【感想・ネタバレ】父と子のレビュー

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Posted by ブクログ

登場人物が多くて、その上に名前がコロコロ変わるから最初の方はこいつ誰だ!?ってなった。

バザーロフがオジンツォーワに初めて会う時、そわそわしてるシーンがお気に入り。ニヒリストでデータしか信用しないぞ僕は!ってキャラなのに、美人なオジンツォーアに会うとソワソワしちゃう。
最初はなんか微妙な登場人物だなって思ってたけど、この辺りからバザーロフが好きになった。

バーヴェルペトローウィチが嫌な奴じゃなくて、イケメンで礼儀正しいって設定なのが良いね。
作者のあとがき曰く、ツルネーゲフは登場人物一人一人に敬意を払ってたらしい。決闘で死ななくて良かった。

最後バザーロフが呆気なく死ぬのはどう言った意味が込められてるのだろうか?アルカージイと別れてしみじみとした感じで終わるんだなと思ってたら、更に悲しい展開があった。
ワシーリイイワーノウィチが悲しむの見てると、こっちまで気持ちが伝わってきて悲しくなる。
個人的にはオジンツォーワと再開した所で終わりみたいな展開にして欲しかった。悲しい( ´・ω・` )


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2023年05月04日

Posted by ブクログ

これは傑作です!!!
言わずと知れたロシア文学界の巨匠の一人・イワン・セルゲーヴィッチ・ツルゲーネフの代表作『父と子』。
僕は、ロシア古典文学にちょっとはまっていてフョードル・ミハイロヴィッチ・ドストエフスキーやレフ・ニコラエヴィチ・トルストイの傑作を読み漁ってきましたが、実はツルゲーネフは初読みなのです。ですから今回は心して読ませていただきましたよ。

『父と子』ですが、ロシア語の原題では『Отцы и Дети』となります。
英題だと『Fathers and Sons』になっていますが、原題に忠実に訳すと
 『父親たちと子供たち(いずれも複数形)』
となります。
『Дети』は英語だと『Children』の意味ですので、英題に比べれば日本語題の方が原題には近いですね(笑)。

この日本語題名の『父と子』というと、イメージでは一つの家族のお父さんとその子供の話のように感じてしまいますが、本書の内容は二つの家族のそれぞれの息子(もう子供ではなく青年)を主人公とし、その父親や家族をめぐって物語が展開されます。
ですから日本語の題名も『父と子』ではなく、僕だったら思いっきり意訳して
  『二つの世代・息子と父親と』
みたいな題名を付けたいと思いましたね。

さて、話がそれましたが、この『父と子』は1862年、ツルゲーネフが44歳の時に発表された長編小説です。
この1862年というと1866年に発表されたドストエフスキーの『罪と罰』や1869年に完成したトルストイの『戦争と平和』などの傑作ロシア古典文学より若干早く出版されています。

ツルゲーネフは1818年生まれ、ドストエフスキーは1821年生まれ、トルストイは1828年生まれと、ツルゲーネフからトルストイまで約10歳の違いですが、ほぼ同時期に活躍したロシア文豪のこの3人。
この時代はまさに『ロシア文学黄金時代』と言っても過言ではありません。
ちなみにロシア近代文学の基礎を作ったと言われるアレクサンドル・セルゲーヴィッチ・プーシキンは1799年生まれなので彼らの親の世代だと言っても良いかもしれませんね。

思いっきり同世代であるこのロシア文豪の3人、ツルゲーネフ、ドストエフスキー、トルストイの中で、ツルゲーネフだけはドストエフスキー、トルストイと比べると若干影が薄い、というかあまり知られていません。
ツルゲーネフの代表作というとこの『父と子』のほか、『初恋』、『猟人日記』などがありますが、やはり大傑作であるドストエフスキーの『罪と罰』、『カラマーゾフの兄弟』やトルストイの『戦争と平和』、『アンナ・カレーニナ』に比べるとその知名度は格段に下がってしまいます。

