【感想・ネタバレ】論理哲学論考のレビュー

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語ることができない事柄の前では、沈黙しなければいけない。

古代の人々は神と運命を前にして歩みを止めたように。

明日太陽が上るというのは仮説でしかない…私たちはそれを知っているわけではない。

地頭がちがうとここまでわけがわからないのか…
私は勝手に私が閉鎖病棟にいた時に書いてた日記を思い出しましたよ、小難しいことを考えてしまう性格なのですよ、この人も!

自然法則を説明できるなんて勘違いしないことだ、我々が持っているのはただの仮説でしかない?という?

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2023年07月14日

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 ピエール・アド「ウィトゲンシュタインと言語の限界」後に再読。学生時代に1度、社会人のまだ若い頃に1度読んでいるが、今回改めて自分の読みの浅薄さを思い知らされた。丁寧に読むとかなりの時間を要する著作なのに、あまり読むのに苦労した記憶がないのだ。野谷茂樹氏の訳者あとがきに「『論考』という著作は妖しい光を放っている。読む者を射抜き、立ち止まらせ、うっとりさせる力を擁している。それはおそらくすばらしいことなのではあるが、危険でもある。うっとりしながら哲学することはできない。」とあるが、若い頃の僕はまさに『論考』の詩的かつキャッチーなセンテンスにうっとりし、それだけで何事か重要なものを把握したような錯覚に陥っていたのだ。それはもちろん僕だけではなかろう、本書からあの「語り得ぬものについては沈黙せねばならない」という命題のみを形式的に取り出し、「未だわかっていないものについては結論を出してはならない」などという陳腐で卑俗な読み替えを適用し、それをもって本書の主題だとする例に数多出くわすのだから。
 
 以前読んだ時は、クライマックスの命題6.4あたりからそれまでの理知的な論調から離れて、「倫理」「美」「神秘」「永遠」などの形而上学的な色彩の言葉が並ぶのに面食らい、なぜウィトゲンシュタインがそのような論理的なものから遊離した(と当時の僕には思えた)概念をこの段に及んで持ち出すのか、と訝しんだ記憶がある。だが上記「…と言語の限界」を経由した今ではそうは思わない。世界を「完結した総体」として「永遠の相のもとに」捉えると、そこには確かに論理では語り得ぬものが浮かんでくる。「倫理」や「美」「神秘」は、「物自体」のように全くリーチ不可能な形而上学的概念ではなく、言語の形式では表現できないが確かに我々に示されるものであり、だからこそ畏敬の念を伴って表されるものなのだ。

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2022年09月19日

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人が思考し得ないものについての論考。世界を言語が写像している事実の総体と定義し,世界全体を語るには言語をその外側に置く以外には不可能であるとし、語り得ないものに対して沈黙せねばならないとした。

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2022年01月28日

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哲学が言語に縛られているのと、哲学は言語を利用しているからとその言語について考えた書物。語り得ぬものには沈黙しなければならないはこの書の結論である。しかし、言語は意味のないものでも人々は話す。例えば、アーメンなどの祭儀の言葉など。これが哲学を終わらせたと考えていた作者が哲学探究へと移行する。

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2022年01月22日

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 私なりにこの本のキーワードは「限界」にあると思う。語りうることと語りえないことの限界、世界の限界、そして私の限界としての独我論。序文にも、「本書は思考において限界を引く。いや、むしろ、思考に対してではなく、思考されたことの表現に対して限界を引く」(p9)とある。
 本書のミソはこの「限界」が、まさにこの本の述べるところの「語りえないもの」、ということにあるのではないかと思う。だからこそ、「おそらく本書は、ここに表わされている思想は——ないしそれに類似した思想——をすでに自ら考えたことのある人だけに理解されるだろう」(p9)と言われ、そして同じことだと思うが「六・五四 私を理解する人は、私の命題を通り抜け——その上に立ち——それを乗り越え、最後にそれがナンセンスであると気づく。そのようにして私の諸命題は解明を行う。(いわば、梯子をのぼりきった者は梯子を投げ棄てねばならない。)」(p149)と言われる。
 ナンセンスを犯して紡がれた言葉、限界を踏み越えて語りかけてくる文章が、「論理哲学論考」の魅力になっているのだと思う。

