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自分って細かいこと気にしすぎなのかな?と自分の性格に悩んで買った本。「だれかのためにお茶をいれる」ただそのことが、これほど難しいこととは思わなかった。無理せず自分らしくあることは素敵なことだけど、それを追求しすぎて辛くならないようにしたい。
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1996年に発行されたこの本は、発行以来、版を重ねています。そして、大学入試問題にも何度も繰り返し出題されています。受験勉強に即効性のある読書(という表現そのものがそもそも矛盾していると思いますが)を求める人は、すぐにでも読むべき一冊です。著者の鷲田清一は、大阪大学総長も務めた哲学者。現在も多くの著作を発表しています。
「私とは誰だろう」―― このような問いを耳にすると、哲学好きでもない限り、そんな考えても仕方がないことをよく考えるな、といった反応をする人が多い気がします。しかし、そういう人も、人生のさまざまな局面で、じぶんとは何かをじぶんに問うています。恋愛で、進学で、就職で、そして家族のあり方、そして人生のフィナーレで。ひとは、じぶんとは何かを問わずには生きていけない生き物ではないでしょうか。
じぶんという存在が、じぶんだけで成り立っているのではなく、他者によって成り立つものであることを知るならば、人生はより生き易くもなるかもしれません。じぶんという存在を頑なに保持しようとするよりも、変化するじぶん、変わり得るじぶんをいつも想定し、他者と関わる方が、むしろじぶんらしく生きることであるという逆説、そしてそのことこそが、倫理的な存在としての人間のあり方なのだということを、高校生の時期に本書で理解するなら、この本を読んだ意義は計り知れません。この本から、長く残る衝撃を受けてほしいと思います。(K)
紫雲国語塾通信〈紫のゆかり〉2010年11月号掲載
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゛自他は相互補完的である゛
相互補完的とはお互いに足りないところや弱いところを補って、助け合うこと。
つまり、自己と他者は切り取っても切り離せぬ関係であると。その存在が持つ意味とは。
色々と考えさせられた。
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>なにをもって「自分」と言えるのか?
身体、能力、行動、いずれも自分を定義するには不十分。本書での思考プロセスを経るとデカルトの我思う故に我ありもちょっと納得。じぶんとは何なのか?今生きているという実感をもっとも瑞々しく得られる生き方をしていくべき?自分を意味づけるために失っているものはないか?
>「われわれにとって不可能でないものを不可能たらしめるのは習慣である」
水を飲むし、唾液も飲み込むけど、水と唾液をコップで混ぜて飲むことはしないよね、という例が私達の当たり前に疑問を呈してくる。ここで言う不可能はCanの否定ではなく、Willの否定ー意志を持たない、という意味だと思う。できない理由は能力にあると思っていたが、実は我々は意志に縛られていたのかもしれない。習慣と常識の不可能生を取り除けば目前に無限の選択肢が浮かび上がってくる。広く世界を眺めるべき
>意味の座標系に自分を挿入し「ひと」になる、座標系の中で周りと相対比較する
座標系の中に身を置いてしまうから、他者と比較して劣等感やしんどさを感じてしまうのかもしれない。社会が構築した座標軸に身を置くのではなく、自分の価値観を基に座標軸を設定して、その中で動いていくべきか。はたまた、座標軸において図ることのできないシュレディンガーの猫となるべきか。
>「わたしの世界」は他人には触れられないもの
この事実は改めて認識すると非常に意義深い。結局、どのような苦しみ・楽しみ・悩みを経ようとも、この自分の世界観は他者に対して共有されない。伝えたとしてもほんのほんの一部分だけである。
1.他人を理解するのはとてつもなく難しい。表面的な言動を見るのは簡単だが、その裏には広大なその人だけのUniverseが広がっている。真に他者理解や顧客理解を行うには注意深いプロセスが必要である。
2.自分の世界は自分だけのものであり、それをどう彩るかは自分次第である。この世界の構築において、他者に対して一切の遠慮は必要ない。この世界の唯一のオーナーである自分こそが主役として世界を創っていくべき