しかしながら、今回この『父と子』をじっくりと拝読させていただきましたが、いやいや、これは素晴らしいですよ。
もう、間違いなく傑作です。
『カラマーゾフの兄弟』や『アンナ・カレーニナ』に勝るとも劣らない内容といってよいでしょう。

もちろん、この『父と子』は『カラマーゾフの兄弟』や『アンナ・カレーニナ』のような超大作(文章の分量として)ではありませんが、その小説の根底に流れる思想の深さや人間の真の姿を描いた文体の素晴らしさは、前記の超傑作に引けを取ることはありません。

この『父と子』のあらすじですが、二人の青年が主人公です。
一人はニヒリストを気取り、医術の世界で立身出世することを目指しているエフゲニー・ワシリーイチ・バザーロフ。
そしてもう一人は、大学を卒業したばかりでエフゲニーを心底尊敬しているアルカージー・ニコラエヴィチ・キルサーノフ。
そしてその二人の父親、エフゲニーの父親、ワシーリー・イワノヴィチ・バザーロフとアルカージーの父親、ニコライ・ペトローヴィチ・キルサーノフ、そしてニコライの兄、パーヴェル・ペトローヴィチ・キルサーノフ(アルカージーから見ると伯父さん)との関係性がメインで描かれていきます。
エフゲニー達の世代とニコライ達の世代との考え方の違いや金持ちで美しく若い未亡人であるアンナ・セルゲーヴィナ・オジンツォーワを巡ってのエフゲニーとアルカージーの三角関係などが、美しい当時のロシアの日常風景を通じて色鮮やかに描かれます。
そしてニコライをはじめとした地主達と農奴との関係やエフゲニーとアルカージーとの対照的であり、読者をあっと驚かせる怒涛の結末が待ち構えているのです。

そう、この物語はエフゲニーをはじめとする息子達の世代とニコライやパーヴェル達の世代との価値観の違いや考え方の違いを『父と子』という題名で表しているのですね。

本書は、農奴解放令が発出された当時のロシアの時代背景について深く考察され、新しい世代であるエフゲニー・バザーロフをはじめとする若者達の目を通じてロシアの姿が批判的に描き出されています。

読者の誰もが最初は、
  「エフゲニーっていけ好かない、すかした男だな」
と思うのですが、読み進めるにつれこのエフゲニー・バザーロフの魅力に憑りつかれてしまいます。

この『父と子』はもっと評価されるべきだと思いますね。
分量も『カラマーゾフの兄弟』や『アンナ・カレーニナ』のような大作ではなく、お手軽に読むことができますが、だからと言ってその内容は薄っぺらなものではなく、しっかりとロシア文学のエキスが堪能できるものが詰まっています。

ロシア古典文学には興味があるけど、ドストエフスキーやトルストイの大作を読むのは「ちょっと億劫だな」という迷える読書人の方がたくさんいると思いますが、ロシア文学初心者にこそ、このツルゲーネフの『父と子』をその第一歩として手に取ってもらいたいのです。


ここでロシア文学の初心者にとって、ロシア文学を読みやすくするコツを一つ紹介したいと思います。

いままで僕も何度かレビューで書いてきたのですが、ロシア文学は登場人物の名前の長さがたまらなくダメ、あるいは読んでいて誰が誰だか分からなくなってしまったという理由で挫折し、それ以降ロシア文学を敬遠するという方が少なからずいるかと思います。

実は、このレビューでもあえてロシア人の名前をフルネームで記載してきました。もう長くて嫌になります(笑)。

それでは、ロシア人の名前を理解するコツをお教えしましょう。

理屈が分かってしまえば後ははっきり言って簡単です。まず、ロシア人の名前は
  「名前(ファーストネーム)」+「父称」+「苗字(ファミリーネーム)」
の3つで構成されています。

この「父称」とはあまり聞き慣れないと思いますが、アメリカ人などの名前のミドルネームみたいなものと考えてください。
この「父称」ですが、必ず「名前」と「苗字」の間にあり、『父と子』の主人公の一人アルカージー・ニコラエヴィチ・キルサーノフで言えば、
  『ニコラエヴィチ』
の部分です。

