【感想・ネタバレ】「関ヶ原合戦」の不都合な真実のレビュー

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Posted by ブクログ

関ヶ原の戦いを学校の授業で習った時のイメージは、「天下分け目の合戦」と言いながらも、一日であっけなく終わってしまったというものでした。

両軍合わせて十万人を超える将兵が戦ったにしては印象が薄かったのですが、この合戦を取り扱った歴史小説を読むと、本戦に至るまでに、日本各地で様々な前哨戦が行われていただけでなく、豊臣秀吉が死去してから「関ヶ原の戦い」に至るまで、多くの出来事があることが理解できました。

この本のテーマ「不都合な真実」の一つとして、家康が関ヶ原の戦いを戦ったときは、当時の政権に反抗していた「賊軍の将」であって、それが当時の豊臣政権からお墨付きをもらったはずの「上杉征伐」をしている間に、転落してしまったことでした。

西軍代表である「毛利輝元」は、関ヶ原の戦いに意欲的で、西日本中心に領土を広げていたことも知りました。敵中を突破したことで賞賛される島津軍が、なぜ寡兵で臨まなければならなかったのか、等、面白い話満載でした。

最大のクライマックスとして知られている、小早川秀秋の裏切りは、戦いの開始と同時に行われて、そのためにすぐ戦争が終わったことも意外な事実でした。これも、ドラマや小説にするには、不都合な真実ですね。

以下は気になったポイントです。

・これまでの毛利輝元像とは全くの逆の姿が晒されて始めている。西軍総大将の座に就いたのを機に、毛利家の版図を拡大させようと目論んでいた(p6)

・秀吉は、坂東は家康、坂西は、毛利家の二人、輝元と隆景に統治を任せようとした(p38)

・五大老は同格ではなく、家康・輝元(隆景)が副総理格、利家・秀家・景勝よりも上であった(p40)

・秀吉死後、三成は清正や長政たちの武功派諸将からの襲撃の危機にさらされるが、その直接の原因は朝鮮出兵での対立にある(p55)

・豊臣政権は、家康と利家の連立政権であったが、家康が伏見、利家が大坂という二元政治であった。五奉行も分けられた(3奉行が伏見)(p60)

・利家の警護をしたのは、加藤清正、細川忠興、浅野幸長、であった。武功派だが、利家とも親交あり、家康の屋敷に駆け付けた、正則・黒田長政、池田輝政、藤堂高虎と二つに分かれた(p70、71)

・吉川元春は勝家、小早川隆景は秀吉と交渉して、毛利家は両天秤をかけた。そのため両者の家から人質が求められた。東軍に内応した、吉川広家と、西軍で奮戦した小早川秀包である(p117)

・事実上家康に屈服していた輝元は、秀元分知問題でも家康に介入されて危機感を抱いた。これが西軍の総帥の座に就いた理由(p129)

・宇喜多秀家は、重用した新参の家臣たちに検地を担わせた。彼らには「浮田」の苗字を授けた(p133)

・島津家は、家康に接近していた義久、家康の介入を防ごうとした義弘の対立があった(p142)

・毛利勢が大阪城西の丸に入った7月17日、奉行衆は「内府ちかひの条々」を全国の諸大名に向けて発した。この日、家康は大老職を解かれて、豊臣政権の討伐を受ける立場に転落した。この事実を家康が知ったのは29日(p180、190)

・西軍は秀頼を奉じる豊臣正規軍、東軍は豊臣政権から弾劾された家康を盟主とする反乱軍であった(p182)

・わずか2日での秀信の岐阜城陥落は状況を一変させた(p229)

・大津城の攻防により関ヶ原に向かうはずだった1万五千人を大津で足止めさせたのは、大きな影響を与えた(p248)

・開戦開始(午前10時)すぐに、秀秋が大谷軍に攻めかかって総崩れとなったのが真相(p275、277)

・家康が江戸にとどまらざるを得なかったのは、正則たちの裏切りと、景勝の関東侵攻への懸念であった。これは三成のお狙い通り(p302)

2015年10月31日作成

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2015年10月31日

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