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むちゃくちゃ面白かった。でも難しいテーマだから半分くらいは消化できてなくて、もう一度読んで、自分の中に落とし込んでいきたい。
いまのこのコロナの状況だったり、SNSの誹謗中傷の件だったりに通じる内容だと思った。1人では生きていけない、という考えに懐疑的だったけれど、初めて少し納得できたかもしれない。
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・“遠い遠いとこ、わたしが生まれたよりももっと遠いところ、そこではまだ可能がまだ可能のままであったところ” (哲学者,九鬼周造)
つねに一定のだれかであるために、ありえた自分をつぎつぎと捨てていくこと、特定の文化や社会的なイメージに自分を合わせていく作業が必要となる。それが、じぶんになるということである。
でも結局は、我々は自分を自分ではわからないし、顔は直接みることもできず、何をしたいかもわからず、自分は他人の中にしか存在しない。
それを証明できないと、不安になるけども、実はそれは自由の喪失ではないかもしれない。だれかであることをやめることによって、誰にでもなれる自由がそこにあるということ。”自分がぼやけることの心地良さ” 。
誰かと親密になる中で、その人の中の自分がぼやけることを畏れたり、どう思われるかを終始気にしているのはとても疲れてしまう。
誰かが定義する私が、自分になってしまうからだ。でも、その”わたし”はわたしが自分に語って聞かせるストーリーで、同じ人生でも、語り方によって、解釈のあたえかたで物語は変わる。ほんとはなんにでもないから、なんにでもなれる、そう思うと少し心が軽くなりました。
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同じ線の上にいなくてはいけないのだろう
同一の存在でいなければいけないという脅迫観念が不安に駆り立てる
わかりやすいって死ぬほどたいくつ
存在が不可解であるからこそ、それに魅かれる
自分の時間を他人のために失うことをポジティブに
じぶんらしさは自分以外のなにかあるものを求めるプロセスの中で後からついてくるもの
自分の行動が他者に及ぼす効果によって自分が何者であるかを教えられる
他者の他者
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鷲田さんの思想の概説書のような内容。とても平易な文章で分かりやすく書かれており、構成も綺麗なので入門として適当。
本書では誰もが抱く自己の存在への疑問に正面から挑戦している。年食ってもたまに自分とは?という苦悩に襲われる自分としては、悩みを代弁されている感じがして非常に心地よく読めた。
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受験期に何度か読んだのを再読。
「わたしは誰?」というあてのない問題を巡って、筆者が身近な事例と照らし合わせつつ、考える手伝いをする。
〈わたし〉は結局〈他者の他者〉という形でしか存在しえない、その事実に否応なく気づかされる。一人でいるのが好きで、一人が一番落ち着くというのに、その一人を保証しているのが紛れもない他者の存在であるということ。
誰かのことで悩んで悲しんでいるときこそ、他でもないこの自分が生きているという気にさせる。ひとはそういうものなのだろう。
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古代ギリシャ、ソクラテスの時代には存在していた、「『わたし』とは何か」という問いに、易しい言葉で切り込んでいく、哲学的思考の入門書。
「わたしたちは普通、成長するということは様々の属性を身につけていくことと考えているが、ほうとうは逆で、年とともにわたしたちはいろいろな可能性をうしなっていくのではないだろうか」とは、宮崎駿先生も言っていた。
「わたしがだれであるかということは、わたしがだれでないかということ、つまりだれをじぶんとは異なるもの(他者)とみなしているかということと、背中合わせになっている」とは、ソシュール先生の一般言語学講義に似ている。
「『自分らしさ』などというものを求めてみんなはじぶんの中を探し回るのだが、実際わたしたちの内部にそんなものがあるはずがない。」とは、内田樹先生も言っていた。
色々な本の中で繰り返し語られることによって、これらの考え方に対しては、ずいぶん慣れてきた。そして、鷲田先生の言葉は平明で、それらの考え方を振り返るのにちょうど良かった。