この「父称」の『ニコラエヴィチ』というのは実は「ニコライの息子」という意味なのです。
ですから父親の名前を意味する「父称」という言葉が使われているのです。

「父称」の作り方ですが、自分の「父親の名前」の末尾に「ヴィッチ」や「イチ」という言葉を付けて作ります。
アルカージーの父親の名前は「ニコライ」ですから、アルカージーの父称は『ニコラエヴィチ』になる訳です。
しかし、これは男性の場合のみです。

女性の場合は少し違います。
女性でも必ず「父称」はあるのですが、例えばこの『父と子』に出てくるヒロインの一人で美しい未亡人アンナ・セルゲーヴィナ・オジンツォーワの場合、「父称」は『セルゲーヴィナ』です。
意味としては「セルゲイの娘」です。
本書の作者であるツルゲーネフの「父称」も同じく「セルゲイの息子」を意味する『セルゲーヴィッチ』ですが、女性の場合は、「父称」が『セルゲーヴィッチ』ではなく『セルゲーヴィナ』に変わります。
つまり、女性の場合は、語尾が『ヴィナ』や『イナ』になるのです。

実は、この変化の仕方は父称だけではありません。苗字(ファミリーネーム)についてもこの原則が適応されます。
先ほどのアンナの苗字は『オジンツォーワ』でしたが、これは女性形です。
男性の場合は、『オジンツォーフ』になります。

ファミリーネームの語尾が『ア』や『ワ』などの母音のアに近い形に変化するのが女性形の特徴です。
有名人でいえば、ロシア連邦の元首相
  ドミトリー・アナトーリエヴィチ・メドヴェージェフ
と2018年平昌冬季オリンピックの女子フィギュアスケート競技で銀メダルを獲得した
  エフゲニア・アルマノヴィナ・メドベージェワ
の二人ですが、苗字は『メドベージェ』までは同じなのですが、語尾が男性形『フ』と女性形『ワ』で変わっているということで同じ苗字でも男女の違いが現れてきます。
女子テニスで有名な
「マリア・ユーリエヴィナ・シャラポワ(男性形はシャラポフ)」
や初の女性宇宙飛行士
「ワレンチナ・ヴラディミロビナ・テレシコワ(男性形はテレシコフ)」
女子フィギュアスケートのトリノオリンピック金メダリスト・荒川静香さんのライバルであった
「イリーナ・エドゥアルドヴィナ・スルツカヤ(男性形はスルツキー)」
なども女性の苗字であることが分かります。

逆に、現ロシア大統領の「プーチン」の女性形ならば「プーチナ」、「ドストエフスキー」の女性形なら「ドストエフスカヤ」になるわけです。

ちょっと話はそれますが、日本の小説でロシア人を登場させる場合、この登場人物の名前の基本を誤って(知らないで)描いている場合があります。

例えば、日本のエリートサラリーマンが異世界に転生し、幼女になって第一次大戦と第二次大戦をごっちゃにしたような戦争を戦うという転生ものライトノベルの草分け的存在である『幼女戦記』という傑作長編小説がありますが、この小説の中で主人公のターニャ・デグレチャフ中佐の優秀すぎる副官を務めるヴィーシャ(ヴィクトーリヤ)・イワーノヴィナ・セレブリャコーフ中尉という美人女性士官が登場しますが、彼女の出自はロシアからの亡命者という設定です。

本来であれば、セレブリャコーフ中尉の名前は、女性形であるはずなので
  「セレブリャコーワ」
になっていなければならないのですが、作者はこれを誤って
  「セレブリャコーフ」
と記している可能性があります。
しかしながら、ヴィーシャの父称が
  「イワーノヴィナ」
というしっかりとした女性形になっているので、作者はあえてヴィーシャの苗字を「セレブリャコーフ」のままにしているのかもしれません。