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2019年12月12日

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やや読み飛ばしながら。概要は以前より未熟ながらある程度は知っているものを、きちんと読もうと思って手に取ってみたら案の定難しかった。20世紀西洋哲学における言語論的転回の主軸であり、相対性理論にも似た巨大なインパクトを持つ。古代ギリシアのテセウスの船など、子供が如何にも世界に対して眩暈し夜も眠れなくなるような問いに、一撃で一蹴する完結な回答を与えた。子供たちは安眠できるだろう。短い、断定的な各一行が美しく文庫本が付箋で汚くなった。大抵の問題は本書を理解すればすんなり解が得られる。ただし口数は減るだろう。

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2018年03月07日

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「論理哲学論考をよむ」を読んだ後に思い切ってページをめくってみた。
当時これはきっと既存の知の積み重ねだけでは理解ができなかったんだろうなと思う。
頭を空っぽにして一度、その思考にどっぷりと浸かって初めて片鱗を感じることができそうだ。
なんども「論考をよむ」と往復しなければとても自分には読むことができない。

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2014年09月05日

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ネタバレ

パラッと開いてみたらぶったまげた本。

「二・0一二四」という数字が各行(各論か?)の頭に振ってあり、その下に「全ての対象が与えられるとき、同時にすべての可能な事態も与えられる」とかいう文句がある。
この短くも長くもない明晰であり、しかし強く惹かれる怪しい魅力を放っている文章になんだか溜息がもれてしまう。

とにかく、タイトルと目次と段落と行の塊のような物語小説やビジネス書を読んでいると、この記述に面を食らってしまうこと間違いなしだ。
でも「ケッ!なんだこれっ」みたいな、つばつけてポイするような本でもなく、とにかく魅力を持っている。怪しくて魅力的なのだ。
本棚に入っていると気になってしょうがない存在感をも放っている。

なぜか、それはこの論理哲学論考の著者であるウィトゲンシュタインが、「私はどれだけのことが考えられるのか」と思い、思考の限界は言葉の限界であるということを、この本全体を通して表現しているからだ。

受験産業で現代文の参考書を書いている出口汪さんの「現代文講義(タイトルはうろ覚え)」では、言葉の限界について分かりやすい説明(も、うろ覚え)をしているので下に(うろ覚えだが)引用してみる。
『今ここにある週刊少年ジャンプ(手元に置いてある)を示す場合、「この週刊少年ジャンプ」と指をさして表現します。「週刊少年ジャンプ」といっただけでは、今までに発刊されたすべての週刊少年ジャンプを示してしまいますし、「この」がないと、いつ発売された何版の何号のどの週刊少年ジャンプなのか分かりません。「この週刊少年ジャンプ」をさす場合は、「この」という指をさすボディランゲージがないと「この週刊少年ジャンプ」、と正確に示す事はできないんです。これが言葉の限界です。「指をさす」というボディランゲージがないと、「この」週刊少年ジャンプを示して表現することができないんです』
という出口さんの説明でウィトゲンシュタインがこの本で何を言おうとしているのか私はやっと理解できた。
それは思考や表現には限界があるということだ。
なぜならば、私たちは言葉を使ってでしか思考や文章表現ができない。
言葉の限界が思考の限界なのである。

そこでジョージオーウェルが「1984年」という本の中で気になる描写をしていた。
とある帝国では、ニュースピークという新しい国語を制定して人々の思考をコントロールしようとしていた。ニュースピークは多義語がメインの言葉で、ある言葉の反対の意味を表現しようとしたら、その語の頭に「非~」とつけることでそれを表現する非常に簡単な言語構造をしている。この言葉は便利だ。しかし、多義語がメインなので具体的に考えることができない。人々から具体的な思考を奪うことで、その帝国は存続していく。というような描写だ。
これは現在の日本にも言えることで、「ヤバい」「かわいい」「わかんない」というような抽象的な多義語を使うことで、一応会話は成立してしまうが、具体的に考えることが出来なくなってしまっている人がいるのではないだろうか。
具体的に考えられないと、なにか特異な状況が自分の周りに発生した時に、どのような対処をすればいいのか分からなくなってしまうのではないだろうか。
何か問題が起こると反射的にネットでググって答えを得るのも、簡単かもしれないが、そのような対処法が公開されていなかったらその人はどうするのだろうか。
いろいろ考えてしまうがみなさんはどうだろうか?

