【感想・ネタバレ】自由か、さもなくば幸福か? ──二一世紀の〈あり得べき社会〉を問うのレビュー

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Posted by ブクログ

自立した自由な個人を至上とした19世紀の夢は,20世紀に崩壊。いま個人の自由は幸福追及権に屈服し監視社会をもたらしつつある。その不可避性を見通し良く示してくれる好著。
事後救済という本質的な限界を抱えた法の支配は,ますます低コストになる監視技術・物理的抑止策による事前規制へと道を譲りつつある。それは必然的に自由を束縛し,個人の自律性を侵すものであるのだが,多くの人が安全安心を求める以上,もはやいかんともしがたい流れとなっている。この行きつく先はディストピアなのだろうか。別段そうでもないと感じるのは,著者の筆致に影響を受けすぎたためだろうか。

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2015年01月02日

Posted by ブクログ

論点の展開がよく考えられている良書だと思います。タイトルで自由の反対に幸福を置くのは違うのでは?と感じていたのですが、なるほどと思わせる展開でした。

自由は基本的な権利で不可侵であることと、社会性生物として功利主義は正しいがその最大化には「国」が「国民」をつぶさに知らなくてはいけない、というどちらも正しいがゆえに両立はしないことを、人が社会の中で重きを置いてきた権利の変遷で説明されているので、極論ではなく自然な議論なのだと納得することができました。

なので、この辺りの社会の在り方は、民主主義も含めて、答えというものはなく、時代の要請によって移り行くものなのだと考えることができました。(つまり、民主主義も変わる時期に来ている)

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2022年08月07日

Posted by ブクログ

一人ひとりが自由であることが幸福と結びつくというフィクションを信じられていた19世紀。でも、実態としては、このフィクションを実現できる人は限られていて、その他大勢は、このフィクションから排除されていた。さらに、その多くの人は、自由であることを重荷とさえ感じていた(自由からの逃走)。

個人の自由が政治に反映されるデモクラシー。そのデモクラシーの絶頂を迎えた20世紀。ワイマール憲法からヒトラーが、大正デモクラシーから軍部主導政治が生まれ、個人の自由は制限される全体主義の時代になる。自由主義側が戦争に勝ったかに見えたが、自由主義諸国の政治も、個人の自由を制限する政策を進める。

その自由の制限、監視が、政府だけではなく、様々なプレイヤーを通して行われるようになった21世紀。人々は、自由の制限に反発するよりも、監視から得られるベネフィットを喜んでいるかのようになった。

そんな時代の流れの中から、次の時代を考えるとすると、著者は、次の3つの方向があるのではないかと指摘する。

1つは、新中世の時代。
2つ目は、○○○○。アーキテクチャーによる統治。
3つ目は、ハイパーパノプティコン。皆が少しずつ監視される社会。

感想途中ですが、久しぶりにワクワクしながら読んだ本。

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2020年01月17日

Posted by ブクログ

ネタバレ

 私たち個人はより幸福になるために生きてるけど、私たちの文明は幸福というよりかは自由を拡大しようとしてない?ミクロとマクロでずれてない?なんて疑問が頭の中を漂っていたのでドンピシャな題の本書を読んでみました。
 一方、頭の中の別の所で「それは自己責任だから 〜」なんてことを安易に言ってるのを見たり聞いたりするたびに感じていた苛立ちがありまして、その苛立ちの理由もなんとなくわかりました。ですが著者は法哲学の専門家で、抽象と具象を行ったり来たりしてなかなかの難しさです。

 自己責任論の前段階には「自由=幸福」という巧妙で複雑なリベラリズムの理論があるらしく、このリベラリズムの理論は、19世紀に生まれたもので、それ以前にはなかったらしいです。つまりは国民の総意で国家を形成するという、自民の自己統治原理を有効にするために作られたイデオロギーです。自由意志による自己決定の集合が国家であるという今の形です。
 ですが、時代が進むにつれて、人間にはちゃんと自己決定できるような能力なんてないんじゃないという状況が出てきました。そんな現実に対応する形で作られたのが消費者保護法とか労働基準法という弱者保護の制度です。
 こんな風に、機能不全になっている「自由=幸福」というイデオロギーの上でしか了解されえない自己決定論に正当性なんてあるのでしょうか。これが私の感じていた苛立ちの正体でした。

 「自由=幸福」とされてきた時代では、「不自由=幸福」というパターンは顧みられることはありませんでした。ですが、井の中の蛙のほうが幸せなんじゃないかという疑問が、会社員とかブータンの人とかを見てるとふと頭をよぎります。そして実際「不自由=幸福」の社会に進みつつあります。例えば、有害サイトを表示させないgoogleとかゲーテッドコミュニティとか。

『「法」が、制裁の予告によって我々の自由を奪っていくのに対して、「アーキテクチャ」のもとでは行為の自由が最初から与えられていないのである。』

 初めから与えられていないのだから、制約されていることさえ気づかずに幸福な生活を送れるんでしょうけど、どうなんでしょうか、自由を求めて抗ってきた人々は骨折り損のくたびれもうけだったのでしょうか、やはり違和感があります。

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2015年04月03日

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