私にとっての「自分」とは、「他者の他者」としてしか認識できないのであるから、その答えは、他者との関わりの中にしか見えてこない。自分の他者性を理解してれる他者を見つけて、そのような複数の他者との関わりによって、「自分」の輪郭はぼんやりと見えてくるのかもしれない。
ところで、僕はそんなに、自分を知りたいと思っているのだろうか。
こんなおぞましい者の輪郭を、そんなにくっきり見たいとは思わない。
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「自分とは他者の他者である」
他者にとって意味のある存在(ポジティブ、ネガティブニかかわらず)になって初めて自分‹わたし›を認識できる。
自分を理解するためには他者と距離を置き自分の内側を探索するのではなく、他者との距離を図る必要がある。
「あなたにとってわたしは誰なのか?」
というシンプルな問の答えが、紛れもない‹わたし›なのである。
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「アイデンティティの衣替え」という言葉が一番しっくりと腑に落ちた。「他者の他者」であるために、様々な他者に合わせて付け替えている面...。そのことによって自身の生を、存在を感じる感覚...。没個性的な自身を詰るのはもうやめよう。
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胃の存在は普段は意識せず故障してはじめて意識する。わたしはだれか、という問いはわたしの存在が衰弱した時に際立つ。
自分がついにはだれの記憶からも消えて、存在したかしなかったかすらも定かではなく、さらにはそれが問題とすらならなくなってしまう。
人はひとそのものを愛するのではなく、その性質だけを愛している。
成長するということは様々な属性を身につけていくことと考えているが本当は逆で、年とともに色々な可能性を失っている。
そうありえたかもしれない自分を次々棄てていくことではじめて自分になる。
成熟というのは同一であることを願うひとにしか訪れない。未熟とはアイデンティティの不在、一貫性のなさ、持続性のなさ。節操なくあきっぽく、気まぐれでじっとしていない。
震災のボランティアについて:待機しているのを、せっかく来たのにぶらぶらさせられていると不満に思うのはお門違いである。予備軍がいてくれるからこそ我々は余力を残さず使い切ることができるのだ。
私達は顔を思い浮かべることなしに他のひとに思いをはせることはできない。
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「わたし」とはだれか。
いくつもの見方、考え方が具体的に示されていて、興味深く読みました。
テレビの視聴の弊害、双方向ではない視線の持ち方が身についてしまうことについて、腑に落ちました。
私が経験した子どもの授業参観や学校行事のときの保護者の方々のおしゃべりは、テレビを見ながらお話する感覚なのだろうと思いました。
双方向性をどうすれば取り戻せるのか。
見られている自分という感覚をどうすれば取り戻せるのか。
考えるためのヒントはいくつも示されていて、その意味で日々に活かせる内容の一冊でした。
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書店で何の気もなく、鷲田さんの本だということで
手に取った本。しかし20年近く前の本でした。
しかし、なかなか読みごたえがあり、非常に本質的な
内容であり、鷲田さんの本質的な問いがある内容だと
思います。
「自分とは何か」という問いは、すでにこの年になった
自分にとってはすでにあまり問うことがなくなった
問いではあります。他者の他者である自分という
想いはすでに感覚的にあって。。
結婚して息子ができた時点で、自分とは何かという
問いに、素直に息子の父親であるという答えを
得た気がしました。
会社で回りの上司や部下と接しているときや、社会で
様々な人と接する時に、自分の意義や問いを積極的に
持っている人や、他者における自己の存在意義を強く
探しているのだろうなあと思える人が、多くいるなあと
思います。少し苦手です。
自分はというと、この問いが非常に苦手で。。
自分と他の境があいまいな感じがしたり、他者の他者で
ある自分。他者の中に存在する自分というのが
気持ちの悪いものに思えたりしました。
ただ、上で書いたとおり、息子ができた時、素直に
