【感想・ネタバレ】「駅の子」の闘い 戦争孤児たちの埋もれてきた戦後史のレビュー

\ レビュー投稿でポイントプレゼント / ※購入済みの作品が対象となります
レビューを書く

感情タグBEST3

Posted by ブクログ

読みやすい
こういうことがあったこと、日本人みんな知るべきとおもう

こんな女をもらったと思われるのが辛い と夫にも言えなかった のが印象的

0
2024年05月18日

Posted by ブクログ

「軍港の子〜よこすかクリーニング1946〜」というNHKのドラマを見て、
戦争孤児の史実を知りたくなり、手に取ってみました。
新書ですが濃厚な一冊。良書です。
沢山の方に読まれるべき、価値ある本です。

0
2023年09月06日

Posted by ブクログ

 戦争がおわってから闘わざるを得なかった戦争孤児の事を知ってほしい。1945年の本土空襲が激化した敗戦前夜から敗戦後にかけて、親類に頼ることが難しい空襲被害者たちは、駅舎や地下坑道を占拠し、雨風をしのがざるを得なかった。特に、両親を亡くした子供たちの辛苦は、筆舌に尽くしがたい。生きるためには、スリや万引き、泥棒に手を染めて生き延びた子供たち。見捨てられて餓死し、自ら命を絶った子供たち。戦争をはじめた大人たちは、そんな子供たちを汚物でも見るように、犬同様に蹴散らし、面罵する。児童福祉等に関する法整備が進む中で、「狩りこみ」にあい、鉄格子のある建物に軟禁状態で収容される子供たち。一方で、公的支援は乏しく、個人で施設を開設し、子供たちを優しく支援する大人たち。戦争孤児の方々は、口をそろえて親類宅での苦しみを語る。家族と親類との近くて遠い壁は想像を絶する。

閑話休題 敗戦後に闘った日本人
敗戦を知り、徹底抗戦を訴えて特攻の巻き添えにあった航空兵。クーデターを目論んだ、軍部とその犠牲者(半藤一利の書籍「日本のいちばん長い日」)。
敗戦の報を知らされず、樺太・サハリンで抗戦を続け、非難中に殺された民間人たちや南方で発見された小野田寛郎陸軍少尉、横井庄一氏。
敗戦と同時に、ベトナム軍に加わった日本人、中国で蒋介石率いる国民党軍と毛沢東率いる八路軍に組み込まれた軍人や医療従事者などの民間人。その他の国々でも各国の戦士として闘い、もしくは異国で家庭をもって暮らした日本人。
戦争がおわってから闘い続けた日本人が少なくない事はあまり語られない。一方で、占領軍(進駐軍)の流入により日本の女性が辱めを受けると、敗戦後1週間で占領軍(進駐軍)向けの慰安所開設に奔走した日本の政治家たちがいたことも忘れてはならないだろう。

0
2022年11月16日

Posted by ブクログ

時代とはいえ、人間、社会、国の身勝手さを一身に引き受けて、生き抜いた「子どもたち」がいたという事実。

0
2022年07月25日

Posted by ブクログ

絶対に絶対に絶対に戦争を起こしてはいけない。当たり前のことを深く再認識できた。
沢山の戦争孤児たちの壮絶な体験をもっと知るべきだし、絶対に忘れてはいけない。
戦争につながるものはいちいち全力で拒否していかないといけないのだと心に刻む。

0
2022年07月09日

Posted by ブクログ

マジョリティの視点ではなく、最も困難な周縁に置かれた人たちの視点から見た歴史は、日本ではあまり語られてこなかった。本当は周縁にいるマイノリティの視点こそが未来のために重要だ。

0
2021年08月27日

Posted by ブクログ

「だけど本当にほしかったのはぬくもりなんですよ」
■日本人として目を背けてはいけない事実■

知られざる戦争被害の一つの側面を見た。僕たちの祖先が被害者であると同時に加害者でもあったこと、日本人として知っておくべき内容だと思う。

何の罪もない子供がある日突然、戦争孤児になり、親が死んだことを悲しむ余裕もなく、戦後をどのように生き抜いたか。生きるために何をしたか、何を犠牲にしたきたか。親類、政治、行政、社会…要するに「大人たち」にどのような扱いを受けてきたか。
物言わぬ(言えぬ)弱者に冷酷な大人たち。見方を変えれば、みんな自分のことで精いっぱいだったのだろう。

「あの頃、浮浪児をしていた子どもたちはみんな飢えていた。何に飢えていたかというと、もちろん食べ物には飢えていた。着るものもなくて毎日寒かった。だけど本当にほしかったのはぬくもりなんですよ」

この切実な回想に、平和な時代に何不自由なく育つ子供を持つ親として、胸が締め付けられる。

東日本大震災後、日本人の慎み深く整然とした行動が世界で称賛された時期があった。僕は日本人であることを誇りに思っている。
しかし、そんな理性も慎み深さも、修身も道徳も武士道精神も、戦後生きるか死ぬかギリギリの時代では全く通用しなかったのだ。