この理由としては、ヴィーシャはドイツに亡命し、ドイツ軍人としてロシア軍と戦っているのでロシア式の女性形の苗字を使うことをやめ、あえて父親の苗字を名乗っているということが考えられます。
ただ、この『幼女戦記』の設定そのものが架空の世界の話なので、本当のドイツもロシアも登場しません。
ドイツであろう国は「帝国」と呼ばれ、ロシアであろう国は「ルーシー連邦」という名前で登場するのでこの「ルーシー連邦」では本来のロシア語の仕組みが適用されているかは定かではありません(笑)。

ここまで話した原則は、あくまで原則であり、男女の苗字が変わらないものもあります。
例えば元大統領の苗字「エリツィン」や男子フィギュアスケートの大御所の苗字「プルシェンコ」などは男女とも同じ苗字になります。
その他「○○チェンコ」や「○○ヴィッチ」などのような苗字の男女とも同じ形ですね。

さて、ずいぶん脱線してしまいましたが、なぜロシア語はここまで「父称」にこだわるのかというと、この「父称」の使い方はロシア語文化では重要な意味を持っているからです。

実はロシア語には敬称がありません。敬称とは日本語で言えば「○○さん」や「○○様」、英語で言えば「Mr.」や「Ms.」などの言葉です。

厳密に言えば「Mr.」に当たる言葉はロシア語では「Господин(ガスパージン)」、「Ms.」に当たる言葉は「Госпожа(ガスパージャ)」が正式にはあるのですが、これらはかなりかしこまった言い方であまり使われません。

もう一つ「友人」や「仲間」を意味する「Товарищ (タヴァーリシシ)」という言葉があり、以前は
  「Товарищ」+「苗字」
で、相手を敬意をこめて呼ぶということができたのですが、この「Товарищ」は、ソビエト共産党時代に「同志」という意味で広く使われました。
よく映画や漫画などで
  「同志スターリン!」
というセリフが出てきますが、あの「同志」です。
ですから、この「Товарищ」という言葉は、あまりにも「同志」のニュアンスが強くなってしまい、ソ連崩壊後の今ではほとんど使われません。
もし、使われるとしたら「皮肉」や「ジョーク」の意味が強くなっています。
その代わりに先ほどでた「Господин(ガスパージン)」の方が逆に今では復権してきているのです。

話を元に戻すと、ロシア語で一般的に丁寧に相手の名前を呼ぶ場合は、
  「名前」+「父称」
を付けて呼ぶのが一般的です。
つまり、本書の『父と子』で言えばアルカージーの父親を丁寧に呼ぶ場合は、
  「ニコライ・ペトローヴィチ」
と敬意を込めて呼ぶわけです。
日本語に訳せば
  「ニコライさん」や「ニコライさま」
と呼んでいるのに等しいことになります。

これは女性の場合も同じで『父と子』のヒロインのアンナの場合は
  「アンナ・セルゲーヴィナ」
と呼ばれています。

つまりロシア語の小説を読んでいて名前と父称をわざわざ付けて相手を呼んでいる場合は、
  丁寧に相手を呼んでいるのだな
と理解できるわけです。もしロシアに行くことがあり、ロシアの方をさりげなく
  「名前」+「父称」
を付けて呼んであげたら、相手のロシアの方は
  お、日本人なのにロシアのことよく分かっているな
と感心されること間違いなしです(笑)。

もう一つおまけとして付け加えますが、ロシア文学初心者を悩ますものに「愛称」があります。

「名著礼賛ギャグ漫画」として名高く、読書人の間でもひそかな人気を誇る施川ユウキ先生の漫画『バーナード嬢曰く。』の一場面でも、バーナード嬢こと町田さわ子がドストエフスキーの傑作『罪と罰』を読んでいる際、

  ソーニャとソーネチカは、マルメラードワでもあり
  ソフィアでもあって
  ロージャとロジオン・ロマーヌイチはどっちも
  ラスコーリニコフのことなのか・・・・・・
  ・・・・・・なんなのロシア人!