自分の存在を認識できたと思ったことがありました。
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「私とは何か?」という哲学の問題を、やさしい言葉で論じた本です。
著者は、固有の「私」というものを自己のうちに求めても、何も得られないと主張します。われわれはこの世界に生まれたときから、さまざまな他者とのかかわりのなかに存在しています。そうした他者とのかかわりを通して、ありえたかもしれない自分のあらゆる可能性を捨てていくことで、固有の「じぶん」は成立するというのが、著者の考えです。
著者は、R・D・レインの『自己と他者』から、ひとりの患者のエピソードを紹介します。彼は、看護婦に一杯のお茶を入れてもらって、「だれかがわたしに一杯のお茶を下さったなんて、これが生まれてはじめてです」と語りました。ただ「誰かのために何かをする」ということ、そしてそれ以上でも以下でもないということは、ふつう考えられているよりもずっと難しいことだと著者は述べます。誰かに何かを「してあげる」という意識が働くとき、相手は単なる行為の客体とされてしまい、他者は自己の内に取り込まれてしまうことになります。こうした関係に陥ることなく、他者を他者として遇し、自己もまた他者にとっての他者として遇されるような関係のなかで、はじめて自己と他者の双方が固有の存在になることができると著者はいいます。こうして著者は、自己の固有性とは「他者の他者」となることだと主張します。
ところで、自己の固有性は、ともすれば社会のなかで固定化されてしまうこともあります。しかし著者は、そうした状況から外へと出る可能性をさぐろうとします。ここで著者は、われわれの社会から、固有名や戸籍、国籍といった制度をいっさい廃止して、「私」「今」「ここ」のような状況次第で意味内容を変化させることばだけを使って会話する社会を想像するR・バルトの議論を参照しています。そこでは、われわれは固定化された「私」という檻から解放されて自由になるのだろうかと著者は問い、しかしそこでの自己とはいったい何者なのかという問題に直面します。こうして問題がふり出しへともどったところで本書の議論は打ち切られ、読者をさらなる考察へと誘います。
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鷲田さんは私の在学時の学長さんでした。
恥ずかしいことに、在学中はその著書をまったくよんでいなかったのですが、ここ数年は仕事柄、鷲田さんの文章に触れる機会が多く、おもしろい人だと感じていました。
鷲田さんはおもしろいです。
理解しやすい。
そして頭めちゃくちゃいいんだろうなあ、
そしてこういうことをずっと気にして、頭に留めて、アンテナをはって、生きているんだろうなあ。
生きることの意味に迷ったらまた読まなくてはいけない。
ひきこもることの無為さを感じる。
我々は生に、意味を求めるけれども、その答えはないのだと。
けれどもあるとすれば、それは他者のなかにこそあるのだと。
働くことの意味や、生きることの意味さえ、教えてもらいました。
ありがとう。
《他者の他者》としての自分を磨いてゆこう。
そしてじぶんを移すために《他者》を求めよう。
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哲学者鷲田清一の本。
今盛んにアイデンティティの問題が取り上げられ、熱に浮かされたように"自分探し"だとか"自分らしく"なんていう言葉がよく聞かれる。
この本ではそもそも"じぶん"とはどういうことであるかを根本的に考えている。
自分らしさを探し求めることに意味はあるのか、
そもそも自分というものは本当に"ある"のだろうか。
自分を確認するためには他人の存在が必要というパラドクス。
比較的平易な文章で書かれているので、特に学生の方は一度読んでいただきたい。
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前半では、「自分」は他人と関わって何らかの役割を持ち、「他社にとっての他者/誰か」でいる、ということを区分けなどを使って説明し、後半では、他者と自分の関わりについて深堀されていた。
作者いわく、「ふつう」とは、同じ区分けを共有している時に感じるものである。その例として作中では男女の区分けなどをあげているが、今はジェンダーというボーダーを超えた概念が生まれていて、それがきっと新しい「ふつう」にあたるのかなと思った。