最後に、「七 語りえぬものについては、沈黙せねばならない」という著者の立場に私は賛成する。
直観的なセンスが必要となる神秘と情緒の世界は、語ることができないと思われる。
具体的に説明すると、五十嵐大介の「海獣の子供」という漫画の最終巻の話は、語ることができない沈黙せねばならない類の話であると思う。
美麗なビジュアルで描く神秘的な世界は語ることができない。
称賛することはできるかもしれないが。

とにかく、言葉をつかった表現に取り組んでいる人へ、この本をおすすめする。
私たちが普段からしている思考や表現は、このような限界に満ちたものであるということを、この本と格闘することで実感してほしい。
そして新しい思考と表現のステージへと進んでほしいと思う。

本当ならば、岩波文庫の「論考」だけでなく、「ルートヴィヒ・ヴィトゲンシュタイン著『論理哲学論考』対訳・注解書」も併せて読むといいのかもしれない。
なぜならば、岩波文庫のバートランド・ラッセルの解説についてウィトゲンシュタイン本人は、「あなたは何も分かっていない」とケチをつけているからだ。
そのことについての詳しい説明は、こちらに書かれているので、より詳しく知りたい人には、岩波とこちらの両方をおすすめする。

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2013年11月29日

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言語の限界を明らかにすることで思考の限界を指し示し、命題に対する操作によって語られうることは全て明晰に語られうるのだと証明した上で「語りえないことには沈黙しなければならない」と断言する、20代のウィトゲンシュタインが残した生前唯一の哲学書。大半が難解な論理による分析方法に関する考察で占められているのだが結論直前では一転、倫理や幸福、死生観について触れられている。沈黙すべきなのは決して不要だからなのではなく、本当に大切だからうかつに語るものではないと言おうとしていたのではないか―そう考えるのは飛躍だろうか。

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2012年10月31日

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ネタバレ

ウィトゲンシュタインの「危険」な思考は、なんて魅力的なのだろう。

たしかにそうだ、語ることがその人の思考を作る。
当然それが限界となる。

しかも思考は言語でおめかしして、その真意を明らかにはしない。

他の問題が解決できても、生の問題は残る。
それを解消するまで考えねばならないのか。

神秘主義に、言葉遊びのような要素に、数式も現れる。

そして最後には梯子を外して、ウィトゲンシュタインを超えてゆけというのだから。

では限界を作る言葉を持って、いかにウィトゲンシュタインの世界を壊し新しい世界を構築すればいいのか。

何度読んでも刺激的だ。


ちなみに、円城塔の『次の著者に続く』にはウィトゲンシュタインからの引用があるのだが、なるほどウィトゲンシュタインと円城塔の思想というか作風は似てなくもない。

円城塔の前世はウィトゲンシュタインかもしれぬ。

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2012年05月20日

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1921年に出版された哲学書なんだけど、IT技術者が読むと、まるでプログラミングついて語られているかのように錯覚してしまう不思議な本。

たとえば「世界が私の世界であることは、この言語(私が理解する唯一の言語)の限界が、私の世界の限界を意味することに示されている。」とか。

論理的考察の果てにたどり着く真理が実に美しい。

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2012年02月27日

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誰でも一度は、しみじみと何かを考えることはあるだろうし、それの多くをこれから見出すことができると思える。
人と話をしていても、また何かで悩んでいる時、わりと「何かの定義」で割れていることもある。知らないことについては、何も言わない方がいいのではないか、と思うことも多い。
哲学は学説ではなく、行動である。哲学とは、「何かをしみじみと考えること。」に他ならない。

ヴィトゲンシュタイン自体は、この本を書いたあと哲学界から一度身を引く。何もかもやり尽くしたと思ったのだろう。彼は当たり前のことをだらだらと小難しく書き連ねているが、この本が評価されるくらい、哲学界は混迷に満ちていたのだろうか。