と激怒する場面があるのですが、今まで話した「父称」とこれから話す「愛称」を理解すれば、なんちゃって読書家のバーナード嬢もすっきりすること請け合いです。

まず、『罪と罰』に登場する主人公ラスコーリニコフの正式な名前は
  ロジオン・ロマーヌイチ・ラスコーリニコフ
ヒロインのソーニャの正式名は
  ソフィア・セミョーノヴィナ・マルメラードワ
です。
ラスコーリニコフの父称の「ロマーヌイチ」とソーニャの父称「セミョーノヴィナ」の意味についてはもう皆さんお分かりだと思います。
  ロマーヌイチは「ロマーンの息子」
  セミョーノヴィナは「セミョーンの娘」
という意味ですね。
さて、バーナード嬢を悩ませている「ソーニャ」「ソーネチカ」「ロージャ」はいずれも「愛称」です。
「愛称」を日本語で言う「あだ名」のことだと思っている方もいるようですが、それは誤りです。

ロシア語の愛称で相手を呼ぶ場合は、目下の人やかなり親しい間柄だと考えてください。例えば、
  男性の名前でロジオンであれば「ロージャ」
  イワンであれば「ワーニャ」
  ニコライであれば「コーリャ」となり、
  女性の名前でタチアナであれば「ターニャ」
  カテリーナであれば「カーチャ」
  ソフィアであれば「ソーニャ」や「ソーネチカ」
になります。
日本語で訳すならば「○○ちゃん」と呼ぶ感じが一番近いでしょうか。

ですから、本名がソフィアであるにもかかわらず、『罪と罰』のヒロインであるソーニャがことごとく「ソフィア」ではなく「ソーニャ」と表記されているのは、彼女が他の登場人物よりも年若く、また著者が愛着を持って表記していると考えられます。

同じように本書『父と子』でもヒロインのアンナの場合は、「アンナ・セルゲーヴィナ」とほとんど表記されているのですが、アンナよりかなり年下の妹・カテリーナの場合はほぼ「カーチャ」と表記されているので、そういったところでも小説内での登場人物の立場の違いが現れてくるのです。

おまけのおまけですが、先ほど出てきたライトノベル『幼女戦記』の主人公ターニャ・デグレチャフ中佐ですが、「ターニャ」はタチアナの愛称ですし、「デグレチャフ」という名前もロシア系の名前(※ロシアの有名な軍用銃で「デグチャレフ対戦車ライフル」という銃がありますが、この軍用銃を開発したのが「デグチャレフ」というロシア人です。「デグレチャフ」と「デグチャレフ」かなり似ていますよねw)です。
ヴィーシャの場合と違って、ターニャは小説内ではロシア系という文言はありません。
ですから彼女の場合、彼女の祖先はかなり以前にロシアからドイツに移民として移り住み、もう長くドイツ人として暮らしていたので彼女の名前には父称もなく、苗字も女性形ではなくなったということかもしれませんね。
まあ、ターニャの場合、赤ん坊のときに教会に捨てられていたということなのでそのあたりの詳細な背景は不明です(笑)。


という訳で、
  Kazzu008のロシア文学初級講座入門編
  【УРОК1(第1課)・くそ長ったらしいロシア人の名前の攻略法について】
はいかがでしたでしょうか?(←もはやブックレビューですらないw)

これでかなりロシア人の名前の仕組みが分かったかと思います。
この仕組みが分かっただけでもかなりロシア文学を読むのがはかどるかと思いますよ。

さあ、ロシア文学に取り組むべきか悩んでいる、ここまでこのレビューを読んでくれた迷える読書人のあなた!
勇気をだしてロシア文学への第一歩を踏み出してみましょう!

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2020年11月21日

Posted by ブクログ

(01)
ロシアに過ごされるひと夏の物語(*02)である.人物たちや彼女ら彼らの関係は様々ではあるにせよ,基本的には,二人組という単位があって,どのようなペアが組まれるのか,あるいはそのペアと別のペアが接近し,また3人組や5人組へと変奏されることもある.約30章からなる物語で,中盤の第14章の舞踏会のシーンにおいて人物たちは最もざわめいてはいるが,前後の章では,親子(父と子,母と子),兄弟姉妹,恋人未満たち,友人たち,夫婦たちという単位に還元される.そのなかでは,バザーロフとパーヴェル・ペトローウィチとがとりもつ関係は,遠い関係ともいえるが,社会的対立の様相は,この二人の関係に極まっている.

