【感想・ネタバレ】キリストとイエス 聖書をどう読むかのレビュー

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Posted by ブクログ

実存的な立場からイエスの教えを解釈する試み。

K・バルトは自由主義神学を批判して、信仰を人間の意識の上に建てようとしていると述べた。これに対して著者は、バルトが聖書を通じてのみ私たちは真理に到達するというとき、どれほど価値があろうとも人間の言葉にすぎない使徒の言葉の上に信仰を立てようとしているのではないかと述べる。しかも、啓示に与った使徒を私たちとは無縁の存在にすることで、使徒の言葉は私たちに対する妥当性を失うのではないかと論じる。

一方ブルトマンは、『イエス』という著作の中で、人間ブルトマンと歴史上のイエスとの対話に信仰の始まりを置く、実存論的解釈の立場に立つ。この点で、ブルトマンと著者の立場は近いと言える。ただしブルトマンは、「人間イエス」からどのようにして「キリスト性」に重点を置くエルサレムの原始教団が生まれたのかを説明していない。本書は、この点に踏み込み、「イエス性」と「キリスト性」の統合を試みる。

著者は、「敵を愛せよ」というイエスの教えに独自の解釈を施す。愛にとって人の「資格」も「理由」も問題とはならない。むしろ愛は、人が最初から開かれた関わりの中にあるという、私たちの存在の「根底」である。このことをイエスの教えは示していると著者は考える。著者は、この存在の「根底」を説明するに当たって、おそらくシレジウスの言葉からの連想も働いていると思われるが、禅僧である柴山全慶の詩「花語らず」を引いている。花は無心にして、おのずからある。この「自然」のリアリティが、私たちの実存の「根底」だと著者は言う。律法主義からの解放は、こうした「自然」のリアリティに生きることだと解釈されることになる。

その上で著者は、「神の支配」をこうした実存の根底に重ねようとする。「神の支配」は人間が作るものではない。逆に人間の存在は「神の支配」を根底として成り立つ。この意味で、「神の支配」は上の「自然」と同義である。そして、イエスの弟子たちはイエスの死後、イエスをイエスたらしめた「根底」である「神の支配」を見いだし、イエス的に生きることを始めた。そして、彼らをそのように生かす「神の支配」を、イエスの復活体と解したのである。こうして著者は、「イエス」の実存とパウロの説く「キリスト性」の統合を図っている。

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2013年10月29日

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