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2012年02月08日

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大学の試験からの逃避として読んでました。この本は「世界は成立していることがらの総体である」と始まり「語りえぬものについては沈黙せねばならない」という結論に至る。言いたい事はハイデガーが「存在と時間:第1章 存在の問いの必然性、構造および優位:第2節 存在への問いの形式的構造」で「問われているもの(存在)が、ある存在者の存在様態たる問いそのものへ、再帰的にあるいは先行的に、連関している」って言った事と似ているのかなぁと思った。問われる存在は、問う存在へ逆説的に問いの構造を作っているって言う事、そして僕らが普段「喋る」「話す」「書く」と第三者に問いているのは存在了解の上なのかなと考えさせられた。

まだ、本文を読んだだけなので、1、2割も理解出来てないだろうけれど、これから読むラッセルと野矢茂樹さんの解説から、さらに得る物があると思う。

読んでて思った事「これを逆に読んで、結論から入って演繹的に読むとまた違う発見があるかも」

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2011年07月21日

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枕頭の書に、もってこい、です。
すぐ眠れる。

最後の一行があまりにも有名だが、その少し前から、大変なものです。
恐れ入りました。

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2011年07月01日

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論理哲学論考
著:ウィトゲンシュタイン
訳:野矢 茂樹
岩波文庫 青689-1

難書 雰囲気しかわかりませんでした、第一、数学に出てくる用語でも、意味がよくわからない
論理式の展開についてゆけないです

■論理哲学論考(本文)

第一感、岩波文庫にしては、行間がゆったりしていて見やすいというものでしたが

次に、第二感、なんじゃこれは、番号と文章がひたすら、巻末までにならんでいる
つまり、「論理哲学論考」はネスト構造(入れ子)になっている、一連の命題と思われる
 
1世界は成立していることがらの総体である
1.1世界は事実の総体であり、ものの総体ではない
1.11世界は諸事実によって、そしてそれが事実のすべてであることによって、規定されている

7語りえぬものについては、沈黙せねばならない

そして、4.xxx ころから、数学の集合論と、論理記号が含まれるようになる
数学ではなく、定義があいまいな言葉を対象として論理を扱うので、違和感がありました

目次には展開されていないので、本書の構造を見出しのレベル1と2のみ記載すると以下のようになります

1.世界は成立していることがらの総体である
1.1 世界は事実の総体であり、ものの総体でない
1.2 世界は諸事実への分解される
2. 成立していることがら、すなわち事実とは諸事態の成立である
2.1 われわれは事実の像を作る
2.2 像は写像されるものと写像の論理形式を共有する
3. 事実の論理像が思考である
3.1 思考は命題において知覚可能な形で表される
3.2 思考は命題で表現される
3.3 命題のみが意味内容をもつ
3.4 命題は論理空間の中に一つの領域を規定する
4. 思考とは有意味な命題である
4.1 命題は事態の成立・不成立を描写する
4.2 命題の意味とは、事態の成立・不成立の可能性と命題との一致・不一致である
4.3 要素命題の真理可能性は、事態の成立・不成立の可能性を意味している
4.4 命題は、要素命題の真理可能性との一致・不一致を表現したものにほかならない
4.5 いまや、もっとも一般的な命題形式を提示することができると思われる
5. 命題は要素命題の真理関数である
5.1 真理関数は、一列に順序づけられる
5.2 諸命題の構造は互いに内的関係にある
5.3 すべての命題は要素命題に真理操作を施した結果である
5.4 ここにおいて、「論理的対象」すなわち「論理定項」は存在しないことが示される
5.5 いかなる真理関数も、要素命題に次の操作を反復適用した結果である
5.6 私の言語の限界が私の世界の限界を意味する
6. 真理関数の一般形式はこうである [数式が入る]
6.1 論理学の命題はトートロジーである ※トートロジー 同語反復
6.2 数学とはひとつの論理学的方法にほかならない
6.3 論理学の探究とは、(可能な)すべての法則性の探究にほかならない
6.4 すべての命題は等価的である
6.5 答えが言い表しえないならば、問いを言い表すこともできない
7. 語り得ぬものについては、沈黙せねばならない

もともと、哲学とは、論理であるから、わざわざ論理哲学としなくてもいいとおもっていましたが、論理記号をつかった哲学という意味なのでしょうか 数を扱う論理学が数学であるのに比して、言葉を扱う論理学が論理哲学論考と理解しました

