【感想・ネタバレ】一般意志2.0 ルソー、フロイト、グーグルのレビュー

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Posted by ブクログ

ルソーによると、一般意志とは国人の意思の集合体である共同体意思のことを指す。したがって市民はこの一般意志に従わなければならない。ただし政府は一般意志を執行するための"代理機関"にすぎないため、市民は政府に服従しなければならないわけではなく、むしろ革命権を肯定している点はホッブズと異なる考え方。

現代社会において一般意志とは何か考えてみるとまず思いつくのは世論あたりになるが、これとは全く性質が異なる。なぜならルソーは一般意志について「一般意志はつねに正しく、つねに公共の利益に向かう」と述べているからだ。世論は、みんなの意思だがしばしば誤ることがある全体意志に該当することになる。

このように一般意志は人間の秩序(コミュニケーションの秩序)ではなくモノの秩序(数学の秩序)に属するため、必ずしも共同体の成員の合意は必要ではない。つまり政治にコミュニケーションは不要という奇妙な結論が導かれることになる。

コミュニケーションこの概念は常識的な意味での「政治」や「意志」からかけ離れているといえるが、現代の文脈においてGoogleのビックデータやSNS発信といった、膨大なデータ蓄積が進んだ現代社会に通じる点があり、もはやこのようなプラットフォーム上では個々人の思いを超えた無意識の欲望パターンの抽出が可能になっている(→データベース、集合知)本書では一般意志の概念全体を「一般意志」とした時、ルソーのテキストを総記録社会の現実の照らして捉え直し、それをアップデートして得られた概念を「一般意志2・0」と定義している。

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2021年09月18日

Posted by ブクログ

再読。今読み返しても、東浩紀さんの思想は変わらず、会社経営という形で実「戦」していることが分かる。分かりやすいところではシラスのコメントの流れ方を何故こうしたのか、数年の経験から悩み抜いた事がわかる。

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2021年02月21日

Posted by ブクログ

デジタル時代の民主主義の在り方について、10年以上前に出たこの本で触れているのは驚きです。政治にコミュニケーションは不可欠と思っていましたが、国民全員がコミュニケーションが得意なわけでもなく、ただ、こうして欲しいという潜在的な欲求は持っているもの。これをテクノロジを駆使すれは、一般意思として抽出できるという主張。
ある意味、最近話題の成田先生の著作「22世紀の民主主義」の問いに対する答えを準備しているかの内容。一読再読の価値ありと思います。ChatGPTなどの優れたAIまで実装された現在、一般意思2.0を把握するところまであと一歩。どこかの国で試験的にシン民主主義が始まるような気がします。あるいは国内の自治体で潜在的な住民意思を細かな政策に反映していけば、シャイで内気な人も含めて、貴重な民意が反映され、快適な生活を求めて移住する人も増えるのではと思いました。

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2023年02月25日

Posted by ブクログ

一般意志

ルソーの一般意志という概念を現代に蘇らせ、選挙や政治のない、欲望の集約が粛々と行われる新しい民主主義のあり方を論じた本。
一般意志という空気感をTwitterやニコニコ動画のイメージで技術的に可視化し、専門家の議論に制約を設ける。

たしかに技術的には出来そうだけど、実際はそんな既得権益を洗い流すようなことは無理だよね、というベーシックインカムに似た感想を持った。

また、SNSの一部の暴力性が問題となっている昨今の状況を踏まえると、一般意志の収集方法として人々の自発的な発信の集合を用いるのは筋がいいと思えない。Googleの検索履歴のような無意識の欲望はアリだと思う。

日本の新しい民主主義のかたちが見えるかもと思って手に取ったが、日本のようながんじがらめな国ではなく、もっと小国から実装が現実的であろう。


以下メモ

◯ルソーとは
ルソーは個人の社会制約からの解放、孤独と自由の価値を訴えながら、同時に故人と国家の絶対的融合、個人の全体への無条件の包含を主張した思想家。

人間嫌いでひきこもりで、ロマンティックで、繊細でいささか被害妄想気味な人物。
パリで長いこと過ごしながらも社交場に馴染めず田舎に移り、新エロイーズ等の恋愛小説はヒットした。

◯集合知の有用性
構成員個人の多様性が群衆の予測の正確性を増す多様性予測定理と、群衆の予測が構成員の平均的な予測よりも必ず正確になる群衆は平均を超える法則により、集合知は有用。

孤独な存在である人は自然状態では維持できず、社会を作らざるをえない。そこで社会契約を結ぶ。
個人が共同体に権利を譲渡し、個人意思の集合体である一般意志に市民は従う。この発想は全体主義を想起させる。

最初に社会契約があり、最後に統治機構が設定されるという順番が非常に重要。政府といった統治機構はあくまで一般意志の執行機関にすぎない

◯一般意志とは
・一般意志とは政府の意思でも個人の意思の総和でもなく、数学的存在で、個人の意思の総和から相反するベクトルを除いたもの

・ルソーは議会政治や政党の価値を認めていない。情報は与えられるべきだが、討議や意見調整の必要性を認めていない、差異が減ってしまうから。政治にコミュニケーションは必要ない。