著者はそんな時代を生き抜いた人々の実態を丁寧な取材により浮き彫りにしている。その時代のことを語れる人たちはどんどん減少しており、もう5年もすればこのような調査や取材は相当難しくなるに違いない。
そういう意味でも、生の声による戦争の後遺症の記録として本当に貴重なものだと思う。

0
2021年04月23日

Posted by ブクログ

NHKが戦争孤児となった人たちを丁寧に取材したルポ。
取材に答えてくれた方の切実な思いに涙があふれた。
現代の子供に対するいじめ問題に対して「駅の子」だった方からの言葉は、著者の言う通り賛否が分かれるだろうが、私の心にはとても響いた。当時いじめられていた自分はそうはできなかったけれど。
6歳から孤児となり生きていくこと=盗むことであり、犯罪に罪悪感を抱くことがなく、成長し、そして人を殺し死刑囚になった人の話が心に残った。
証言できるということは、今生きているということ、そして、真っ当な道を歩むことができた人であること。
蔑すまれ、疎まれ、それでも懸命に生き、立派になった人達は頭が下がるけれど、そうではない人も多くいたんだろうな、と想像した。
そして、駅の子がみな犯罪に走るのではなく立派になった人がいるとは言え、そうなれなかった人をどうして責めることができようか。
当時の孤児に対する扱いの酷さに、憤りを抱く。
孤児に関わる行政の役人や政治家は何を思っていたのか、気になっていたので、対談の記録は大変興味深かった。

0
2022年01月16日

Posted by ブクログ

ネタバレ

「駅の子」の闘い
戦争孤児たちの埋もれてきた戦後史

著者:中村光博
発行:2020年1月30日
幻冬舎

アニメ映画「火垂の墓」が公開された1988年当時は、戦争孤児の兄妹が路上生活して死んでしまうことに同情する人がほとんどだったのだろう、しかし、最近テレビで放映すると、親戚宅や施設から飛び出したのだから苦しんでも自分たちのせいだ、という自己責任論がSNSでは目立つ、とこの本に書かれている。誠に恐ろしい話だ。

戦争孤児になったのは言うまでもなく本人たちのせいではない。逆に彼らは一方的な被害者だ。著者は取材する中で、当初親戚で暮らしていたが堪えきれずに路上生活、すなわち「駅の子」になった戦争孤児が実に多いことを知った。朝から晩までやっかい者扱いされ、仲がよかったいとこからもいじめられ、早朝から遅くまで働かされ、食事に差をつけられ、厭味を言われ続ける生活。それでも、そこを逃げ出すのは自己責任だと言えるのか?これは学校でのいじめよりもっと辛いことだ。なにせ休まる場がないのだから。繰り返すが、今はそれを自己責任論で片づける、実に恐ろしい世の中になった。

とかく、戦争孤児たちについて、映画やテレビドラマでは、社会の垢、復興する日本の邪魔者、ワルガキというような印象を我々は持ちがち。
2018年8月から7回にわたってNHKスペシャルとして路上生活を余儀なくされた「駅の子」を放送したディレクターの著者が、放送しきれなかった部分を含めて書籍化した本書は、安易に自己責任論を振りかざす人たちにも、ぜひ読んでもらいたい一冊だ。

重い口を開いて語ってくれた老人たち。かつて「駅の子」となった彼ら彼女らの凄絶な生存記録は、涙なしには決して読めない。しかし、大変だったね、よく頑張ったね、で感想を終えてしまっては絶対にいけない。彼らは、犬のように扱われ、臭い、汚いと追い出され、水をかけられた。あまりに辛くて電車に飛び込んだものもいた。そんな彼らを全く救おうとしなかった国。それは、徴兵した国民に命をかけさせて守ったのが国民ではなく天皇を中心とした「国体」だったことの、延長線上にあることが感じられる。当時の厚生省の役人による座談会で、失業者、引き揚げ者、倒産、戦死者を出した家族など、対応しなければならない問題が山積で、戦争孤児まで手が回らなかったと、はっきりとサボタージュを認めている記録なども本書では紹介している。

それだけではない。今もって行政機関がかつての自分たちの間違いを指摘されないように圧力をかけている事実までも紹介している。戦争孤児を収容する養育院という東京都の施設における悲惨な状況について、当時の職員のほとんどが取材拒否したが、そこには東京都の責任追及を恐れる都からの圧力があったからだという。養育院を担当したOBたちに対し、内容をマスコミに漏らすことは公務員としての守秘義務違反であり、その場合は退職後の年金を減額することも検討すると言ったのだそうである。