ウィトゲンシュタインの時代は以下とされています

前期 論理哲学論考 略して論考
中期 哲学的文法、青色本
後記 哲学探究 略して探究

■ラッセルによる解説

・ウィトゲンシュタインが扱っている問題とは、ある事実が他の事実に対するシンボルとなりえるためにはそこにどのような関係が成り立っていなければならないのか⇒論理的問題であり、彼が扱いべき問題と解いています

・記号体系に関して論理学は2つの問題を扱っている
 ①いくつかのシンボルを組み合わせたときに、それが有意味なものとなりナンセンスにならないための条件は
なにか
 ②シンボルないしシンボルの組み合わせにおいて、その意味あるいは指示対象が一つに定まるための条件は何か

・これまで哲学的なことについて書かれてきた命題や問いのほとんどは誤っているのではなく無意味である

・彼は、言語表現を幾何学における射影になぞらえている

・記号体系に関する理論を、「われわれは事実の像を作る」と主張するところから始めています

・事実の論理像が思考であると言っています

・哲学の目的は、思考の論理的明晰化である 哲学は理論ではない、活動である
 哲学の本質は、解明することにある

・ラッセル氏は、論理哲学論考を数学的に改良を必要なものとし、有限の数しか扱えないといっています

・困難が特に際立ってくる問題は、一般性の問題といっています

目次
凡例

論理哲学論考


バートランド・ラッセルによる解説

訳注
訳注補遺 論理記号の意味について
訳者解説
索引

ISBN:9784003368916
出版社:岩波書店
判型:文庫
ページ数:280ページ
定価:850円(本体)
発行年月日:2003年08月
発売日:2003年08月19日第1刷
発売日:2015年05月07日第20刷

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2024年03月11日

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言語哲学における重要文献

フレーゲ、ラッセルの築いた礎に立ち向かうべく著された意欲作であり、出版のために解説を担ったラッセルですら十分に理解できていなかったという点も含め「ウィトゲンシュタインの衝撃」がいかに大きかったかを感じることができる。

哲学論究まで時間をかけて今後分析を進めていこうと思うが、事実/事態の区別、すなわち現実と可能性の峻別という視点、語り得るものと語りえないものを明確化しようとする思索は、示唆的なものが多かった。

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2023年11月12日

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 実際のところ本文はほとんど読んでいない。「高校生のための『論考』出前講義」を読めばだいたい読んだ気持になれる。(笑)
 「はじめに言葉ありき」の西洋と矛盾を含み言葉には頼らないことに真理を見言い出す東洋を比較する上で記号論の元祖とも言えるこの本の存在は実に大きいと思う。
 コンピュータのプログラミングの教育をウケているがその基本的なところはこの本の影響を色濃く受けているということが改めて分かった。

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2019年05月03日

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命題論理構造を哲学に持ち込こまんとする試み。論理式をメモりながら読むと面白い。数学もわかる理系の哲学者におすすめ。そういった人には読んでいると快感に襲われるでしょう。
ただ、彼の失敗もすぐに気づく。才能があるだけに惜しい。恩師がラッセルでなければよかったのだが。

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2019年04月10日

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ウィトゲンシュタインが生前に刊行した唯一の著書。
文章をいじくりまわして世界の可能性を思考の限界まで探っていく論理実証主義と呼ばれる思想の流れは、このウィトゲンシュタインに始まったと学生のころ学んだ気がします。
ふと思うところがあって今こうして読み返してみると、一切の実存への意思を排除したかのような内容が逆にスリリングであらたな魅力を感じました。
語りうる領域と語りえない領域との境界線画定を試みたと言われている本ですが、「語り得ないものについては沈黙せねばならない」というフレーズはあまりにも有名。
当たり前ですが、これは「語り得ないもの」を排除しようとしたのではなく、そうしたものを希求するがゆえに、安易な形で「語り得ないもの」が語られてしまうことを戒めています。語り得ないものを軽視しないで、どっからが語り得ないのかを意識しろよっていう。
かくしてポスト論理実証主義や分析哲学への道がひらかれたわけですね。

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2014年06月04日

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何回読んでも難解な本ですが、ようやくこの本の提示するスコープが見えてきたような気がしました。