(02)
白樺を透かした木漏れ日が美しく,ここに現れるロシア人たちは,夏を焦がれ惜しむように,やたらと野外へと繰り出し,歩みをはじめる.朝食前,就寝前にも散歩をする.ニヒリストである前に,ナチュラリストでもあるバザーロフも歩みをとめないし,彼の勉強は,野外活動とともにある.
主要な人物たちは,庭というにしては大きな地所を有しており,農地として耕作者と関係を結び,地所の経営を行ってもいる.廃墟のような園亭もあり,決闘ができる森もある.長距離を移動するための馬車にも使用される馬が繋がれ,家主により菜園が営まれることもある.
都市での生活や屋敷の屋内での生活がある一方で,冬はともかくも夏場には,このように大地にまずは立ち,その上を歩く姿が19世紀(*03)のロシアにあったことを映し出している.農夫や使用人たちの点景も本書の魅力であるが,彼女ら彼らほど土地や屋敷に縛り付けられてないにしても,中流上流を動きまわる人物たちにも大地を踏みしめる足が(まだ)あったことは,物語の背景と相俟って,強く印象される.

(03)
世代間の対立と和解が本書の主題のひとつではある.世代とは何か.同じような時代に同じような土地で同じような生活を営む集団として描かれる.と同時に世代は回転し循環するような「無限の生活」の仕組みもみえている.
父の世代と子の世代は,結局は,同じような年齢で,同じような決意をして,同じような失敗を繰り返すのではないのだろうか.
すったもんだはありつつも,アルカージイもバザーロフも,そしてアンナも一度ならず,父や夫の地に腰を据えようとしている.あっちの父とこっちの地とあちこちへの往復運動は,主題の輻輳でもあり,近代の教養にあった移動性の表現でもある
わたしたちはひとところにとどまっていてはならない,という近代の要請を受け,家族や伝統的倫理は引き裂かれる.そのまさに引き裂かれようとする瞬間を描き,引き裂くことで,逆に伝統の結合のありようをも解剖的に記述した本書には,普遍的なものと特殊的なものとが見事に結実もしている.
アルカージイのアルカディア性,バザーロフのバザール性という,田園と市場の対比を持ち込んでも,またひとつの読み方が可能になるだろう.

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2020年01月19日

Posted by ブクログ

ツルゲーネフの最高の作品である。父たちと息子たちの世代の対立が柱としてあり、ニヒリストとはなんぞやの描写も興味深くおもしろい。それぞれの人の心のあり方を緻密に積み上げて、新しい時代に変わりつつある背景が浮かびあがっている。正に今の日本で読まれるのが望まれる。

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2015年03月08日

Posted by ブクログ

ネタバレ

本書は、ニコライやパーヴェルら父の世代(古い貴族的文化)とアルカージイやバザーロフら子の世代(新しい民主的自由的文化)の思想的な相違と衝突によって描かれている。ニヒリストである主人公バザーロフの持つ否定と破壊。しかし意志と知識を持ち合わせ前に進むエネルギーを持ち、かつ人間味も兼ね備え、そしてそれらが悲劇的に融合していく。

いつの時代にも、世代間には、相違があるだろうが、それを子の世代、父の世代がそれぞれどのように寛容になれるか、人間の器を問われますね。

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2011年10月23日

Posted by ブクログ

全然違う時代にかかれたのに主人公の若者たちに共感しまくり。なんかすっげーわかるわ・・・もうとりあえず古い価値観は全て否定したい!みたいな。そして分かり合えない父と子。大人と若者。いつの時代も存在するギャップってやつなんですね…。名作は時代を超える。たぶん。

