年12月23日

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