①成立していることがら(=事実)から構成要素に分解する。
②それらの可能な組み合わせ(=事態)を記号(=像)にマッピングする(=命題)
③命題についていろいろ語って思考の限界を探る。
④語りえないものについては、沈黙しなくてはいけない。

正直なところ、解説を読まないと、何を言っているのかさっぱり意図がつかめないです。でも、解説を読んだ後で流し読みしてみると、そういうことか!という発見があります。

この本は、解説本を読んだ後にまた再読したいです。

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2012年09月27日

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ウィトゲンシュタインが生前刊行した唯一の著作。4.002、4.003(かの7の次に有名な箇所。哲学的命題や問いのほとんどは誤っているのではなくナンセンスなのである)、4.27、5.143、5.61、5.62、6.45(スピノザを念頭に置いた記述)に印がつけてあったが、さすがにもうほとんど内容を忘れてしまっている。ちくまの『青色本』に手をつける前に再読せねば。

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2012年03月20日

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噂は聞いていたが、本当に難解。著者の思考の1割も理解できたかどうか…。用語の定義の理解が不十分なまま読み進めたのは反省。言葉の定義を厳密にし、論理学で語れることと語れないことを区別している。わからないことだらけなのだけど、読み終えた後にパラパラと見返していると、番号で整理された一連の文章が、著者が自身の思考を言葉の限界を認識しつつも苦心しながら記述しようとした跡が感じられるように思えた。

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2011年12月24日

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[第19刷]2014年4月15日
訳者解説がわかりやすい。訳者著「・・・論考を読む」を先に読んではいたが、本文は読み物ではない。

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2022年05月13日

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超難解な内容。一度読んだだけでは理解できなかった。解説を読んで、ようやく何とか概略はつかめたけど…
研ぎ澄まされた雰囲気がよく伝わってきた。

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2021年05月03日

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論理の飛躍をしていると思うのだけどよくわからない
光文社古典新訳文庫の「高校生のための『論考』出前講義」を読めばよかったか
「を読む」「入門」本を読めばいいのかわからないまま青色本に進むのも手か
うーむ

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2019年10月22日

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思考に限界を引くには、我々はその限界の両側を思考できねばならない。従って限界は言語においてのみ引かれうる。そして限界の向こう側は、ただナンセンスなのである。
哲学の目的は論理的明晰化である。
哲学の仕事の本質は解明することにある。
もちろん言い表しえぬものは存在する。それは示される。それは神秘である

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2018年07月18日

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 大きなところから細かいところへ、すぐに浅いところへ戻るものもあれば深く細かく入り込んでいくところもある、ということが章立てのように細かく振ってある番号により可視化されている。そのおかげで何を問題にしているのか、何が気に入らないのか、どこで説明に苦慮しているのかが分かる。語られている内容よりもむしろ、ウィトゲンシュタインあるいは哲学者という人たちがどのような考え方をしているのかを、つぶさに見ることができたところが面白い。

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2017年10月08日

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浅く理解した。以下は私の勝手な解釈。
(ウィトゲンシュタイン氏はこんなことが言いたかったんじゃないか?的な)

哲学における命題は、だいたいにおいて、答えが出ないような構造になっているので、考えるだけ無駄(設計が悪い)。4.003

そして、この本では、良くない設計の命題がなぜ良くないかを主に解説している。

だから、私のこの本のそうした部分も含めて、(意義のない)哲学的命題について考えることから脱してほしい。6.54

哲学そのものを否定する訳ではない。哲学には思考を明晰化する働きがある。(きちんとした構造を持つ命題と向き合うなら)4.112

だから、どんな命題が(哲学的に)有意義かを確かめる基準として、私のこの本を使ってほしい。

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2013年07月27日

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友達が「人生で一番薦める本」的なことを言っていたので「そういわれたら読むしかねえな!」と思い手を出した本。

意味わっからーん\(^o^)/すげー直感的に感じたのは著者は「論理」を愛するあまりそれを殺してしまったんだな、的な感じ。論理が世界の中に存在していて、自身の存在を広げようと手を伸ばそうとするんだけど、世界という限界に阻まれてしまう。でも人が自分の目を見ることができないように、論理も世界を見ることができない。見ることができないというのは俯瞰することができないという意味なのだが、つまり見ることができないということは認識することができない、ということになり論理の可能性は限界がないことになる。みたいな感じがした。