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2009年10月04日

Posted by ブクログ

バザーロフにどっぷり浸かってました。ツルゲーネフの無常観みたいなのは凄く好き。ロシア文学は犬猿していたのですが、これにてはまりました。

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2009年10月04日

Posted by ブクログ

GW中に読みきることができた。本作はアレクサンドル2世の農奴解放令のときの作品である。本書を読んでいて、てっきり主人公はアルカージイかと思っていたのだが、若きインテリゲンチャたるバザーロフが主人公のようである。父世代の古き貴族的文化と新しい民主的文化の相克がモチーフであるが、この主題はグリボエードフの知恵の悲しみを彷彿とさせた。解説にはバザーロフのような若きインテリゲンチャのエネルギーの重要性を説いてるとあったが、バザーロフのロマンチズムへの揺らぎと最期を見ると、果たして本当にそれだけなのか疑問に思った。

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2021年01月21日

Posted by ブクログ

観念を重点を置き、世界を変えようとしない親の世代。

対して、若い世代は行動することを重点ををおいた。

これは、先に観念を作ったもの達がいたから、次に繋がったのではないだろうか。

世界は日々進歩している、前進するたび、過去のことは古く考える。
しかし、過去があるからこそ、新しいものが生まれるのだと知りました。

また、恋愛感情は必要ないと、考えていても人は誰かに恋をして、最後に求めるのは安心、恋したものを選ぶのだと思いました。

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2014年05月30日

Posted by ブクログ

新時代の子たち、旧時代の父たちの衝突をテーマにかかれたもの。この主人公?バザーロフがニヒリストの元祖。功利主義者で、現実主義者で、観念的なものはなんの役にもたたない!というバザーロフだけど、なんかかわいい。ロシア文学の大御所をとってかわいいは失礼だけど。笑
恋愛なんてロマンのさいたるものをもちろん愚弄嘲笑するけど、やっぱり感情には逆らえなくて、葛藤して、だからすごく歯がゆい結果に。でも、最後には……

友人アルカージイの恋との対比もおもしろい。

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2013年01月29日

Posted by ブクログ

初恋を読んだ頃はまだロシア文学に本格的に触れる前だったので感動は薄かったのだけど、この物語にはとても感動しました。

物語の展開にも文章にも一切の無駄がなく、描かれる自然や人物は素晴らしく魅力的。

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2012年01月13日

Posted by ブクログ

作者は詩人
物語を俯瞰的に眺めながらの進行におどろき。
作者のすごさを感じた。
当時のニヒリズムはまだまだ甘い。ニヒリズム的な黎明期だったからか。
考えが甘いと思った。

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2011年07月28日

Posted by ブクログ

他人の親の悪口をいうのは止めましょう。従来の親子意識に加え、貴族意識が絡まってくるので、この時点で小説のネタとしては合格なのだろう。父と子のやりとりはもどかしい。でもあるんだよな、こういう感じ。みんな仲良くしてよね。

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2011年05月08日

Posted by ブクログ

農奴解放という歴史的な1862年に書かれた作品。

初めて主人公に「ニヒリスト」を配し、この言葉を確立させたと言われる。これも「ニヒリスト」=「短絡的な無神論」ではなく、
硬直した思想や論理に現実的な考え方で臨む重要性を謳っている。

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2010年12月07日

Posted by ブクログ

はじめてのツルゲーネフ。知人に薦められて読む。
予想に反して、ニヒリストの話であることに驚く。
ロシア文学は、ドストエフスキーにしてもこの本にしても、政治的・改革的な熱情の発言が多い。

すがすがしい本。

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2010年10月23日

Posted by ブクログ

ロシア文学は登場人物の名を覚えるのに苦労するとのことだが、この小説は登場人物が少なくそんなこともなかった。
時代背景が窺える。
幸せについても考えさせられる。

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2009年10月07日

Posted by ブクログ

2007年03月04日
「マイ・ボス☆マイ・ヒーロー」というとても好きだったドラマにツルゲーネフという作家が出てきて以来、何かその作家の作品を読みたいな、と思っていました。たまたま池袋サンシャインで開催されていた古本市で『父と子』の文庫本が6冊ぐらいあったので、一冊買ってみました。
 ニヒリスト故に何もかも切り捨てるバザーロフは、自分の頭が考えることと心が感じることの葛藤に苦しみながら、最終的に自らも切り捨ててしまったのかもしれません… 対してアルカーヂイとカーチャの恋模様はワトーの絵画のようにふわふわとしていて、自分の考えに固執するバザーロフが哀れにさえ感じられます。
 おそらく初めて読み終えたロシア文学でしたが、ツルゲーネフの他の作品も含め、ロシアの文学作品もこれから読んでいきたいです。

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2009年10月07日

Posted by ブクログ

あっさりしていて、意外と世代間の違いとかあまり印象に残らなかった。バサーロフの親はひたすら不憫...