Googleは意見交換もなく、検索により一般意志を形成している。一般意志とはデータベース。

複雑化し情報技術によりあまりにも可視化され情報が溢れた。議論を始めるための出発点の共有が難しい。ネットに満ちたコミュニケーションは公共的な理性の場に導かない。

メディアもGoogleも情報を減らす、複雑さを減らすことに価値があり、そこにお金を払う。
自分たちが何を本当に必要としているのか、私たち自身がわかっていないのではないか、無意識の欲望を探り可視化する装置を必要としている

ネットは無意識を可視化している、Googleは内容を一切考慮せず、ポジネが関係なく貼られたリンクの数でページの重要度を決めている。

◯総記録社会
・政府(公)と民間(私)の垣根を超えた市民生活全てを覆うサービスプラットフォーム(共)
・21世紀の国家2.0において、意識的な全体意思(一般意志1.0)と無意識的な一般意志2.0といつ分裂した両者の相克のバランスとして捉えるべきではないか。熟議の限界をデータベースで補い、データベースの専制を熟議の論議で押さえ込む国家。
・可視化された大衆の欲望という無意識は、社会を運営する上での条件、OSのような位置づけになる。

・政府と大衆を選良と大衆と捉えるべきではない、選良だと思われている人もある特定分野の専門家であるだけで、ポジショントークになりうるし、そのほかの部分では大衆と変わらない。
・ナショナリズムが魅力的なのは情動に根差しているから、すなわち無意識を拾い上げている。これに論理で対抗しても響かない。


◯一般意志の負の側面
・ルソーからの二世期半の間に一般意志が如何に移り期で残酷か、国家のナショナリズムに導かれて如何に暴力的になるかという危険性を思い知った期間だった。

・その間に生きたフロイトは無意識は制御されるもので、その制御が壊れることで人は病に陥ると考えた。その治療法は無意識の欲望を露悪的なまでに言語化することで進める。このアプローチが必要ではないか。

◯熟議と一般意志の融合
・大衆の無意識を如何に可視化し、専門家の熟議の場に介入させるか、そのインターフェース設計
・十分な議論を経た否の打ちどころのない合意も人々の欲望に支えられなければ力を持たないし、高邁な理念と開かれた制度も誰も参加欲がなけれび形骸化する。政治の困難は欲望の欠如にある。
・専門家と政治家の会議の場をネットに開放し、あくまで彼らの場としながら聴衆の感想を大規模に収集して可視化、議論の制約条件にする。
・全省庁や委員会を例外なく中継する可視化国家。リアルタイムなみんなの反映
・国家の運営を直接国民に委ねることは提案してない。膨大な知識を一人一人が身につけるのは不可能。ゼロベースではなくあるものへのツッコミとして使う。

◯ユートピアとは
・感情こそが世界を作る
・ユートピアは価値観ゼロ、生活様式ゼロの透明な存在、多様性が前提の統一された理想がない世界

◯夢を語る
・最小国家が暴力を管理し治安を維持する装置としてのみ存在(外交と防衛、警察)。理念や主義には関わらない
・動物的な生の安全は国家が保障し、人間的な生の自由は市場が提供


人間は自分の欲望を知らないという主張は今も認知科学や行動経済学

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2020年09月06日

Posted by ブクログ

現実味としては薄い感じがするし、たぶんルソー研究者から見たら異端なのだろうけど、「見える一般意思」という概念はワクワクしてしまう。
著者が真摯に考え抜いていることもよくわかり、その考えを一般読者に伝えたいという思いも伝わる。

賛否はあろうが、現代社会を考えるうえで目を通しておいた方が良い本であろうと思う。

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2018年12月27日

Posted by ブクログ

面白い。
わりと論旨はわかりやすくて、ルソーが昔語ったようわからんものだった「一般意志」は、現代のICT革命を経て可視化された。それを政治に活かしていったら面白いんちゃうん?て感じかな。
ルソーの一般意志って「人間は真理に自然とたどり着ける」みたいな人間への信頼感が根底にはあると思ってて、2.0ではその人間観はどうかなぁと思ったら、全然変わってないように見える。うーんどうなんだ。なんて読み進めたら、2.0はあくまでカウンターパートとして使うべき。みたいにあって。バランス感覚があるなぁ。なんて思ったけどそれって本末転倒というか、思想の鋭さが鈍った感じもする。そこから先の章は正直紙幅も足りてないしとっちらかってるから流し読み。
熟議やデータベースの限界性とか、人間は結局情念で動くとか、そんな知見も面白く読めた。
仮に一般意志を可視化できるものだとして、そこにはやっぱり頭のいい人たちが必要なんだよな。バイアス緩和のプログラムデザインする人とかね。可視化されたそれを踏まえ正確に読解し、かつ議論を進め、それと対決できる人はなかなかいるのかなぁ。憲法草案に対してだってバイアス取り除いて中立に誤読せず発議してる人だってネットでも少なく見えるのに。そんなことを考える2016年参院選の日。