ところどころ共感できる箇所もある。次に読もうと思っている「論考を読む」という本を読んで、論理哲学論考への理解をもう少し深めたいと思う。

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2012年01月05日

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ウィトゲンシュタインは、この本によって、哲学問題をすべて解決したと考えて、哲学から離れたのだという。とんでもない話しだけれども、そう言いたかった気持ちはよくわかる。
この本を書く時、おそらく著者は、さっさと哲学などという曖昧なものの根本的な部分を整理して見通しを立てて、余計なことを考えずに済むように片付けておきたいと思って書いたのだろうと思う。

この論考は結局のところ、人は何を理解することが出来て、何を理解することは出来ないのか、を区別することを目的としている。それは、哲学というものの輪郭をはっきりさせて、その限界を明確にしようという試みでもある。
そのたった一つのことを証明するために、きっちりとナンバリングされた一つ一つの論考によって、徐々に論理を展開して結論へと収束していくわけだけれども、その展開の仕方が、一分の隙もないぐらいに、アリの通る隙間もないようなやり方でレンガを積んでいくようなやり方で進んでいく。ここまで徹底して構築された思考というのは、美しいと思う。

その思考のベースにあるのは記号学と論理学で、それは、ロジックによって世界を記述するために最も適した方法として選択されたものなのだろう。
この本が出版された当時には、コンピューターというものは、まだ世の中になかったわけだけれども、コンピューターの設計には、このウィトゲンシュタインのような考え方は必要不可欠なものだろうし、もし、コンピューターが現実世界というものを解析しようとした場合には、間違いなくこの「論理的哲学論考」と同じ手法によって、世界を記述するはずだ。
これは、世界を表現するための一種の記述体系で、その点で、ニュートン力学やアインシュタイン物理学が創りだしたものと同等の意味と価値を持つ、偉業なのだと思う。

おそらく本書は、ここに表されている思想、ないしそれに類似した思想、をすでに自ら考えたことがある人だけに理解されるだろう。それゆえこれは教科書ではない。理解してくれたひとりの読者を喜ばしえたならば、目的は果たされたことになる。(序文 p.9)

私の為そうとしたことが他の哲学者たちの試みとどの程度一致しているのか、私にはそのようなことを判定するつもりはない。実際私は、本書に著した個々の主張において、その新しさを言い立てようとはまったく思わない。私がいっさい典拠を示さなかったのも、私の考えたことがすでに他のひとによって考えられていたのかどうかなど、私には関心がないからにほかならない。(序文 p.10)

3.02:思考は思考される状況が可能であることを含んでいる。
思考しうることはまた可能なことでもある。(p.23)

4.112:哲学の目的は思考の論理的明晰化である。
哲学は学説ではなく、活動である。
哲学の仕事の本質は解明することにある。
哲学の成果は「哲学的命題」ではない。諸命題の明確化である。(p.51)

4.115:哲学は、語りうるものを明晰に描写することによって、語りえぬものを指し示そうとするだろう。(p.52)

5.453:論理に数が現れるとき、それは必ずしかるべき理由を示されねばならない。
あるいはむしろこう言うべきだろう。論理には数など存在しないということをはっきりさせねばならない。(p.92)

5.454:論理においてはすべてはひとつひとつ自立している。それゆえいかなる類別も不可能である。
論理には、より一般的とか、より特殊といったことはありえない。(p.93)

5.6:私の言語の限界が私の世界の限界を意味する。(p.114)

6.4311:死は人生のできごとではない。ひとは死を体験しない。
永遠を時間的な永続としてではなく、無時間性と解するならば、現在に生きる者は永遠に生きるのである。(p.146)

6.44:神秘とは、世界がいかにあるかではなく、世界があるというそのことである。(p.147)

6.5:答えが言い表しえないならば、問いを言い表すこともできない。
「謎」は存在しない。
問いが立てられうるのであれば、答えもまた与えられうる。(p.147)

6.52:たとえ可能な科学の問いがすべて答えられたとしても、生の問題は依然としてまったく手つかずのまま残されるだろう。これがわれわれの直感である。もちろん、そのときもはや問われるべき何も残されてはいない。そしてまさにそれが答えなのである。(p.145)

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2020年07月15日

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