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2022年05月10日

Posted by ブクログ

ネタバレ

アルカージイ、バザーロフの子世代と、その親世代のすれ違い。一切を否定しようとするバザーロフたちも恋に落ちればロマンチストになってしまう。バザーロフに愛の告白を誘導しておいて拒否するオジンツォーワが謎。結局アルカージイはカーチャへの愛を選んでバザーロフトは決別し、バザーロフはオジンツォーワに愛されることなく戻った郷里で病死する。ニヒリストの挫折。

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2021年05月03日

Posted by ブクログ

 kazzu008さんのレビューを見て、読んでみようと思った。
 書かれた時代は1862年、ロシアの農奴解放の年である。「子」の一人はアルカーシャ。ロシアの田舎の大地主の息子で、貴族階級。もう一人の「子」はアルカーシャが尊敬する親友のバザーロフ。バザーロフは雑階級で医者の卵で何事も信じない「ニヒリスト」で、その新しい考え方がアルカーシャを魅了している。二人が大学を卒業して三年ぶりに帰省する際、アルカーシャは自分の家にバザーロフを連れてくる。貴族階級の古い頭の父親とその兄(伯父)には、バザーロフと彼に賛同するアルカーシャのことが理解出来ない。まだ、父親のほうは、最近の本などを読んで、一生懸命若者の考えを理解しようと努めるのだが、かつての貴族の栄光にしがみついて生きる伯父のほうは、バザーロフとは敵になってしまった。
 アルカーシャとバザーロフは、ある貴婦人を巡って三角関係になり、その頃から友情関係が怪しくなり、バザーロフの明晰さも狂いだす。
 バザーロフは雑階級だが、そうはいっても使用人に身の回りのことは何でもさせる家の出身だし、どちらも結局お坊っちゃんなので、二人が粋がって言っていることが机上の空論のように思えた。
 物語が急展開を見せたのは中盤を過ぎてから。「父」の世代は何もしない、格好ばかりの貴族だと思っていたが、実はロシア人ってすごく根深くて、重たい感情を持っているのだ。こういう根深さがロシア文学に重みを出しているのか。
 結局、幸せになるのは……。ロシア革命の半世紀くらい前の話。まだロシア社会は実際には大きくは変われなかったということだろう。
 ロシア文学は重厚で長大だが、ロシアは長く「指図するように出来ている地主とそれに従うように出来ている農民」に分かれていた国。ツルゲーネフも社会の動向をよく観察していた作家だが、大地主の息子だった。「従う」立場にあった人により書かれた文学があれば読みたいと思った。

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2021年02月01日

Posted by ブクログ

権威や既成概念を否定するニヒリストは唯物論者ではあるが、自然を基礎においていないため脆い。否定のための否定がアイデンティティになっているからだろう。正教会とカトリックによる差とルネサンスによる古典の再受容の有無が差になってしまったと考える。アルカーヂィとカーチャはアンナ・カレーニナのリョービンとキチイを想い起こさせる。

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2011年06月16日

Posted by ブクログ

[55刷]昭和60年8月5日
旧版(1951/04)(ISBN-10:4102018018)を所持
画像は、新版(1998/05)(ISBN-10:4102018069)
カバーのタイトル文字色が「緑」と「赤」の違い。

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2009年10月22日

Posted by ブクログ

学生時代に読んで、内容すっかり忘れた…。また読もうかなー。ロシア文学は登場人物の名前が覚えられないのがつらい。

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2009年10月07日

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