「ふつう」という言い方はあまり個人的には好きではないが、それはきっと「ふつうじゃない」=「おかしい」と感じてしまうような感覚を自分が持っているからだと思う。「じぶん」を認識するために区分けが必要であるなら、それを「ふつう」というのはやめていきたいと思った。
また、パーツを入れ替えた時にそれが自分と言えるか?というところに関連して「テセウスの船」を思い出した。
テレビや雑誌などのマスメディアによって〈顔〉(顔面ではなく、作中では他者から自分に対する知覚。声や緊迫した眼差しなど)を見る機会が減っているとあったが、作品が書かれた1996年にも増して、まさに今のコロナの時代こそその傾向が強まっていると思う。リモートワークでコミュニケーションにおいて不満や不安を覚えることは、顔も見えず、他者が自分に話している(=自分を知覚している)かが伝わりづらいからだろうと思い、すごく腑に落ちた。
「おしゃれ」は自分がしたくてするものだが、そこを突き詰めると、作者が言っているように「自分が(他者から)どんな自分に見られたいか」を表すことにも繋がるのかなと思った。
「自分の本当の死とは、他者に忘れられたり認識されなくなったとき」とあったが、『リメンバーミー』を思い出した。「わたし」が「わたし」として「他者」から認識されていることって、当たり前のようで実はすごく自己肯定感をあげてくれていることなのかもしれない。
他者から知覚され、必要とされることは大切なことだが、それが行き過ぎて他人の望む自分になってしまうと、それは「じぶん」ではなく、「他者が求めるイメージをそのまま投影した存在」になってしまうこと。そのイメージの中に自分はどこにもいなくて、それは「じぶん」が存在しているとは言えないと同義だと思った。
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『わたし』とは何か?それは自分の中を探しても見つかりはしない。『わたし』は《他者の他者》として初めて確認される。それは自分ではない他人にとって意味のある他者たりえているかを感じることだ。本書を読むと人と直に、生で接することの熱量やエネルギーを考えられずにはいられない。今のご時世的にも、ネットが発達した故に間接的なコミニュケーションが増えたことを思うと《他者の他者》である『わたし』を感じにくくなっているような気がする。鏡がなければ己の顔を見ることができないように、『わたし』が《他者の他者》であると感じなければ『わたし』は幾ら考えても自己の内部を探しても見える筈もない。現代社会を見ると、細やかで濃密な他者との関わりを必要としている時代もないように思う。
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高校2年生の時に一度読み、
自分の価値観に影響を与えた本。
当時は不明確な箇所が多かったのを覚えている。
今回、久々に自分の成長を感じる期待も込めて再読。そして2周した。
内容としては『じぶん』とは何?という問いに対しての著者の思考の流れが描かれた本。
(以下、あらすじ)
まず、自分の身体は自分ではよく分からない。医者や機械に診てもらわないと何が起きてるのか不明確。また、身体は他人や別のもの(義足など)と取り替え可能であるし事故などで喪失しうる、しかしその場合でも『わたし』は変わらない。では『わたし』とは物理的・身体的な特徴ではないのだろう。
(紆余曲折と少しの飛躍を行い)『わたし』とは社会的なルールを前提として『わたし』じゃない人との差分ではないだろうか。
つまり、『わたし』固有のものなんてなく、『わたし』は社会につくられた存在で、『わたし』とは他者にとっての他者である存在と言える。
他者との関わりの中でその人の自分への反応こそが自分であり、他人の他人として他人を鏡のようにしてでしか、自分を認識できないのである。、、、
と言った具合にかなり難しめのロジックが、優しい日本語で書かれている。一部理解不能な箇所もあったが、その部分を理解するには他の著書などを通じて著者の考え方を探る必要があると感じた。
以下の2点だけたまに思い出して生きていきたい。
・自分とは他人の反応の集合体。
・自分の認識している世界は自分だけのもので、死んでいる状態と実は同じではないか。(最終章のくだり)
以上
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自分とは何者か?を語ること、定義することって今までも本当に難しいと思ってましたが、その難しい問題をとことん色んな角度から考察して突き詰めようとする試み。