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2016年07月10日

Posted by ブクログ

22世紀の民主主義を読んで、似た本を読んだことがあるのを思い出して再読してみた。解釈が難しいと言われるジャン・ジャック・ルソーが唱えた「一般意思」を哲学的な考察をしつつ現代(出版は2011年)に展開します。インターネットに散在する言説を無意識の集積としてビッグデータとして取りまとめ、それを一般意思として選良へ熟議を方向付けるとありますが、選良というより選悪なので難しそうです。

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2022年10月31日

Posted by ブクログ

1
Googleの創業理念「世界中の情報の体系化」
→ルソーの一般意志の実装化

『社会契約論』=個人主義どころか、ラディカルな全体主義の、そしてナショナリズムの起源の書として読むことができる

「個人の社会的制約からの解放・孤独と自由の価値」と「個人と国家の絶対的融合・個人の全体への無条件の包含」という矛盾

集合知・群れの知恵の再検討
→「多様性予測定理」と「群衆は平均を超える法則」

2
関係規定でなく、結合された人々、支配者も被支配者もともに属する共同体(→一般意志)を生み出すための本
社会契約(社会を作ることそのもの)→一般意志→統治機構

政府は一般意志の手足にすぎない
一般意志の執行は民主制より君主制のほうが適する
重要なのは国民主権だけで、誰が担うかはだれでもよい(→フランス革命)
←革命権を保証するもの
ホッブス『リヴァイアサン』

またこれらは虚構で、理念に過ぎない(学術的)

一般意志も全体意志も特殊意志の集合にかわりない
一般意志は共通の利害に関わる⇔全体意志は私的な利害の総和
→特殊意志はベクトル(数学的)、全体意志はスカラーの和

3
一般意志が適切に抽出されるためには、市民は「情報を与えられて」いるだけで、たがいにコミュニケーションを取っていない状態のほうが好ましい
=政治にコミュニケーションは必要ない

4
一般意志は人間による秩序の外部
公共性アーレント/ハーバーマス→熟議民主主義

シュミット
≒トーマス・フリードマンの「フラット化」

5
Googleやユビキタス社会
「一般意志はデータベース」
総記録社会
一般意志1.0は物語で存在しない
→一般意志2.0はデータベースとしてサーバにある(民間企業に占有されている)

6
「心の動揺」の起こし方

7
国民の必要なものをデータとして理解する
ルソーの立法者=精神科医
人間は中途半端に動物だから社会をつくってしまう

ネットには無意識が記録(可視化)されている?
夫と妻の非対称性
メタ内容的記憶保持
フロイト『日常生活の精神病理学』

8
総記録社会=市場原理主義・社会民主主義

自分自身を認識するために、国家とデータベースという二つの手段をもっている
いままでの自覚とは異なった自覚の回路が現れている
熟議の限界をデータベースの拡大により補い、データベースの専制を熟議の論理により抑え込む国家

大きな公共は存在できず、小さな公共の切り貼りで

9
一般意志をモノとして捉える

10
ひきこもりの作る公共性

11
無意識民主主義
激安の機能制限普及型政治参加パッケージ
ニコニコ動画の利用

12
市民の固有性を奪う

13
ローティのアイロニー=デリダの歓待の論理=柄谷のヒューモア
動物としての人間がたがいに憐れみを抱き感情移入しあう
Twitterについて

14
mixi民主主義 Google民主主義 Twitter民主主義

15
動物的な生の安全は国家が保障し、人間的な生の自由は市場が提供する

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2022年05月22日

Posted by ブクログ

ウェブ上で提供されるさまざまなサーヴィスによって人々の「動物的」な欲望が可視化され、「データベース」として利用しうるようになった現代社会の状況を踏まえ、それをルソーが説いた「一般意志」という謎めいた概念の現代的な解釈として捉えなおすことで、新たな民主主義の可能性を論じる試みです。

「文庫版あとがき」で明確に述べられているように著者は、大衆の欲望がそのまま実現されるべきだと主張しているのではありません。著者がめざしているのは、カントやヘーゲルの倫理学や、現代のアレントやハーバーマスの政治哲学が、理性に基づく公共性に高い価値を置いていることを批判しつつ、彼らの主張するような「熟議」が対峙するべき大衆の無意識的な欲望を「モノ」化し可視化するアーキテクチャを構築し、「欲望(一般意志)と政治(統治)のあいだの闘争のアリーナ」を立ち上げることを主張しています。

ハーバーマスのカント主義的な「公共性」を転倒するに当たって、ヒューム的な保守主義に回帰するのではなく、ルソーの一般意志の大胆な読み替えを通じて、ローティのプラグマティズムに近い立場へとジャンプするというアクロバティックな議論には、知的興奮を呼び起こされました。

ただ、単なる大衆の欲望への盲従に陥ることなく、著者の言う「欲望と政治のあいだの闘争のアリーナ」が、どのような原理に基づいて可能になるのかということが明確にされていないため、どうしても危うさを感じてしまいます。著者は、ローティの「憐れみ」に基づく連帯に希望を見ようとしていますが、やはり何らかの意味での「暴力批判論」による歯止めがあってしかるべきなのではないか、と考えずにはいられません。

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2017年09月07日

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