どこまで身勝手で、「体」のみにこだわる国、そして同類の地方自治「体」なのであろう。

***(メモ)***

「駅の子」の多くが今も心苦しく思っていること、それは同じ「駅の子」を救えず死なせてしまったこと。金子さんは1日1本、なんとか手に入れたイモをきょうだい3人で食べていると、小さな子供がきて「ちょうだい」。仕方なくほんの少しやり、翌日からは隠れて食べていた。そんなふうに衰弱していく子供の死体を何人も見た。

小倉さんは大阪駅で夜を過ごしていたが、小さな女の子が無言で近づいてきた。裸足でお腹をすかせて可哀想だったので、高梁(コーリャン)饅頭を分けてあげた。何も言わない子だったが、2日ほど一緒に過ごしたら、その子は大阪駅前の路上で死んでいた。小倉さんも、ホームレスのおじちゃんたちも、みんな泣いた。

引き上げの最中に母親が死んで孤児となったある女性は、なんとか日本にまで辿りついたが、自分の生まれた場所も名前も思い出せなくなっていた。今も本名はわからず、大陸で生き別れた弟も探したが名前が分からないこともあり、ついに会えなかった。

それまであくまでも疎開は自主的なものとしていた国が、戦中、国策で学童疎開を始めた。それは、将来の戦力を残すためだった。疎開中に戦争孤児になった子供もいたが、戦後は一転、彼らに何も救いの手を差し伸べなかった。

国がなにもしないので、民間が頑張った。孤児たちを自分の家に招き入れ、方々に頭を下げて食料を分けてもらい、与えた。国からの援助もなく、すべて私費だった。噂を聞きつけて孤児たちが次々と集まり、100人ほど住んでいたところもあった。

戦争孤児だった金子さんは80歳をすぎてからATM店舗を清掃するアルバイトを始めた。月に1万円にもならないが、目的は、東京大空襲の被害者に対して国が補償することを求める活動をしている団体へ寄付するお金の足しにするため。

路上生活する孤児たちの惨状に業を煮やしたGHQがなんとかしろと命令してきた。重い腰を上げた国は、「刈り込み」を行い、子供たちをトラックに乗せて次々と施設に閉じ込めた。子供たちは自由を奪われ
鉄格子に閉じ込められて犯罪者のように扱われる「刈り込み」を恐れた。東京では「台場」もその一つで、「島流し」と言われていた。

広島の原爆で孤児になったある人。母親は1か月後に死亡。母親の背中はウジだらけで、途中から、もう死んでもいいと思ってしまった。

米兵相手に靴磨き。客がつくかどうかはいかにピカピカに磨き上げるか。大切なのは、アメリカ製の靴墨を使うことと、タオルではなくふわふわとした生地で磨くこと。みんなしていたのが、列車の座席のふわふわ生地をカミソリで切って使うことだった。

靴磨きは、進駐軍相手に体を売っていたパンパンたちと提携した。彼女たちは孤児たちに共通する境遇を感じたのかとことん優しかった。彼女たちを買いに来たアメリカの兵士たちに、この子に靴磨きさせてあげてよ、と言ってもらう。すると女の前でいい格好をしたのでOKし、おまけにチップも弾んでくれた。

孤児たちを収容した施設での扱いはとにかく酷いものだった。人間扱いされず、差別も受けた。そんな中、それに疑問を感じていたある東京の施設の職員だった品川博さん(30)は、孤児たちを誘って一緒に逃げ出して、自分の故郷の群馬県につれていって資金集めをして施設をつくった。一緒に逃げた孤児の伊藤さんはそこで高校まで通わせてもらい、その後は大学に通いつつ念願のアメリカ留学を果たし、アメリカで教師となった。

戦争孤児たちは、鉄道に乗るときはみんな「サツマノカミ」。つまり、薩摩守忠度(ただのり)。

戦争孤児たちが抱いていた社会への憤りは、著者が思っていたレベルを遙かに超えていた。「これから社会に一生たてをついて生きていこう」と覚悟を決めた取材対象者もいた。

唯一、国が調査した戦争孤児の数は12万3511人。しかし、終戦から2年半近くたって、転々と移動して暮らす子供が多い仲での調査なので、あてになる数字ではない。

0
2021年03月30日

Posted by ブクログ

終戦直後の上野駅構内には浮浪者、浮浪児が溢れ、毎日のように死者が出ていた。
板橋の孤児院では、冬に何十人もの子供たちが飢えと病気で死んでいった。
この本を読んだ直後、「終戦の翌年、2晩かけて兵庫の疎開先から母親と3人の兄弟と一緒に東京に着いた時、親父は迎えに来てくれなかった」という叔父の恨み言を聞いても、なんの同情も湧かなかった。
終戦当時叔父は10歳だったはずだが、当時、親も家もなくして道端に寝ている同い年の子供が大勢いたであろうに、家族の誰も死んでないし、東京の家も焼け残ったし、良い学校にも進学させてもらって、まだ文句を言っている叔父には、笑うほかない。

0
2020年08月05日

「学術・語学」ランキング