とてもいい思考の練習になりました。
私って何?自分らしさって?とアイデンティティに悩んでいる人は読んでみるといいですよ。著者がとことんその悩みについて付き合ってくれます。
そしてきっと、ちょっと気持ちが楽になって、家族や友人や会社や社会の人間関係の中にまた笑顔で戻って行けるのではないかなと思います。
最後に、個人的に「お〜!」と思った箇所を一つだけ引用。
“ちなみにドイツ語では、「ある」ということを「それがあたえる」( es gibt)と表現する。”
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「わたしとは他者の他者としてはじめて確認されるものだ」
私とはだれか、1人部屋の中で考えていても答えは見つからない。この本は繰り返し語る、わたしとは他者の他者である。言い換えてもおり、他人の中にじぶんが意味のある場所を占めているか、だそうだ。なかなか理解が難しい言葉だ。極端な例を挙げるとボランティアで肉体労働を望む若者たち、ヒモとなっている交際相手に身を削ってまで働き奉仕してあげる人、のような人で義務ではなく積極的にそれを行なっている人である、本書ではポジティブな受け身と呼んでいる。他人と積極的に関わっていく中で自分というものを規定できていくことだろう。
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この本を理解できるほど頭が良くなかった。
背景となる考え方・知識のレベルが違うので言葉を辿ることができずふるい落とされてしまう。
読者の立場としてはもう少し歩み寄って来てくれたほうがありがたい。
話のまとまりが見えず、話すために話しているようだった。
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じぶん、って何だろう? じぶんってどうしてここにいるのだろう? 考えても考えても答えが出ない問いかけを誰しもしたことがあるはず。この本を読んだからといって分かったということはないですが、所々 なるほど~と思いました。
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私は誰か?
結局は、最終的な解は存在しないと言う所に行き着くのだけども、様々な思想や具体例を挙げて、じぶんとは何かを説明している。
ただし、例や引用を挙げることで、かえって解説が冗長となって、退屈しなくもない。
この本から僕が読み取れたことは
”他者の他者である”自分
という考え。
自己(わたし)の同定には、他者が他者として自分に視線を向けている必要がある。
他者の自分に向ける眼差しや意識が自己を同定する。
しかし、その他者も、自己(わたし)が生み出すのだとしたら・・・と話はこんがらがるんだけども。
終盤は言語における自己の特定について説明が加えられていたのだけども、頁が少なくて残念。言語と自己の同定について、もう少し説明を読みたかった。
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【内容(講談社BOOK俱楽部より)】
わたしってだれ? じぶんってなに? じぶん固有のものをじぶんの内に求めることを疑い、他者との関係のなかにじぶんの姿を探る。
探せばどこかにじぶんはある?――「じぶんらしく」なりたい、じぶんとはいったいどういう存在なのかを確認したいと思って、じぶんのなかを探す。顔がいい? 走りが速い? 計算が速くて正確? 明るい? ……どれをとってもわたしだけに固有のものってありはしない。このような性質や能力はだれもが多かれ少かれもっているものだ。性別や年齢や国籍などというのは、それこそみんながもっている。だから、その1つ1つはだれもがもっているものであるにしても、それらの組み合わせにひとりひとり独自のものがあるのだ、というのは、そのときだれもが思いつく論理である。が、これがじぶんというものの、かけがえのない不二の存在を証しているなどというには、あまりにも貧弱な論理であるのは、だれもが直観的に気づいている。
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【目次】
プロローグ
1爆弾のような問い
2じぶんの内とじぶんの外
3じぶんに揺さぶりをかける
4他者の他者であるということ
5<顔>を差しだすということ
6死にものとしての<わたし>
エピローグ
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